石田純一
東京都目黒区出身。血液型はA型。メロン所属(リクコーポレーション提携)。かつてはスカイコーポレーションに所属していた。 来歴生い立ち1954年1月14日、NHKアナウンサー・石田武の長男として東京都目黒区で出生。祖父は中外商業新報(現・日本経済新聞)記者で、政治部長や参事などを務めた石田武太郎[1][2]。母親は女学校時代に原爆投下後の広島市に後片付けに入った入市被爆者[3][4]。4歳までアメリカ・ワシントンで育つ。東京都立青山高等学校を経て、早稲田大学商学部中退。 最初の妻の府中市の緑の党社会運動部長星川まり(1955年 - 、作家・翻訳家の星川淳の実妹)とは、1970年代に知り合ってできちゃった結婚[5][注 1]。1974年、純一が20歳の頃に長男・壱成が誕生。役者をやりたい純一に対して父・武は「子どものために安定した仕事を見つけろ」と怒りを爆発させた[2]。 大学在学中、演出家となることを考えた石田は演劇を学ぶためにアメリカに渡った。東洋哲学に傾倒しており、ヒッピー的な志向であったまりとは、このアメリカ滞在中に離婚。帰国後の1978年には大学を中退、「演劇集団 円」の演劇研究所研究生となった。 俳優デビュー、スターダムへ「演劇集団 円」や、アクト青山ドラマティック・スクールでの下積み生活を経て[5]、1979年にNHKドラマ『あめりか物語』(日系三世のタイ人の店員役)で正式にデビューする。当初は「石田 純」の芸名を使用していた(のちに現在の名前に改名)。1980年、父・武が、仕事中突然脳卒中で倒れ、左半身に麻痺が残り、NHKを退職した[2]。父・武との溝を埋められないでいた純一は役者として芽が出ず、合わせる顔がなかった[2]。 1984年の昼ドラ『夢追い旅行』で準主役で出演しその名を知られると、1985年から1989年にかけて放送されたクイズ番組『TVプレイバック』にレギュラー解答者に抜擢され、そのルックスと萩本欽一やザ・ドリフターズのメンバーにも臆することのない軽快な話術が受け、知名度が上がることとなった。また、1987年にはテレビ朝日の音楽番組『オリジナルコンサート』の司会を務めた。 そして、1988年にテレビドラマ『抱きしめたい!』(フジテレビ系列)に二宮修治役として出演したことから、数多くの「トレンディドラマ」に出演し、バブル期を代表する俳優として活躍した[5]。当初、二宮修治役は陣内孝則が演じる予定であったが、陣内が同時期に放送されたテレビドラマ『結婚してシマッタ!』(TBS系列)に主演として起用されたためにダブルブッキングが発生。陣内が「役が大きい方」を選んで『抱きしめたい!』への出演を辞退し、さらに次候補として挙げられていた加藤雅也もスケジュールが合わなかった[7]ことから、同役が石田に回って来たという経緯がある。ただ、それまで俳優として芽が出なかったこと、それに所属事務所の社長を継いでほしいとの話もあったこと[7]から、石田自身は同作品への出演が俳優としてのキャリアの最後のつもりであった[7]が、同作品の放映開始後から石田の人気が急上昇したことにより俳優を続けていくことになった[8]。 2度目の結婚、「不倫は文化」発言騒動1988年に女優の松原千明と再婚。1990年7月に長女・すみれが誕生。 しかし1991年10月、それまで石田が公表していなかった、星川との間に儲けた長男・壱成の存在が明らかになり、「隠し子」として『週刊女性』にスクープされる。また、石田もその事実を認めた声明を出したため大きく報じられた。壱成は翌1992年に、「石田純一の息子・いしだ壱成」として芸能界デビューし、以降親子での共演なども見られることとなった。 また、石田はファッションモデル・長谷川理恵との8年余りに及ぶ交際でも知られた。1996年10月、『フォーカス』のスクープを発端に長谷川との不倫についてマスコミから追及された石田は「文化や芸術といったものが不倫という恋愛から生まれることもある。作品が素晴らしければ褒め讃えられて、その人の行為は唾棄すべきものとは僕は思えない」[注 2]と反論。この平尾昌晃チャリティゴルフで芸能レポーターの取材に答える石田の姿を報じた翌日のスポーツ紙が、 話の趣旨から創作した「不倫は文化」というフレーズを見出しにした事で、それ以降TVのワイドショーなどでも繰り返し報じられることとなり、石田純一の代名詞の様に取り扱われた。[9]。結婚中の不倫と前述の発言による「不倫バッシング」によって、40代は一転して不遇の人生に転落することとなる[5]。 不倫騒動にもかかわらず、1997年4月に『スーパーJチャンネル』のメインキャスターに就任し、月曜から木曜までレギュラー出演していた。しかし、8月にまたも『フォーカス』に長谷川との密会現場を撮られたことから、翌1998年4月に降板[10]。降板日には生放送で落涙している。 完全に干されてしまった石田は1999年に2度目の離婚。全盛期に3億円あった年収はゼロになり、8000万円の借金ができるなど経済的にも困窮し、それまで住んでいた高級マンションは引き払おうにも引越し代がないという始末であった[5]。この頃の状況について石田は後に、「時間を持て余すことが何よりも辛かった」と語っている[5]。 「不倫は文化騒動」以降は、バラエティ番組や情報番組への出演に主軸をおいた活動が続いている。もっとも、完全に俳優業をやめた訳でもなく、2000年代以降も以前ほどの頻度ではないにせよ俳優活動を継続していた。 3度目の結婚、都知事選出馬騒動2009年にプロゴルファーの東尾理子と交際していることを公表。同年9月に出演したテレビのトーク番組において、翌春に理子と結婚することを発表した[11](実際には同年12月12日に結婚)。理子の実父で、元プロ野球選手の修は石田とほぼ同年代であり、この結婚によって石田より4歳(学年では3学年)だけ年上の義父となった。 結婚から3年後の2012年11月5日には、二人の間に男児・理汰郎[12]が誕生した[13]。翌2013年には理子夫人および理汰郎と共に同年度COTTON USAアワードを受賞している[14]。2015年8月31日には理子夫人が第2子妊娠を報告し[15]、2016年3月24日に女児が誕生[16]。2017年11月7日、理子夫人が第3子妊娠を報告[17]。自身のコラムでは「手間がかかることもあって、僕は3人目に必ずしも積極的ではなかった」と語っている[18]。 2016年7月7日、舛添要一前東京都知事の辞職に伴う東京都知事選挙に「野党統一候補なら、出馬したい」と表明。しかし、民進党の松原仁都連会長は「実務経験がある方が必要。都政は極めて大きな舞台なので、一定の経験がないと大きな船を操れない」と擁立を拒否した[19]。一方で、石田は出馬表明したことによる出演番組やCMなどの差し替えによる損害賠償が数千万円単位で発生していることを明かした[20]。7月11日、石田は会見を開き「正式に断念します。いろいろとお騒がせしました」と陳謝した[21]。その後、所属事務所はCMなどのスポンサー契約やテレビのレギュラー番組がある限り、応援演説など、政治問題に携わることは難しいことを明かした[22]。 コロナ騒動2020年4月15日、新型コロナウイルスに感染したことを公表した[23]。所属事務所は当初、沖縄へ仕事で行き、宿泊先のホテルで体調を崩したと発表したが、一転、ゴルフ場でプレー中に体調を崩したと発表。沖縄県では玉城デニー知事が4月8日に「県外からの来県自粛と、沖縄県民の外出自粛要請」を出したばかりであり、石田が滞在したホテルは休館に追い込まれるなどしたため、強い批判を浴びた[24]。その後、アビガンの投与を受けて治療を続け[25]、5月12日に退院したことを翌日のブログで報告した[26]。しかし、退院後に妻・理子の制止を振りきって、マスクをつけずに外食をしたことが報じられ、更なる批判を浴びた。 俳優業引退宣言とその後2023年5月、友人の山本由美子(山本文郎の未亡人)や山本の息子と千葉県船橋市に焼肉店「ジュンチャン」を開業。後述するように石田自身に船橋に地縁などは無かったが、共同経営者であった山本の息子が近隣地である鎌ヶ谷市で映像会社を経営しており、その知人の船橋駅近くの不動産会社の社長を介して出店地を決めたという[27][注 3]。 前述の通り、これらの騒動の数々を経てなお俳優活動を継続していた石田であったが、70歳を目前に控えた12月に『ななにー 地下ABEMA』(ABEMA、12月24日配信分)へとゲスト出演した際、「(自分が演じることはもう)ないです」「それに関してはやり残したことはないと思うんで」と、俳優業からの引退と監督業への進出を表明している[29]。同番組への出演に際しては、前述のコロナ騒動についても言及しており、「まず、4月5日に感染してるんです。で、4月7日から緊急事態宣言なんで」「沖縄は仕事で行ってますし、1人で行ってますし」と、当時の週刊誌報道が大雑把であると強調。コロナ禍における行動の自粛についても「みんな考え方も違うし」とコメントするなど、改めて自身のスタンスをアピールしてみせた[29]。 同年10月に『ABEMA TIMES』の取材に応じた際には、ゴルフの会員権、車、家などの財産を売り払い、電車通勤で前述の焼肉店「ジュンチャン」に立って接客を行っていると語った[31]。10月27日公開のYouTubeのABEMAニュースでは動画で店で接客をする様子が公開され、収入が10分の1に激減し、子供を養うために働いていること、終電で帰り帰宅時間は1時半であること、客単価が8000円‐1万円であり、肉の品質にこだわっていること、月の売り上げは1000万円前後であることなどを語った[32]。「ジュンチャン」に関しては開店当初こそ「なぜ地縁の無い船橋に?」「どうせ名義貸し」と否定的な意見もあったが、可能な限り店に立ったことでその評価を挽回。基本的には閉店まで店で働き、さらにそのあとは近隣の店に飲みに行くなど地域との交流を積極的に行い、その結果「ジュンチャン」は地域の繁盛店となっている[33]。 人物趣味・嗜好
ファッション
思想・信条
エピソード
家族・親族
出演映画
テレビドラマ
舞台
テレビ番組過去のレギュラー
ラジオ過去のレギュラー
テレビアニメ
吹き替えウェブテレビ
DVD
CM
ディスコグラフィアルバム
シングル
その他
著書脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク |