極真会館 (きょくしんかいかん、英 : Kyokushinkaikan )は、大山倍達 が創設した空手道 団体 。正式名称は国際空手道連盟 極真会館 (こくさいからてどうれんめい きょくしんかいかん、英 : International Karate Organization Kyokushinkaikan, IKO or IKOK )。通称 は極真カラテ。前身は大山道場 。
極真 の由来は「千日を以って初心とし、万日を以って極とす」という言葉の“心”を“真”に変え「武の真髄を極める」という意味での名称とした。
概要
1964年 4月 、大山倍達 は大山道場 を財団法人 極真奨学会 の傘下にして、国際空手道連盟 極真会館を設立。会長に佐藤栄作 、副会長に毛利松平 を迎え、大山は館長に就任。同年6月東京都 豊島区 西池袋 に本部道場の工事が着工。以前から建設に踏み切ってはいたが、財政難から工事はしばしば中断されていた。 [要出典 ] 建設には資金援助をしてくれた人たちのほか、「黒崎健時 師範の貢献がとても大きい」と中村忠 は証言している[ 1] 。同年11月竣工。翌1965年 1月、国際空手道連盟極真会館を正式に発足。
極真会館は伝統派空手 に対し、対戦相手に技 を実際に当てる直接打撃制(フルコンタクト )の提唱と啓蒙を行い、
がそれぞれ相乗効果を働き、発展してきた。
最盛期は1990年代 の大山存命中で各都道府県へ支部が設置され、世界123ヵ国に公認支部道場が1,000以上、会員1,200万人の規模[ 2] であったが、国内法的には法人ではなく自然人、つまり代表者の個人事業であった。
1994年 に大山が亡くなると弟子たちが各々極真会館を名乗り、団体毎に門下生が在籍。それらに付随して各種大会が行われている(詳しくは「分裂騒動 」を参照)。
以下、次章から大山が館長及び総裁に就いていた時代とその分裂を記す。
他格闘技、他団体との交流・試合・技術の吸収
大山倍達 自らボクシング 、柔道 、合気道 を学んでいたことから、道場 には進取の精神があった。大山道場 から極真会館へ組織変更した1964年 にはタイ へ遠征し、黒崎健時 ・中村忠 ・藤平昭雄 がムエタイ ルールで、ムエタイと試合をした。
1969年 4月 にNET は「ワールドキックボクシング」を開催し始めたが、2か月前から各方面より選手を集め、ムエタイ 選手や日本拳法空手道 らに出場要請をし、極真会館へもオファーがあった。大山は高弟の山崎照朝 ・添野義二 ・及川宏 を選りすぐり、極真ジム所属として参戦。キックボクシングはNET他、TBS 、日本テレビ 、東京12チャンネル の4局で放映され、「キック戦国時代」と呼ばれるほど、4局が視聴率争いにしのぎを削るブームで、新興スポーツとして注目されていた。参戦した山崎や添野がKO 勝ちして強さをアピールしたことにより、結果的には後に開催されるオープントーナメント全日本空手道選手権大会 の宣伝にもなった[ 3] 。
直接打撃とオープン参加の大会
開催までの道のり
直接打撃制による組手 試合は、山田辰雄 が1962年 に初めて実施していたが、寸止め試合を行う伝統派空手 の諸流派から黙殺され失敗に終わった。大山倍達 は極真会館竣工以降、1964年 に行われた東京オリンピック の各種オリンピック競技 をたびたびスタジアム 観戦していたことで「極真会館内の競い合いではなく、他流派・他格闘技の参加を認めたオープン制とトーナメント 制の選手権大会」を開催しようと検討し始め、名称もこのときは「全日本格闘技選手権大会」としていた。今でこそ直接打撃制の空手道選手権大会をいろいろな流派が開催しているが、当時は直接打撃に危惧を抱く会場側は決して協力的ではなく、極真会館は試合会場をなかなか確保できなかった。東京体育館 とは都合3年も交渉を行い、その頃、盛んになり出したキックボクシング の例をあげ、その安全性をよく説明することにより許可を得て、ようやく1969年 9月 に念願であった第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会(以降、全日本選手権に略)として開催に至った[ 2] [ 4] [ 5] 。
極真の看板を守り抜く
“オープントーナメント”と謳った全日本選手権は、「空手界の各流派はもちろんのこと、武道 全般・拳法 ・ボクシング ・キックボクシング 等、誰でも参加できる」というキャッチフレーズで参加の呼びかけを行った。韓武舘 をはじめ、申し込みをした選手の半数が他流派で、なかには柔道 参段で体重100キログラムを超すギドン・ギダリー(イスラエル )、黒人 ヘビー級 ボクサー のポール・ジャクソン(アメリカ )、ムエタイ のランキングボクサー、ビラホン・ハンピーン、サカオ・チャルムーン、サマンソー・アディソン(以上タイ )と、他格闘技 からもエントリーしてきたことで、さながら“異種格闘技戦”の様相を呈していた。無差別級 で直接打撃制によるKOで決定するとし、反則は「顔面への正拳 ・肘打ち ・貫手 」「頭突き」「金的 」攻撃のみで、投げや掴みも認められていた。6時間にわたる激しい試合展開となったが、キックボクシングでも活躍した山崎照朝 が優勝、添野義二 が準優勝と主催者である極真会館の選手が上位を守った。大山倍達も「これで極真の看板を下ろさずにすんだ…」と胸を撫で下ろし、興行 的にも7,000人の観衆を集め、成功した。このことが翌年以降の継続に繋がり、年に1回の全日本選手権が開催されている[ 3] [ 5] 。
1972年 にパリ で開催された世界空手道選手権大会 で全日本空手道連盟 翼下の日本選手が団体戦で惨敗。個人戦は試合を放棄した事で「柔道に続き、空手よ、お前もか」と各種マスメディア で取り上げられた。これに対して大山倍達 は「日本の空手は負けていない。近い将来、国際空手道連盟極真会館主催の世界選手権を開催して、日本選手の強さを示す」と声明を発表して、1975年 には第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会 (以降、全世界選手権に略)を開催し、佐藤勝昭 が優勝した。その後4年に1回、全世界選手権は開催されている。
ルールと運営の変遷
第1回全日本選手権のルールや運営手法が、選手権大会の回数を重ねるごとにそれぞれ改定、変更がされてきた。以下、その内容を記す。
ルール
1971年 第3回全日本選手権
「倒して決めの下段突き」は動きに少しの無駄もなく、スムーズな一連の流れによる一動作でも、技あり までと改正される
1970年 第2回全日本選手権は閉幕後、「相手を投げ倒して決めにいけば、それで一本 勝ちとする」というルールが問題となっていた。優勝した長谷川一幸 は、山崎照朝 には「絡み倒して下段正拳突きをピタリと顔面に止め」、添野義二 にも「巻き倒しての決めの下段突き」で一本勝ちを得ている。他の試合でも同様な「倒して決めの下段突き」があまりにも多く、パターン化することを回避するためである[ 4] [ 6] 。
1973年 第5回全日本選手権
判定
1本勝ちのきまらない時は延長戦を行なう[ 7] [ 8] 。
延長戦も決まらないときは双方の技術・気魄の優劣・減点数の数により、主審・審議員・審判長で決定する。 ただし10kg以上の体重差を有効とする[ 7] [ 8] 。
蹴り・突き・打ちで相手が倒れはしないものの、バランスをくずした場合は 「技あり!」を適用[ 7] [ 8] 。
試し割り
2回戦に進出した選手から割った枚数により競い合い、同数の場合は体重の軽い方を優位とし、試合の判定でも適用する[ 7] [ 8] 。
1979年 第2回全世界選手権
掴みを完全に禁止
接近戦になった時に相手の道着を掴んで押したり、投げ技 を使うことで、殴打技 と蹴り技 の攻防が少なくなることを避けるための措置である。
1980年 第12回全日本選手権
柔道 の技を完全に禁止
1979年 第2回世界選手権にて、東孝 が掴まないで柔道の足技 を使ったことが問題となり、空手 と柔道 の区別化を明確にするため、使用を禁止した。
1984年 第3回全世界選手権
対戦相手の背後からの攻撃を禁止
各国選手により、対戦相手が試合の流れで後ろを向いてしまった時に攻撃を継続する選手としない選手がいた為、禁止と統一した。なお、対戦相手自らが逃げるために後ろを向くことは減点になり、回数が多いと技ありをとられることになる。
運営
1971年 第3回全日本選手権
試合場を一つに集約した。
1970年 第2回全日本選手権まで試合場は2つあり、それぞれ試合が同時に進行する方式が採られていた。しかし、観客の気が散って試合に集中できないという理由で取り止めされた。
1973年 第5回全日本選手権
1972年 の第4回全日本選手権迄、参加選手は48名でA・B・Cとトーナメント に分けられ、3つのブロックを勝ちあがった3名の選手による決勝 リーグ戦 で実施されてきたが、本大会から64人の選手が参加する1日のトーナメントとして、決勝まで進めば6試合を戦う形式となった[ 9] 。観客は第4回(前年)の8,000人から12,000人が押し寄せ、会場に入れない客が2,000人ほど溢れていた[ 9] 。同大会から東京12Ch系でテレビ中継が開始された[ 9] 。
1974年 第6回全日本選手権
128人の選手参加による2日間のトーナメント開催で、決勝まで進むには初日に2試合、2日目に5試合を行う形式で実施。
準決勝敗退者2名のうち、試割り 枚数多い方から3位・4位、5位~8位は試割り枚数の多い順に入賞と決めていたが、3位・4位を3位決定戦で決める方式に変更。
1979年 第2回全世界選手権
この年から世界選手権のみ3日間のトーナメント開催となり、各国選手権の優勝・準優勝者などシード された選手は初日の1試合が免除され、2日目に2試合、3日目に5試合行われる形式となる。その後の世界選手権も参加した選手数はその時々で変動したが、3日間開催とシード権は継続
大会結果
全日本選手権
毎年11月に無差別級 の「オープントーナメント全日本空手道選手権大会」を開催し、他流派や他団体の選手も参加できる。なお2020年は新型コロナの影響で無観客開催予定。1984年 から毎年6月に体重制の「オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会 」も開催している。
全世界選手権
男子
全世界ウェイト制選手権
1997年に松井派 が大山倍達総裁三年祭を記念し、国技館 で初めて開催。以降は全世界大会の中間年に開催されている。
試割り
厚さ2.4センチメートルの杉板[ 注釈 4] で正拳 ・足刀[ 注釈 5] ・手刀 ・猿臂 で割った合計枚数により競い合う。なお、松井派 では再延長で勝敗がつかなかった場合にのみ、手刀による試割りを行い、勝者を決めている。
第1回全日本選手権から行われ、以下の更新をしている。
啓蒙
海外の要人と関係を強化
国賓 に指導したり、演武を披露することにより、国際的な普及に務めた。
1968年 8月にヨルダン 王室 に招かれ、フセイン1世 、モハメド皇太子 など王室関係者に指導を行った[ 12] 。1970年 6月14日 にはフセイン1世の妻・ムナ王妃 、フェリアール王弟妃一行が来日し、滞在先である東京ヒルトンホテル で演武会を催した[ 13] 。芦原英幸 は頭突き で瓦 を割り、とりわけ山崎照朝 と添野義二 の組手 を観た王室一行はふたりの実力・迫力に驚嘆していた[ 13] 。
1972年 2月にスペイン のカルロス皇太子 (当時)とソフィア夫人 が来日した。カルロス皇太子(前・国王)は空手を習っていたことから、当時、極真会館副会長の毛利松平 の仲立ちで演武会が催された。同月21日に大山倍達 以下、大山泰彦 ・山崎照朝・添野義二・鈴木浩平 ・三浦美幸 ・佐藤勝昭 ・磯部清次 ・大石代悟 ・ハワード・コリンズ など黒帯 、茶帯 約20名からなるメンバーが、赤坂 の迎賓館 に訪問。基本稽古から各種試割り のあと、第1回全日本選手権チャンピオンの山崎照朝と第3回全日本選手権チャンピオンの佐藤勝昭の模範試合が行われるなど、夫妻の前で数々の空手の技 を披露した[ 14] [ 15] 。
1981年 6月にサウジアラビア のファイサル皇太子 が総本部に来訪した。ファイサル皇太子は演武を堪能後、指導員の派遣を要請した[ 10] 。
弟子を世界各地へ派遣し、孫弟子の輩出
1950年代 は大山倍達 が国内外を遠征をしていたが、1960年代 半ばから、弟子を国内外各地に派遣し、支部の設立と門下生を育成した。海外では1966年 の黒崎健時 が渡欧したのを皮切りに中村忠 ・大山茂 ・大山泰彦・三浦美幸・岸信行 をアメリカ 各地へ、加藤重夫 をオーストラリア 、松島良一 をシンガポール 、磯部清次をブラジル へと派遣し、帰国した者を除き、支部長として永住させた。また、自ら来日し本部道場で稽古したジョン・ブルミン 、ヤン・カレンバッハ 、ルック・ホランダー (以上、オランダ )、スティーブ・アニール 、ハワード・コリンズ(以上、イギリス )、ジャン・ジャービス (ニュージーランド )、ジョン・テイラー[ 注釈 6] (オーストラリア)らを帰国後、現地の支部長や指導員に任命した。
国内でも加藤重夫・芦原英幸 ・添野義二・松島良一・高木薫 ・長谷川一幸 ・大石代悟 ・花澤明 ・東孝 ・浜井識安 らを派遣や帰郷などで、各地の支部長に据えた。これらの活動が佐藤俊和 ・二宮城光 ・田原敬三 ・水口敏夫 ・松井章圭 ・増田章 ら孫弟子が、前後して大学の空手道部も傘下にし、城西大学 に在学していた添野が同部二期生の高木、三期生の三浦美幸・吉岡幸男 、六期生の花澤を、早稲田大学 に在学していた東は三瓶啓二 、など多くの人材を輩出している。
1985年 以降は山田雅稔 の東京都下城西支部か、廣重毅 の東京城南川崎支部のいずれから、チャンピオンや上位入賞者を多く輩出する時代が続いた。海外ではチャールズ・マーチン [ 注釈 7] 、ウィリアム・オリバー 、ウィリー・ウィリアムス (以上、アメリカ)、アデミール・ダ・コスタ 、フランシスコ・フィリォ (以上、ブラジル)、ジャン・リビエール [ 注釈 8] [ 16] (カナダ )、ハワード・ロブマン、ミッシェル・ウェーデル 、ジェラルド・ゴルドー 、ピーター・スミット (以上、オランダ)、アンディ・フグ (スイス )、マイケル・トンプソン (イギリス)、ハンス・ラングレン (スウェーデン )、サム・グレコ (オーストラリア)、ケニー・ウーテンボガード (南アフリカ )らの孫弟子輩出となり、組織拡大に繋がった。しかし、1975年 (昭和50年)代前後から相次いで弟子の破門、独立が発生(独立した団体 )。ほとんどの支部が独立採算を取っていた為、現地の門下生も一緒に離れることとなった。一時的に縮小したりしたものの拡大の勢いは落ちず、1990年代 に入ると各都道府県へ支部の設置が完了し、最盛期には世界123ヵ国、公認支部道場1,000以上、会員1,200万人の規模となった[ 2] 。
メディアミックス
出版
大山倍達自らも精力的に執筆 した。1966年 には極真会館の機関誌として、月刊『近代カラテ』を発行[ 注釈 9] 。1978年 からは新たに『月刊パワー空手 』を機関誌として創刊した。また、『空手バカ一代』に登場した弟子のほとんどが、各々自叙伝や技術本を出版した。
映画
『007は二度死ぬ 』の撮影で、姫路城 の屋根で忍者 部隊役で戦うシーンに藤平昭雄 と加藤重夫 が出演した。この撮影には各流派の空手家 が集まっていたが、撮影の合間にも大沢と加藤は練習していた[ 17] 。その熱心さにジェームズ・ボンド 役のショーン・コネリー が彼らを気に入り「あなた達の道場 に行きたい」と言い、1966年9月3日 にコネリーが本部道場に来訪して演武会が行われた[ 17] 。藤平・加藤の他に大山茂 ・郷田勇三 ・芦原英幸 ・鈴木浩平 らが参加し、数々の試割り や演武を披露した[ 17] 。なお、コネリーには名誉参段が贈呈された[ 18] 。
東映 は、大山道場 時代からの弟子である千葉真一 主演で、大山倍達を主人公にした『けんか空手 極真拳 』 (1975年 )、『けんか空手 極真無頼拳 』 (1975年)、『空手バカ一代 』 (1977年 )を、三協映画 が『地上最強のカラテ 』、『地上最強のカラテ2 』 (1976年 )、『最強最後のカラテ 』 (1980年 )を制作し、それぞれ公開された。東映の3作品には、大山道場や設立直後の極真会館で師範代を務めた石橋雅史 も出演している。これらの映画に極真会館は全面的に協力した。
漫画・劇画
梶原一騎 の原作で『虹を呼ぶ拳 』、『空手バカ一代 』、『四角いジャングル 』などで、大山倍達 と極真会館は実名で取り上げられた。特に『空手バカ一代』は大山を主人公にし、弟子も紹介された作品で、アニメ 化や映画 化もされた。
通信教育
梶原一騎らとの協力によりマス大山カラテスクール を1972年 に設立。自宅に居ながらにして極真空手を学べるとして少年漫画誌を中心に大々的な宣伝を行い、多数の受講生を獲得した。1973年 には渋谷 に通信生向けの実技道場を構え、師範代 を山崎照朝 、指導員を鈴木浩平などが務めた。
テレビ中継・雑誌
1973年の第5回全日本選手権からテレビ中継され[ 9] 、その後、全日本・全世界選手権開催毎に東京12チャンネル やNET で放送された。雑誌では『ゴング格闘技 』 (日本スポーツ出版社 )、『格闘技通信 』 (ベースボール・マガジン社 )、『月刊フルコンタクトKARATE 』 (福昌堂 )にも頻繁に登場した。
百人組手
分裂騒動
大山倍達没後と継承争い、その後
分裂後、移転した松井章圭派 の総本部道場
1994年 4月26日 、極真会館の創始者である大山倍達 が逝去。
絶対無比のカリスマ 大山を喪失した極真会館では没後間もなく、その後継の座を巡っての主導権争いが始まった。やがて、団体幹部や支部長、それに準ずるクラスの人物、大山の遺族との間で、団体は四分五裂の様相を呈してゆく。その後も数多くの人物による分派や独立も続き、「極真」という商標 も奪い合いとなり、これらは訴訟係争という事態に繋がっていた。その他の指導者や一時代を築いた有力選手にも、知名度が上がると共にこのような政治的な争いに巻き込まれることを嫌って「極真」から離れ、独自の空手道を求めていった者が少なくない。
1994年
大山逝去の翌々日、極真会館の審議(評議)委員長であった梅田嘉明が「大山総裁は遺言 で松井章圭 を次期後継者に指名された」と発表。5月10日 に、梅田を財団法人 極真奨学会 理事長、松井を館長、郷田勇三 を最高顧問、盧山初雄 を最高顧問・主席師範、支部長協議会の会長を西田幸夫 [ 注釈 1] とし、新体制による運営が始まった。6月に入り、遺族が記者会見を行い「遺言に疑問があるので法的手段にでる」と発表し、本葬時にも抗議活動を行った。国内の支部長では9月迄に高木薫 ら計5人が、新体制に異を唱えて離れた。
1995年
2月に高木薫 ら5人の支部長が大山智弥子 未亡人を館長とし遺族派を結成する。
4月に「遺言書 は無効」と家庭裁判所 の審判が下ると、松井章圭体制から西田幸夫や三瓶啓二 ら35人の支部長がいる支部長協議会派 が離れた。この国内の分裂は海外にも波及し、世界各地で支部の取り合い、選手の引き抜きに発展した。松井派は中村誠 や山田雅稔 ら12人にまで減ったが、半年後には川畑幸一 、水口敏夫 、廣重毅 ら9人が支部長協議会派から復帰した。
8月には智弥子館長を頭とし支部長協議会派と遺族派が合流し、大山派を名乗る。同年から各種大会が松井派 と大山派 に分裂して開催されるようになった。
1996年以降
松井派 と大山派 は、それぞれの機関誌である『ワールド空手 』と『極真魂 』誌上で数年間、双方の正当性を主張しあっていた。1997年 3月17日 に遺言書の有効性を否定する判決が最高裁 で確定した。そののち大山派は支部長協議会派 と遺族派 に再び割れる。協議会派は1999年 に西田幸夫と増田章 が離脱し、三瓶啓二 が代表に就いた[ 19] 。さらに理事の役職にあった田畑繁、七戸康博 、桑島靖寛 や長谷川一幸 、大石代悟 らは松井派との商標権争いで「三瓶や副代表の緑が主張する『自分たちこそ正当な極真会館である』という方針では勝てない」と異を唱えて離脱し[ 20] 、2001年 に極真連合会 を発足させる。前年に三瓶派は代表選出で緑健児 に代わり[ 21] 、緑派となっていたが、松井派との商標権争いで負け[ 22] 、新極真会 と名称を変更した。遺族派は松島派 、手塚グループ 、極真会館 宗家 に分かれる。
一方、松井派 は株式会社 化し、団体名称を「株式会社国際空手道連盟極真会館」と刷新したが、こちらも一層の分裂が続いている。2002年 に極真奨学会 の梅田嘉明が「大山総裁の遺言である新会館建設を一向に進める気が見えない」と松井章圭を批判して関係を絶つと、同年11月に盧山初雄や地区本部長を務めていた廣重毅 ・湖山彰夫 らも去り、彼らは極真館 を興し、梅田と一緒に休眠していた極真奨学会 を復活させた。2005年 には水口敏夫・河西泰宏らが、2006年 には浜井識安 が松井派から離れ、極真奨学会の協力団体になった。2008年 、木村靖彦 が全日本極真連合会へ移り、2010年 8月には国際委員会委員で欧州 地区担当のルック・ホランダー が傘下の支部と共に離脱した[ 23] 。2016年 には兵庫・大阪南支部支部長の中村誠 が脱退した[ 24] 。1995年に始まった松井派から独立した選手や支部長の黒澤浩樹 、小笠原和彦 、八巻建志 、数見肇 、岩崎達也 、高久昌義 、ニコラス・ペタス 、堀池典久 、高尾正紀 、野地竜太 、田中健太郎 、高見成昭 ・高見彰 、高橋佑汰 、成嶋竜 らは極真を名乗らず、それぞれ自派を発足している。2022年に独立していた八巻が復帰したものの[ 25] 、フランシスコ・フィリォ とグラウベ・フェイトーザ が除名された[ 26] 。
松井派、大山宗家、新極真などは、自らが大山の極真空手の唯一の正当後継であると主張しており、他の極真諸派の存在を認めなかったり、認めていても消極的である。それに対して社団法人極真会館 や財団法人極真奨学会 は、他の極真カラテ諸派の存在を認めようとする団体である。
極真会館関連の商標を巡って、極真宗家、連合会、極真館らはそれぞれ松井派と係争中であったが、2010年に極真会館 宗家の商標登録が確定した。しかし、2017年5月に特許庁は、審判で「出願は他の事業者の活動を妨害する不正な目的」と判断、登録は無効となった[ 27] 。
その後2019年 になり、世界全極真 の長谷川一幸が大山喜久子 との話し合いの結果、商標を譲り受ける形となり、生前の大山から認可を受けた約20名の支部長と極真会館支部長連合会 を設立し、喜久子から譲り受けた商標を共同で管理して行くこととなった[ 28] 。世界総極真は極真会館関連の商標を単独で出願したため、独自に大山喜久子側と裁判を行なっていたが[ 28] 、大石を含めた話し合いにより、支部長連合会 と大石代悟 個人で商標を共同管理をして行くこととなった[ 29] 。
現在の状況
極真系の主な会派・団体。以下、全日本大会・全世界大会上位入賞者や大山倍達体制での支部長・分支部長などが分派した団体のみ。
極真会館から派生・独立した団体
全日本大会・全世界大会上位入賞者や大山倍達体制の支部長・分支部長などが独立し、創設した団体のみ。
参考文献
脚注
注釈
^ a b c 第1回全日本選手権から第6回まで連続出場し、第6回全日本選手権で4位に入賞した。現在は国際武道連盟・極真空手 清武会 の師範である。
^ 総本部所属。第20回全日本選手権準優勝・第8回全日本ウエイト制重量級3位・第5回全世界選手権6位。身長175センチメートル、体重90キログラム。サウスポーからの下突きと鎖骨 を狙う正拳突き・前蹴り・マサカリキック と呼ばれた外回し蹴りを得意とした。
^ 身長191センチメートル・体重100キログラム。北海道 支部所属で高木薫 の一番弟子。1983年 ・1984年 北海道選手権優勝。第1回オープントーナメント全日本ウエイト制重量級3位・第4回全世界選手権ベスト16・1990年 全アジア 選手権3位・第22回全日本選手権4位・第5回全世界選手権代表。長身を生かした上段回し蹴り、かかと落とし 、膝蹴り を得意とした。現在は新極真会 北海道 支部外舘道場師範である。
^ 試割り 用の杉板は、当時の新聞「日刊観光」では2.4センチメートルとあるが、「日刊スポーツ 」では2.8センチメートルと表記されている。
^ 親指 を起こして、反対の小指 の根元からかかと にかけての足の外側部分。組手 時には横蹴り で使用される。
^ オーストラリア 支部長。ハワード・コリンズ と同時期に数か月間、本部道場の内弟子となり、修行していた。現在は極真会館 松島派に所属している。
^ 当時の極真会館全米選手権のチャンピオンであり、第1回全世界選手権では最強の外国人選手と云われた。黒人 特有のバネを生かしたヒット・アンド・アウェイの戦法で、突き・蹴りとバランス良く攻撃してきた。3回戦ではイスラエル の100キログラムで柔道 参段でもあるギドン・ギダリーを上段後ろ回し蹴り で一本勝ち。4回戦では若きテクニシャンの東谷巧を破り、破竹の勢いで勝ちあがってきた。準々決勝 で盧山初雄 と対戦し、延長1回で判定 負けしたが、7位入賞した。現在は誠道塾 師範を務めている。
^ 1971年 7月2日生まれ。カナダ モントリオール 出身。1990年 ・1991年 カナダ大会優勝。この時点でキャリア5年だが、同年の第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会 のカナダ代表として出場。身長188センチメートル・体重128キログラムの巨漢でありながら、軽快なフットワークとサウスポーからの突き、上中下段回し蹴りで一本勝ちを奪い、勝ち上がっていった。特に岩崎達也 との対戦では、岩崎の右上段後ろ回し蹴りに対して、カウンター の左上段後ろ回し蹴りで一本勝ちを奪った。その瞬間、会場が一瞬シーンとなり、大歓声が沸くほどの見事な勝利だった。準決勝では増田章 と対戦。増田の左上段回し蹴りや右後ろ回し蹴りを顔面にヒットされたり、右中段回し蹴りで脇腹に攻撃を受け、正拳突きを鳩尾 (みぞおち)に決められ、下を向いて動きが止まるなど自分のペースで試合できなかったが、延長2回まで粘り、惜敗した。3位決定戦では黒澤浩樹 に破れ、4位入賞を果たした。その後、1992年 米国 国際スーパーヘビー級優勝・1994年 米国国際優勝の成績を収めた。分裂騒動 が起きた時には、政治的問題に巻き込まれないように極真会館を脱会する。その後、キックボクシング に転向、国際大山空手道連盟 に所属し、バーリ・トゥード にも参加したり、K-1 へ参戦したりした。
^ 後に『現代カラテ』→『現代カラテマガジン』と誌名が変わり、真樹日佐夫 が編集長になった。
出典
外部リンク