改革クラブ (1998-2002)
改革クラブ(かいかくクラブ)は、かつて存在した日本の保守系の政党。 党史1997年12月31日、新進党が分党した際に第2代党首小沢一郎の党運営に反発していた若手議員を中心として、ベテラン議員・長老・最高齢の新生党顧問や新進党両院議員総会会長及び新潟県連会長、日本会議国会議員懇談会設立発起人を務めた建設相・厚相経験者で1996年第41回衆議院議員総選挙で比例単独候補・北陸信越ブロック1位として13連続当選果たした小沢辰男を代表として結成(新進党を分党したため、法的には1998年1月1日に発足)。1998年1月5日に届出、1998年1月12日に発会式が開かれた。当初は「フロンティアネット」という仮称が付けられたが、正式な発足にあたって改められた。 結成の中心となったのは埼玉2区石田勝之・埼玉8区並木正芳・埼玉7区中野清ら新進党埼玉県連所属国会議員で、このグループが中間派新党の結成を表明したことで他の中間派議員の動向にも影響を与え、最終的に衆参12名が参加した。 新進党埼玉県連では党首選前から国会議員の離党が続いており、さらなる離党者が出るのを防ぐため、党首選では県連と国会議員が一致結束して行動することを申し合わせていた。 一部脱落者は出たが、埼玉県選出国会議員と(石田の中選挙区時代のライバルで96年第41回衆院選で新進党元職として出馬も埼玉1区次点で衆院議員返り咲き失敗)浜田卓二郎ら次期総選挙公認予定者8名は、党首選を前に小沢党首に対して負けた候補を副党首に起用するなどの党首選後の党内融和路線を提言し、小沢が前向きな回答をしたとして小沢支持を表明した。 しかし、小沢が党首選再選後に分党を宣言して約束を反故にしたことから小沢への反発は強く、ほとんどの議員が自由党への参加を拒否。一方で、埼玉県連所属国会議員の約半数が公明系だったことや党首選で小沢に敗北の鹿野道彦率いるグループが民主党 (日本 1996-1998)への接近を図っていたことから、鹿野グループにも参加せずに独自の新党の結成を表明した。 なお、代表の小沢辰男は96年第41回衆院選で比例北陸信越ブロック新進党1位で前職として再選、改革クラブ結党当時81歳であったが、これは日本国憲法になって以降では国会議員を擁する新党の党首として最高齢記録であった。(大日本帝国憲法時代では1945年に結党された日本進歩党で町田忠治が82歳で総裁就任の例がある。党代表には当初総理総裁経験者で新進党初代党首の67歳誕生日前後の海部俊樹を想定していたものの、海部が改革クへの参加を拒否したため、長老議員で海部と1960年衆院初当選同期の小沢辰男がまとめ役を期待されて就任した。) 現職国会議員、党本部事務局職員以外の一般の日本国民からの党員・党友の募集を一切しなかった。 小沢辰男は自民党と新進党による1997年5月29日保保連合構想に伴って設立の日本会議国会議員懇談会発起人務め、改革クラブ所属国会議員全員が加入し全員が国旗国歌法案の採決で賛成票投じた。 小沢自由党や、鹿野グループ含む旧新進党議員らにより結成した院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)・民主党などと一線を画す路線を取り、新党平和・公明と院内会派を組んだ。1998年3月横浜市長高秀秀信及び1999年4月神奈川県知事岡崎洋を与野党相乗りで推薦し再選に貢献。 第18回参議院議員通常選挙では公認候補皆無で原則として比例区は公明を支援、青森県選挙区では新進党出身の無所属新人・前衆院議員田名部匡省、福島県選挙区では無所属新人(新生党代表幹事代行及び新進党副党首だった当時衆議院副議長渡部恒三の秘書)佐藤雄平、千葉県選挙区では新進党出身で民友連や民主党の結成に参加の無所属現職広中和歌子、新潟県選挙区では新進党出身の無所属新人・前衆院議員星野行男、埼玉県選挙区では無所属新人・元衆院議員(翌年改革ク入党する)浜田、神奈川県選挙区では新進党及び新党友愛出身の民主党新人浅尾慶一郎、広島県選挙区では新進党及び新党友愛出身の無所属新人・元衆院議員柳田稔、福岡県選挙区では(横尾和伸の任期満了直前逝去に伴い)新進党出身の無所属新人・前衆院議員弘友和夫を推薦、大阪府選挙区で公明現職山下栄一を小沢自由党と共に全面的支援、東京都選出の現職国会議員は皆無だったが東京都選挙区では公明代表(実は当初新進党公認で再選目指す予定だった)浜四津敏子を小沢自由党や民主党岩國哲人と共に全面的支援。田名部・佐藤・浜田・柳田・浅尾・弘友は参院初当選、田名部・佐藤・浅尾・柳田は民主党会派に、浜田・弘友は会派「公明・改革クラブ」に。 その直後のポスト橋本龍太郎の首班指名で1回目は小沢辰男に投票し、決選投票で自民党総裁小渕恵三でなく民主党代表菅直人を支持した。(浜田は参院選初当選で5年ぶりに国会議員返り咲いた時点で無所属で会派「公明・改革クラブ」、首班指名で1回目は浜四津・決選は菅) 1998年9月24日には憲政記念館で、小沢代表が会長たる政界再編見据えた保守中道による超党派の勉強会「新総合政策研究会」設立総会を開催。 1998年日本の補欠選挙、衆院では東京4区で民友連各党と共に新生党・新進党所属都議だった(96年第41回衆院選・東京3区新進党新人で次点)無所属新人松原仁推薦も次点。熊本1区では新進党本部事務局職員だった民主党新人松野頼久推薦し次点。石川1区では新生党顧問及び新進党副党首だった奥田敬和の遺児たる民主党新人奥田建を推薦し当選に貢献。参院では、和歌山県選挙区その他の政治団体たる確認団体「それ行け!和歌山県人の会」新人の新生党・新進党所属県議や1995年和歌山市長選に新進党推薦で出馬し惜敗の浜田真輔を小沢自由・菅民主両党と共に推薦し次点で繰り上げ当選出来なかった。 小沢を会長に非自民勢力結集・政界再編見据え1998年9月24日超党派の勉強会・新政策総合研究会旗揚げ。 1999年埼玉県議選では保守系政治団体で確認団体たる地域政党・フロンティアの候補者を推薦し全面的に支援し再選に協力。 ポスト青島幸男の新人対決の1999年東京都知事選挙では幹事長石田が以前秘書として仕えた新進党都連会長経験者で民主党離党し衆院議員辞職の鳩山邦夫(東京都副知事候補・生活者ネット前代表で都議経験者池田敦子)を全面的支援も石原慎太郎の後塵拝し次点(公明党は自民党と共に明石康を支援した)。公明党が自民党と連立を組んだ事に伴い与党入りし閣外協力という形となったが、少数政党のため全く発言力を有せず、政権ポストは前田正が1999年10月5日発足小渕再改造内閣郵政政務次官を就任したのみにとどまった(前田は2000年4月5日発足第1次森内閣で留任)。 2000年6月の神の国解散で小沢は第42回衆議院議員総選挙不出馬表明し勇退(同衆院選で同党の比例区候補者皆無)また、選挙協力でも蚊帳の外に置かれた。 同時点で現職国会議員は小沢含め政党要件最低人数の5名を一名上回る6名、同衆院選で小沢は党代表として選挙運動は取り組んだが改革クラブ公認の前職4名3名は公明党の推薦を受けたものの大阪4区の現職政務次官前田は対立候補が自民党前職の現職閣僚中山正暉という事もあり非推薦となり、公明党推薦得た他の3名も自民党に対立候補を立てられ、幹事長石田は次点で川口市議経験者で自民党公認・保守党推薦の後の平成研究会事務総長新藤義孝相手に惜敗率96%約3千票の僅差も他の3候補は完敗し次点にもなれなかった(石田・前田・並木・神奈川3区西川知雄が96年新進党公認候補として自民党公認候補を凌駕し次点に追いやった時と同様に小選挙区一本で同じ区で出馬。並木以外の3候補は96年第41回衆院選では対抗馬の自民党公認候補に比例復活許し00年第42回衆院選では小選挙区選出衆院議員の座を明け渡した。並木の対抗馬たる所沢市議経験者たる自民党新人新井正則は00年第42回衆院選も次点で比例復活出来なかった。4候補とも供託金没収免れ法定得票クリア)。このため、所属国会議員は浜田のみとなったが、「所属する現職国会議員5名以上」の政党要件は喪失。その後、無所属の現職国会議員取り込みによる政党要件維持を目指したが失敗。 同年7月24日に所属する会派「公明党・改革クラブ」が「公明党」へ名称変更したため、院内から改革クラブの名称は完全に消滅した(浜田は公明党会派に残留)。その後は、地方選挙で推薦を出す事もあったが、次第に活動が見られなくなった。2001年には代表者が石田に変更にされたが、2002年夏に石田が民主党に入党したことで、改革クラブは解党された。 役職常任幹事会・執行部役員表
96年新進党公認で衆院初当選し98年1月12日改革クラブ発会式参加し00年自民党前職候補となった者では中野(志帥会加入)・国対副委員長木村太郎(青森4区、清和政策研究会加入)・政審副会長山中燁子(比例東海ブロック、当時は法的に可能だった国会議員在職のまま自民党に円満移籍し大勇会加入)、96年新進党公認で衆院初当選し98年1月12日改革クラブ発会式参加し00年民主党前職候補となった者では冨沢(神奈川13区)。 歴代代表一覧
脚注
関連項目 |