松平重忠 (三木家)
松平 重忠(まつだいら しげただ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。三木松平家第2代当主。松平信孝(徳川家康の大叔父)の子。 生涯父の松平信孝(三木松平家初代)は、松平清康の弟である[2]。『寛政重修諸家譜』によれば、天文4年(1535年)の清康横死後、信孝は甥の松平広忠(清康の遺児)を支える立場にあったが、やがて「岡崎の老臣」たちと対立して失脚し、ついには広忠と交戦するに至った[2]。天文17年(1548年)、信孝は菅生河原(安城合戦参照)において討たれた[2]。 重忠は、『寛政譜』記載の没年・享年から逆算すると、天文9年(1540年)の生まれである。成長後は徳川家康に仕え[1]、天正18年(1590年)に家康が関東に入部した際に大番頭となった[1]。慶長5年(1600年)に致仕[1]。家督は長男の松平忠清が継いだ[1]。 慶長6年(1601年)12月2日に死去、享年62[1]。重忠の死から間もなく、12月22日に忠清も32歳で嗣子なく没した[1]。重忠の二男・忠利はすでに別家を立てており、三木松平家の嫡家は絶家とされた[1]。 人物『寛政重修諸家譜』には、重忠が徳川家康の木像を彫刻したというエピソードが「家伝」として載る[1]。重忠は手製の木像を長らく屋敷に安置していた[1]。このことを聞いた家康は、木像を持参させてこれを見、自分の死後にはこれを拝するように、と言って重忠に返した[1]。この木像は忠利の家に伝えられ、のちに忠利の家の菩提寺となった目白の養国寺に奉納された[1]。家康像は境内に別殿を設けて祀られ、養国寺は「権現様の寺」と呼ばれたという[3]。 系譜『寛政重修諸家譜』には、実子3名(男子2名・女子1名)が載る[1]。 長男の忠清(与十郎)は父と同年に死去し、三木松平家の嫡家は断絶した[1]。 二男の忠利(九郎右衛門)は、重忠の所領のうちから500石を分与されて別家を立てた[1]。職務上の落ち度から改易されているがのちに復帰し、子孫は旗本として続いた[1]。 娘は600石取りの旗本・松波勝安の妻となった[4]。松波勝安は家伝によれば斎藤道三の曾孫とされる人物で[注釈 1]、大番や代官を歴任した[4]。 脚注注釈出典
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