池之上格
池之上 格(いけのうえ とおる、1954年5月19日[1] - )は、鹿児島県垂水市出身の元プロ野球選手(投手・内野手)。 アメリカンフットボールXリーグ・オービックシーガルズの池之上貴裕は親戚。 来歴プロ入り前鹿児島県屈指の進学校[2]・鶴丸高校では3年次の1972年に春の県大会準々決勝で鹿児島商との延長18回引分け再試合を制すると決勝では鹿児島商工に延長10回完投勝利して優勝。夏の県大会は準々決勝へ進出するが、照国高に敗退。 プロ入り後同年のドラフト3位で南海ホークスに投手として入団[1]し、最初の3年間は二軍で鍛えられる。 1976年4月10日の日本ハム戦(大阪)で初登板を果たすと、翌11日には早くも初勝利を挙げた。同年7月25日の近鉄戦(大阪)では1イニング3暴投の日本記録と1イニング11失点のパ・リーグワースト記録を喫した。 1977年10月6日の日本ハム戦(後楽園)では消化試合ながら僅か90球で完封勝利を記録した[1]。 1978年には14勝でウエスタン・リーグ最多勝を獲得するなど活躍を期待されるも伸び悩み、オーバースロー、サイドスロー、スリークォーターと次々フォームを変更。 1979年はウエスタンで6勝9敗、126回投げて防御率4.79であった。 1980年に内野手へ転向するが、入団時から野手転向まで、二軍の打撃成績は50打数23安打・打率.460と野手顔負けの数字を残していた。 1981年頃から一軍に定着し、長打力は無いものの小技とガッツ溢れるプレー、勝負強い打撃で内野の控えや代打の切り札として活躍。短く持ったバットを肩に担ぐ様な構えで球に食らいつき、死球が多かったが[3]、粘り強い打者であった[4]。守備では内野のユーティリティープレイヤーであった[5]。同僚からの人望もあり、2年間も選手会長を務めていた[2]。 1983年には1番・一塁手に定着して83試合に先発出場し、規定打席には届かなかったが、打率.265・7本塁打の好成績を記録する。 1984年には長打力のあるクリス・ナイマンの入団で定位置を追われるが、三塁手として立石充男と併用される。 1986年は故障もあって出場機会に恵まれず、同年限りで自由契約になる。 1987年にプロ入り時の南海コーチであった古葉竹識が監督に就任した横浜大洋ホエールズへテスト入団し、新天地でも内野のユーティリティプレイヤーや代打として起用される。同年の大晦日に放送された『ビートたけしのスポーツ大将』のスピンオフ特番『元祖ビートたけしのマラソン野球』に出場し、草野球の投手相手に三振している[6]。 1988年引退。 引退後引退後は大洋スコアラー(1989年)を経て[2]、1990年からは古巣・南海の後身であるダイエーにスカウトとして復帰し、小久保裕紀・井口資仁・川崎宗則を担当[2]。1990年の沖縄・読谷で行われた春季キャンプでは、この年に就任した田淵幸一監督と法大時代にバッテリーを組んだ1学年後輩の山中正竹がキャンプ地を視察していた[2]。山中はバルセロナオリンピック野球日本代表監督に就任しており、田淵は「これからのことは、山中にすべて聞け!」と、池之上を紹介している[2]。山中は大分県出身で、池之上とは同じ九州人として、馬が合った[2]。池之上は定期的に開催された全日本の合宿や大会に全て帯同し、現場には廣岡知男・牧野直隆・山本英一郎などアマチュア球界の重鎮が集まるほか、高校、大学、社会人の指導者も集結する中で、山中を通じてネットワークを構築[2]。当初、ダイエーはバルセロナの本大会への視察を予定していなかったが、池之上は、編成トップの球団本部長宛にリポート用紙5枚の手紙を書いた[2]。 2000年は世界少年野球推進財団に勤務。 2001年からは阪神タイガースに移籍[2]。編成面の強化を図りたい球団の意向があり、野村克也監督(南海入団時の監督兼捕手)はこの人事に際して強く推した[2]。鳥谷敬・安藤優也・能見篤史・植田海などを担当し[2]、2016年には企画・編成担当、2019年には虎風荘副寮長を歴任。 2020年退団[2]。2018年には甲状腺乳頭癌を患い、約7時間の手術を受けた[2]。神経を傷つけると声を失う危険性もあったが、無事であった[2]。退団後は球界から一線を引き、2021年1月から大阪府門真市に本社を置く物流企業「SEHIRO」にシニアマネジャーとして勤務[2]。70人のドライバーとのグループLINEを通じた業務連絡で、安全に仕事を回す役職であり、一人ひとりのドライバーに対し、愛情を注いだメッセージを送信している[2]。 詳細情報年度別投手成績
年度別打撃成績
記録
背番号
脚注
関連項目
外部リンク
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