日本石油
日本石油株式会社(にほんせきゆ、英: Nippon Oil Co., Ltd.)は、かつて存在した日本の石油元売企業である。1888年(明治21年)創業。ENEOSの法人格上の前身[1]。 概要1888年(明治21年)、尼瀬油田の石油開発ブームを受け内藤久寛・山口権三郎らにより設立。本社および製油所(製油場)は油田近くの新潟県三島郡尼瀬村(現・三島郡出雲崎町尼瀬)に置かれた。設立時は有限責任日本石油会社であったが、1894年(明治27年)に日本石油株式会社に改組した。1899年(明治32年)には柏崎に2番目の近代的製油所を建設、以降新潟県や秋田県、北海道に製油所を建設していった。社章は「日本」の文字をコウモリで模った「コウモリ印」を使用していたが、これは創立記念式典の会場内に一羽のコウモリが舞い込んで来たことに由来する[2]。 1921年(大正10年)、日本の二大石油会社であった当社と宝田石油が合併。宝田石油は1893年(明治26年)、新潟県長岡町で東山油田をもとに創業した。合併時、宝田石油は新潟県や秋田県、そして台湾にも製油所を有していた。1941年(昭和16年)には、国内2位の小倉(おぐら)石油とも合併した。 太平洋戦争後、当社はアメリカのカルテックスと業務提携。1951年(昭和26年)に折半出資で両社の石油精製事業を担当する日本石油精製(現在のENEOS)を設立し、カルテックスグループの一員となった。以降、1996年(平成8年)に日本石油精製のカルテックス保有分株式の100%取得及びカルテックスオイル・ジャパンの合併により提携を解消、同グループを離脱するまで、当社は外資系と言われた。 1999年(平成11年)4月1日に三菱グループの三菱石油と合併し日石三菱株式会社(にっせきみつびし、略称:NMOC)となった。同社は2002年(平成14年)6月27日に新日本石油株式会社に社名を変更した(略称は新日石、英文社名は合併前の日石のものに復した)。 沿革明治時代
インターナショナル石油
大正時代
宝田石油
昭和時代(戦前)
小倉石油
愛国石油
昭和時代(戦後)・平成時代
以降は新日本石油を参照のこと。 歴代社長かつて保有していた製油所
広報・宣伝コーポレートステートメント
CMコマーシャルソング旧・日本石油のコマーシャルソングとして、冬季のストーブ用灯油のCMでの『日石灯油だもんネ』(作詞:五木寛之、作曲:越部信義)がある。この曲は、三菱石油との合併後も歌詞の一部を変更して(日石灯油→日石三菱→ENEOS灯油にそれぞれ差し替え。)引き続き使用されている[6]。 60年代頃のCMソングとして『日本石油の唄』『ハイ・ハイ・ハイオクタン』(いずれも作詞・作曲:三木鶏郎)、『はりきる日石サービスマン』(作詞:秋山貞雄、作曲:越部信義)もあった。1988年には日石100周年記念ソングとしてサーカスといずみたくファミリーの合作『輝くオイルロード』が制作され、1987年及び1992年の2度に渡って日本石油グループの企業CM内でCMソングとして使用していた[7][8]。 また、30年以上の長きにわたって販売されていたエンジンオイルのPANシリーズに代わり新たに1995年に登場したZOAシリーズのCMでは、X JAPANの『CRUCIFY MY LOVE』『White Poem I』の2曲が使用されていた。日石三菱発足後でENEOSブランド転換前の2000年には童謡『この道』のCUM'CUM'によるカバーが使用された。 出演タレントスポンサー番組テレビ
ラジオ
この他、主にNRN系列のラジオ局のスポットのインフォマーシャルとして、「日石チューンナップジョッキー」(ロイ・ジェームス)→「日石ワンナップジョッキー」(西田敏行)が放送されたことがあった。 販促キャンペーンハイオクガソリンの日石ダッシュレーサー100の販促キャンペーンとして、ラジオのトップDJによるノンストップミックスアルバムが抽選で頒布された。各アルバムはアメリカ西海岸のラジオ番組を模しており、ドライブに最適化された選曲となっている。 脚注
外部リンク |