松平忠喬
松平 忠喬(まつだいら ただたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。桜井松平家10代当主[2]。信濃国飯山藩第2代藩主、のち遠江国掛川藩主を経て、1711年に摂津国尼崎藩主となった。以後桜井松平家は7代160年間にわたって尼崎を治め、廃藩置県まで続く[3]。 生涯飯山藩世嗣松平忠継(藩主松平忠倶の子)の二男として誕生[1]。『寛政重修諸家譜』によれば天和2年(1682年)生まれである[1]が、家臣の家に伝わる史料では天和3年(1683年)1月9日生まれと記録されており[5]、幕府には実年齢より年長に届けられたとみられる[5](官年参照)。 元禄7年(1694年)12月、父の忠継は病気を理由として廃嫡された[1]。忠喬の兄・忠敏が飯山藩の世嗣になり、元禄8年(1695年)2月には祖父を継ぐべき「嫡孫」として幕府に認められたが、同年12月に24歳で早世した[1]。このため忠喬に世嗣の座が回ってきたが、元禄9年(1696年)5月26日に大坂加番を務めていた祖父が任地大坂で死去し[1]、7月25日に忠喬が15歳(公式年齢)で藩主を継ぐこととなった[1]。ただし、将軍への御目見や世嗣としての任官をすませていなかったために[5]、7月28日に綱吉に御目見し、家督相続を謝している[1][5]。この際、綱吉に父の遺品の越中則重の刀、御台所に一条冬良筆の『古今和歌集』、桂昌院に足利義政筆の『和漢朗詠集』をそれぞれ献上した[1]。12月22日、従五位下遠江守に任官[1]。 大名となった松平忠喬はほとんどを江戸で過ごしており、初の領地(飯山)入りは元禄13年(1700年)のことであった[5][1]。江戸滞在中には将軍の外出への供奉や、各種の普請、西之丸大手御門番などの役を務めた[5]。また幕命により朝鮮通信使の接待役、日光東照宮の警護役なども務めている。 宝永3年(1706年)1月28日、遠江掛川藩に移封される[1]。宝永8年(1711年)2月11日に摂津尼崎藩に移封された[1]。尼崎藩主となった桜井松平家の菩提寺となる深正院(尼崎市大物町)は、正徳元年(1711年)に忠喬が尼崎に建立したと伝えられ[6]、寺の名は大坂で死去した祖父・忠倶の法名の院号にちなむ[6]。 享保2年(1717年)1月22日の大火(小石川馬場火事)に際しては、防火の任務を与えられていたために自ら家臣を指揮し、のちに家臣が老中に呼ばれて労を賞されている[1]。寛延3年(1750年)12月18日、従四位下に昇叙[1](桜井松平家で唯一の事例[5])。寛延4年/宝暦元年(1751年)3月20日に致仕[1]。同21日に石見守に遷る[1]。 家督は次男・忠名が継いだ。宝暦6年(1756年)2月5日、尼崎において死去した[1]。74歳没[7](「公式年齢」で75歳[1])。深正院に葬られた[1]。 系譜特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[8]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
補足
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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