相模台(さがみだい)は、神奈川県相模原市南区の町丁および同市の地区名であり、座間市相模が丘が住居表示を実施する前の大字名である。現行行政地名は相模台一丁目から相模台七丁目。住居表示実施済区域[5][6][7][8]。
概要
相模原市の町丁、座間市相模が丘が住居表示を実施する前の大字名。ともに小田急小田原線小田急相模原駅の近隣を範囲とする地名である。相模原市の地区名としてはさらに広く、南区の中央部を占める。
歴史
この頁は相模が丘・南台をあわせて参考にされたい。
相模原市相模台は、旧磯部村・旧新戸村の一部であり、明治の大合併で新磯村となった。周辺地区同様相模野・座間野・芝原(しばあら)と呼ばれる原野の一部であり、それまで人が誰も住んでおらず、江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった[注釈 22]。地籍は新戸村・磯部村であったが、相模原市相模台は広野台・相模が丘と一括りに、座間野九ヵ村[注釈 23]の内、座間宿村の入会地とされていた[19]。
1937年に陸軍士官学校の座間への移転に伴い、1936年から旧麻溝村から南隣の旧新磯村にかけての台地上の土地の大部分が陸軍に買収され、士官学校の演習場とされた[注釈 24]。
陸軍に演習場として土地を買収された麻溝村・新磯村の失地耕作者の対応として麻溝台東端付近一帯に、1936年12月認可の「芝野耕地整理組合」を設立。しかし面積は失地地積の六分の一に過ぎず、さらに1937年12月知事の認可を得て「芝原耕地整理組合」を設立した。1940年3月建立の記念碑が県立相模原公園体育館駐車場、交番の近くに移設。記念碑裏面には当時の関係者77名の名が刻まれている。尚、麻溝村失地耕作者の内30名は陸軍士官学校その他に就職した[20]。
大東亜戦争敗戦後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 25]。
旧新磯村と旧麻溝村にまたがって広がっていた旧陸軍士官学校の相武台練兵場(軍事演習場)が払下げられて引揚者の入植による開墾が行われた。その際、練兵場であった相模台の内、一丁目・二丁目は、上述の政策に基づき農業集落として「新興帰農」、相模台三丁目~七丁目は新磯野・相武台団地・相模原市相武台三丁目と一括りに「新磯台帰農」とされた[注釈 26][21][22]。
1951年1月、相模原町はこの区域に大字新磯野、大字麻溝台の2つの大字を起立している。1950年代に入り、小田急相模原駅周辺および同駅と国立相模原病院間の街路を中心とした区域で市街化が始まり、それは1960年代以降も急速に進行した。
1948年9月1日に相模原町より分離独立した高座郡座間町は、終戦直後から小田急相模原駅周辺の大字座間、大字新田宿飛地である現区域での市街化の進行とともに救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)[注釈 27]、1959年4月20日に、小田急相模原駅に近い座間町北部の大きな区域を占めるこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。
1963年には、神奈川県立相原高等学校の化学工業科が分離独立する形で、のちに全国高等学校ラグビーフットボール大会(通称・花園)を1993年と1994年に2連覇し、「台工」の愛称で親しまれた神奈川県立相模台工業高等学校[23]が開校し、1966年10月には国立相模原病院の南に隣接して日本住宅公団相模台団地が竣工し入居開始、翌1967年4月1日に相模原市立相模台中学校が開校されるなど、相模原市で「相模台」の地名が多く用いられるようになった[注釈 28][注釈 29]。
相模原市は1969年7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字新磯野および大字磯部の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目の町丁を起立し、翌1970年7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目および相模台団地の各町丁が起立されたが、高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台とが隣接して併存することとなった。
1971年11月1日に市制施行した座間市が、相模原市に遅れること12年後1981年6月1日に大字相模台地区で住居表示[注釈 30]を実施した際、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために座間市大字相模台を座間市相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目と改称し町丁に変更した[24]。
地理
以下の節では、相模原市南区相模台一丁目〜相模台七丁目の区域について述べる。
相模原市南区のほぼ中央に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅と国立相模原病院とを結ぶ街路と神奈川県道507号相武台相模原線(「村富線」と呼ばれる)に挟まれた部分を領域とする。敗戦前は陸軍士官学校演習地の一部であったが、戦後に開放されて当初は農地として開墾が進められた。しかし小田急相模原駅に近いことから、東部から順次市街化が進行し、1980年代までにほぼ全域が宅地化している。ただし、この宅地化は全域にわたって計画的に行われたものではなく、各区画で無計画に虫食い状に進められた(スプロール化)。元の開墾農地の地割を反映して街路網自体は直線的だが全体の統一性はなく、袋小路も多く存在する。
小田急相模原駅と国立相模原病院の間の街路は隣接する南台五丁目・六丁目との境界をなし、街路に沿って商店街が形成されている。小田急相模原駅前および東側、さらに座間市側の商店街と合わせて、地域の商業中心を構成している。
地価
住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、相模台二丁目17-8の地点で21万8000円/m2、相模台三丁目10-10の地点で18万9000円/m2となっている[25]。
世帯数と人口
2020年(令和2年)10月1日現在(国勢調査)の世帯数と人口(総務省調べ)は以下の通りである[1]。
丁目 |
世帯数 |
人口
|
相模台一丁目
|
920世帯
|
1,670人
|
相模台二丁目
|
2,141世帯
|
3,626人
|
相模台三丁目
|
1,100世帯
|
2,225人
|
相模台四丁目
|
1,076世帯
|
2,111人
|
相模台五丁目
|
614世帯
|
1,412人
|
相模台六丁目
|
953世帯
|
2,177人
|
相模台七丁目
|
1,317世帯
|
2,962人
|
計
|
8,121世帯
|
16,183人
|
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2018年2月時点)[31]
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[32]。
丁目 |
事業所数 |
従業員数
|
相模台一丁目
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60事業所
|
538人
|
相模台二丁目
|
95事業所
|
530人
|
相模台三丁目
|
47事業所
|
249人
|
相模台四丁目
|
56事業所
|
290人
|
相模台五丁目
|
39事業所
|
281人
|
相模台六丁目
|
58事業所
|
426人
|
相模台七丁目
|
69事業所
|
369人
|
計
|
424事業所
|
2,683人
|
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
交通
鉄道
道路
相模台まちづくりセンター
- 南台一丁目〜六丁目、相模台一丁目〜七丁目、相模台団地、桜台、御園四丁目・五丁目、双葉一丁目・二丁目、麻溝台一丁目(東半)・二丁目〜六丁目・七丁目(大部分)・八丁目、北里二丁目、新磯野二丁目(一部)、大字上鶴間、大字麻溝台(一部)、大字新磯野(一部)
その他
日本郵便
参考文献
- 『広報ざま縮刷版 第1巻』
- 『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行
- 『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』発行:昭和61年
- 『座間むかしむかし第25集』発行:平成15年3月28日 発行者:座間市教育委員会
- 『広報ざま縮刷版 第1巻』
- 『相模原市史第4巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和46年3月18日
- 『相模原津久井・町田の電信電話史』相武電鉄上溝浅間森車庫付属資料館 平成31年3月10日発行
- 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行
- 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著
- 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房
脚注
注釈
- ^ 『相模原市史第4巻』655頁には7,608人と記述あり。
- ^ 『相模原市史第4巻』650頁には「昭和16年4月29日天長節の佳日、二町六か村は合併し、ここに面積108.71平方キロメートル、人口45,482人の町としては日本最大の相模原町が誕生した。※原文ママ」の記述あり。
- ^ 日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、この時点で一部地域を除き、ほぼ全ての日本軍の戦闘行為が停止された。『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 pp.277-278
- ^ 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行82頁【米駐留軍の陸士接収】には「昭和20年9月5日、米陸軍第一騎兵師団第四平站廠として米軍進駐」とある。
- ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日に市制施行し人口約8万人の相模原市が発足した。
- ^ 完成は1963年度の年度末である1964年3月。
- ^ 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が発効し、第二次世界大戦終結(日本の降伏)の1945年9月2日以降、連合国軍占領下により停止状態にあった日本の主権が回復した日付に基づく。
- ^ 相模が丘の元の大字である座間と新田宿は用水組合に加入しなかったため用水を利用出来なかった(※新田宿・座間・座間入谷の三地区には水田があり困らないこと、工事負担金と使用量が相当高額になってしまうことが理由である)。しかし水路に当たる畑の所有者は、苦労して入手した畑だったが喜んで提供した。東西二本の幹線水路を、きれいな相模川の水が勢いよく流れた。夏の作業の終わり土と汗で汚れた身体をこの水で洗った時の気持ち良かったこと。陸稲の畑に水を流した。昔は豊作で三俵くらいしか穫れなかった米も、六俵の収穫があった。長い間望んでいた、豊かな農地が生まれた。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 48頁 畑地灌漑事業の完成◇四・終戦~再び開拓、『座間むかしむかし第25集』 相模が丘(芝原)の移り変わり 5食糧難と畑地灌漑8頁~11頁
- ^ 『座間広報』第64号 昭和34年7月15日発行1頁に「大字相模台の設置~従来とかく相模台の新田宿と新田宿が間違れ迷惑する事が多かったのでこれを除くため芝原の行政道路(鶴間行)以北を相模台とし、小字は北広野・中広野・南広野とした。※原文ママ」と記述あり。
- ^ 町田市(柿生交換局管内の三輪町を除く)、相模原市上鶴間・麻溝台・鵜野森全域、大沼の大部分、磯部・新磯野・古淵の一部、座間町相模台の大部分※1960年6月19日当時。
- ^ 旧相模原電報電話局、後の橋本分局。市外局番027・市内局番7 『相模原津久井・町田の電信電話史』48頁。
- ^ 市外局番0274市内局番なし 『相模原津久井・町田の電信電話史』43頁。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』51頁。1961年11月5日の全国ダイヤル自動即時化まで、市外局番:東京23区03、川崎04、日吉046、中原047、溝ノ口048、登戸049、横浜05、藤沢066、武蔵野三鷹022、武蔵府中0236、調布024、立川025、八王子026、青梅028,町田0274、相模原(旧相模原電報電話局、後の橋本分局)027、川口082、浦和086、市川073、松戸0739、船橋074、千葉072、野田0712、柏0716、大阪06。名古屋は交換手扱い。
- ^ 経済復興にともない加入申し込みは増加する一方で、電話の架設が追いつかない状況、すなわち〈積滞〉が深刻化していた。この時町田局管内は1000回線を超え、小田急相模原駅周辺には既に1000番台が割り当てられており新たに4000番台が、原町田区域・相模大野駅周辺区域には2000番台・3000番台が割り当てられた。市外局番設定0274、市内局番なし 小田急相模原駅周辺・例①旧表記・町田1xxx番→新表記・0274-1xxx、例②旧表記・町田xxx番→新表記・0274-4xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶旧表記・町田xx番→新表記・0274-20xx、例❷旧表記・町田xxx番→新表記・0274-2xxx、例❸旧表記・町田xxx番→新表記・0274-3xxx。『相模原津久井・町田の電信電話史』43頁
- ^ 1961年11月5日、全国ダイヤル自動即時化に際し、都内除く南関東地区に04が当てられた<日本における市外局番の変更>。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』51頁 川崎044、日吉0446(1966年7月10日044-61に変更→1990年10月1日、現行の045-561に変更)、中原0447(1966年12月4日044-72に変更)、溝ノ口0448(1964年10月25日044-82)に変更、登戸0449(1963年12月8日044-91に変更。1965年12月12日柿生交換局は自動即時化044-98、1965年11月26日登戸局百合丘分局開設、自動即時化044-96)、横浜045、戸塚04692(手動即時、1962年3月11日自動即時化045-88に変更)、武蔵野三鷹0422、田無0421、武蔵府中04236、調布0424、八王子0426、青梅0428、町田04274、相模原(後の橋本分局)0427、小田原0465、国府津04650(※1963年10月1日、0465-47に変更)、箱根0460、湯河原04606、厚木0462(※1963年12月5日ダイヤル自動即時化)、大和0462(※1964年2月23日ダイヤル自動即時化)、煤ヶ谷046288(手動即時)、藤沢0466、鎌倉0467、茅ケ崎04670、横須賀0468、三浦04688、逗子04693、大磯・二宮・秦野0463、西秦野0463-01、平塚0463(※1964年5月31日ダイヤル自動即時化)、川口0482、浦和0486、越谷0489、市川0473、松戸04739、船橋0474、千葉0472、野田04712、柏04716、名古屋052、大阪06となった。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』50頁 小田急相模原駅周辺・例①04274-4xxx、例②04274-1xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶04274-20xx、例❷04274-2xxx、例❸04274-3xxx。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』57頁 特殊番号(非自動化地域への通話)103・108(受話器を取り103ないし108をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、電話を切らずに待つ・手動即時通話)、106(受話器を取り106をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、一旦電話を切って待つ・手動待機通話)
- ^ 例①旧表記04274-4xxx→新表記0427-22-4xxx、例②例旧表記04274-1xxx→新表記・0427-22-1xxx、例③旧表記04274-20xx→新表記0427-22-20xx、例④旧表記04274-2xxx→新表記0427-22-2xxx、例⑤旧表記04274-3xxx→新表記0427-22-3xxx。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』50頁 相模原市の町田局管内を除く、旧・相模原局(後の橋本分局・市外局番0427)外、各手動式交換局を統合した新・相模原電報電話局開局につき市内局番設定(52<中央、相模原、清兵衛新田、淵野辺、矢部、上溝・大沼の一部>・62<上溝、田名、大島>・72<橋本、相原、下九沢、上九沢>・78<当麻、下溝>)。同時に町田局市外局番04274を相模原局と同じ0427に変更、市内局番22を設定。相模原局‐町田局間、準市内扱いで単一料金にて通話可能となる。※1964年1月30日当時。
- ^ 例①0427-22-4xxx→0427-44-4xxx、例②0427-22-1xxx→0427-44-1xxx、例③0427-22-20xx→0427-42-20xx、例④0427-22-2xxx→0427-42-2xxx、例⑤0427-22-3xxx→0427-42-3xxx ※1969年2月当時。
- ^ 狭義には、座間村で古くから入会地としていた相模が丘・広野台・相模原市南区相模台を、広義には座間野九ヵ村(磯部村・新戸村・座間宿村・座間入谷村・栗原村・大谷村・小園村【今里村の説もあり】・四ツ谷村・新田宿村)の入会地を「芝原」と言う。『座間の地名』15頁、『座間むかしむかし第3集』字名の起こり4頁
- ^ 新戸村・磯部村・座間宿村・座間入谷村・新田宿村・四ツ谷村・栗原村・大谷村・小園村【今里村の説もあり】
- ^ 相模原市南区相模台全域、相模原市南区相武台三丁目全域、新磯野全域、相武台団地全域、麻溝台のほぼ全域が軍用地として買収された。座間市相模が丘・広野台は軍用地接収を免れた。
- ^ 『麻溝台地区の生い立ち』83頁 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会
- ^ ここで言う「帰農」は、戦後、軍属を解かれた者、退役軍人や復員除隊した者、陸軍士官学校の陸士生、外地からの引揚者が農業へ回帰することを言う。
- ^ 『座間広報』第64号 昭和34年7月15日発行1頁に「大字相模台の設置~従来とかく相模台の新田宿と新田宿が間違れ迷惑する事が多かったのでこれを除くため芝原の行政道路(鶴間行)以北を相模台とし、小字は北広野・中広野・南広野とした。※原文ママ」と記述あり。
- ^ ただし同校の所在地は文京一丁目であり相模台分室(現・相模台まちづくりセンター)の管轄区域内ではない。また、相模原市立相模台小学校は南台六丁目、同相模台中学校は桜台に所在する。
- ^ 戦時中、高座郡旧相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅一帯を相模台と呼んでいた。『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』60頁~64頁
- ^ 不動産登記法に基づく地番は、1959年4月20日に高座郡座間町相模台として新しい大字を新設した際、新たに付け直した地番のまま。
出典
関連項目
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大野中地区 | |
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大野南地区 | |
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麻溝地区 | |
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新磯地区 | |
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相模台地区 | |
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相武台地区 | |
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東林地区 | |
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