笠谷俊介
笠谷 俊介(かさや しゅんすけ、1997年3月17日 - )は、大分県大分市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。左投左打。横浜DeNAベイスターズ所属。 経歴プロ入り前宮崎県で生まれ、4歳で大分県大分市に引越す。小学校4年生の時に親友である梅木大哉に誘われ「富士見ネイチャズ」で野球を始める。5年生の時に投手になった。稙田西中学校では大分市野津原地区に拠点を置く中学硬式野球チーム「大分七瀬ボーイズ」に所属、3年生の時に全国大会出場権を得たが、大会は東日本大震災の影響で中止された[2]。 同級生の兄の勧めで大分商業高校に進むと1年生の夏からエース兼4番打者になった[2]。2年生時に夏の大分大会で優勝[2]、全国大会1回戦で修徳高校を相手に7回3分の1を投げ8失点でチームも敗れた[3][4]。3年生時は夏の大分大会の準々決勝で大分上野丘高校に敗れた(5失点完投)[5]。高校の1学年後輩に川瀬晃と森下暢仁がいる。 2014年10月23日に行われたプロ野球ドラフト会議では、福岡ソフトバンクホークスに4位指名を受け[6]、契約金4000万円、年俸500万円で契約合意し[7]入団した[8]。背番号は67。 ソフトバンク時代2015年はウエスタン・リーグで1試合の登板[9]、三軍戦では7試合の登板で2勝0敗・防御率1.59だった[10]。 2016年は左肘痛などがあり[11]、この年は三軍戦で2試合に登板したのみであった[12]。 2017年はウエスタン・リーグで11試合に登板して防御率1.35と結果を残すと、8月22日に一軍初昇格[13]。同23日の埼玉西武ライオンズ戦でプロ初登板を果たし、2回無安打3奪三振無失点と好投した[14]。翌24日に出場選手登録を抹消されたものの[15]、9月28日に再登録され[16]、10月6日のオリックス・バファローズ戦でプロ初ホールドを記録した[17]。日本シリーズでは出場資格者40人枠に入ったが[18]、登板機会は無かった。この年は一軍で3試合に登板し、0勝0敗1ホールド・防御率0.00という成績でオフに10万円増となる推定年俸540万円で契約を更改した[19]。 2018年は6月16日に出場選手登録され[20]、翌17日の広島東洋カープ戦でシーズン初登板となったが、連打を浴びて一死も取れずに降板し[21]、この1試合のみで6月23日に登録抹消[22]。その後は二軍戦で自己最速の150km/hを計測するなど[23]状態を上げ、7月5日に再登録され[21]、8試合に登板したものの、ロベルト・スアレスの復帰に伴って8月6日に出場選手登録を抹消されると[24]、そのまま二軍でシーズンを終えた。この年は9試合の登板で0勝1敗・防御率7.04を記録し、オフに50万円増となる推定年俸590万円で契約を更改した[25]。 2019年はウエスタン・リーグで先発を中心に22試合に登板し、2勝4敗2セーブ・防御率3.05という成績を残して、7月30日にロングリリーフとして出場選手登録[26]。ただ、8月17日の西武戦で4回5安打7四球4失点を喫すると[27]、翌18日に登録抹消となり[28]、その後は一軍へ昇格することができずにシーズンを終えた。この年は二軍では26試合の登板で4勝5敗2セーブ・防御率3.08を記録したが[29]、一軍では2試合の登板で防御率7.20という成績にとどまった。オフの11月23日から台湾で開催された2019アジアウインターベースボールリーグのNPB RED選抜に選出され[30]、契約更改では現状維持となる推定年俸590万円でサインした[31]。 2020年は新型コロナウイルスの影響で120試合制の短縮シーズンとなり、開幕も6月に延期された。6月25日にリリーフとして出場選手登録されると[32]、7月8日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦に先発予定だったマット・ムーアが前日の練習で左足を痛め、急遽プロ初先発となったが[33]、2回6安打2四球2奪三振7失点(自責点6)という内容[34]で敗戦投手となり[35]、再び中継ぎに戻った。7月17日のオリックス戦では先発の東浜巨が右足に打球を受けて3回で降板となり、2番手で登板すると2イニングを打者6人で抑えるパーフェクトリリーフでプロ初勝利を挙げた[36]。リック・バンデンハークが背中の張りで戦列を離れると、同23日の北海道日本ハムファイターズ戦で2度目の先発登板となり[37]、3回3失点で降板したものの、2番手の板東湧梧が4回1安打無失点と好投すると[38]、その後は『ショートスターター笠谷[39]→ロングリリーフ板東』というコンビ登板が増加[40][41]。8月27日のオリックス戦でも板東とのコンビ登板となったが、試合前に工藤公康監督が「今日は行けるところまで行ってもらいます」と宣言すると、自己最長の5イニングを2安打7奪三振1失点に抑え、プロ初の先発勝利を挙げた[42][43]。この年のレギュラーシーズンでは20試合(11先発)の登板で4勝4敗・防御率2.84を記録し、ポストシーズンでの登板機会は無かったものの、日本シリーズの出場資格者40人枠に入った[44]。オフに1650万円増となる推定年俸2200万円で契約を更改した[45][46]。 2021年は初めて開幕ローテーション入りし、3月30日のオリックス戦で6回4安打1失点と好投し、シーズン初登板初勝利を挙げたが[47]、その後は苦しい登板が続き、5月4日の楽天戦を最後にリリーフへ配置転換[48]。リリーフで好投し[49]、同27日の中日ドラゴンズ戦で先発へ復帰するも[50]、4回途中2安打5四球3失点で降板し[51]、翌28日に出場選手登録を抹消された[52]。8月13日の後半戦開幕と共に再登録され[53]、リリーフで結果を残すと、同26日の西武戦で先発を任されたが[54]、4回途中5安打4四死球3失点で降板し[55]、翌27日に登録抹消[56]。9月12日にリリーフとして再登録され[57]、同26日の日本ハム戦で先発を任されると[58][59]、シーズン終盤は先発として結果を残し[60][61]、この年は16試合(12先発)の登板で3勝4敗・防御率4.27を記録。オフに現状維持となる推定年俸2200万円で契約を更改した[62]。 2022年は1月22日に無症状ながら新型コロナウイルス陽性判定を受け[63]、春季キャンプをC組でスタートすることとなった[64]。オープン戦では登板機会を得たが[65]、3月16日の阪神タイガース戦での登板後に二軍降格となり[66]、そのまま開幕を二軍で迎えた。4月14日に出場選手登録されるも[67]、6月13日に登録抹消[68]。7月2日に再登録されるも[69]、同28日に登録抹消となり[70]、8月10日には新型コロナウイルス陽性判定を受けた[71]。9月27日に3度目の出場選手登録となったものの[72]、この年は16試合のリリーフ登板で防御率6.35という成績にとどまった。オフの11月4日からプエルトリコのウインターリーグに参加し[73]、同リーグでは5試合の登板で3勝1敗・防御率1.00を記録[74]。12月6日に帰国し[75]、同25日に100万円減となる推定年俸2100万円で契約を更改した[76]。 2023年は開幕を二軍で迎えると、左肘の炎症で5月から約1か月戦列を離れた[77]。二軍では19試合の登板で防御率1.00と結果を残し、7月9日に出場選手登録され[78]、5試合の登板で防御率0.00を記録したものの、編成上の理由[79]で8月11日に登録抹消[80]。9月9日に再登録され[81]、登板機会が無いまま同13日に登録抹消となったが[82]、特例2023の代替指名選手として翌14日に出場選手登録[83]。9月24日に3度目の登録抹消となったが[84]、10月2日に再登録されると[85]、シーズン終了まで一軍に帯同し、この年は8試合の登板で防御率1.59という成績であった。オフに100万円減となる推定年俸2000万円で契約を更改した[86]。 2024年は先発としてシーズンをスタートし[87]、5月終了時点では二軍で9試合・37回を投げ、防御率1.95を記録していたが[88]、6月中旬から中継ぎへ転向。しかし、8年ぶりに一軍登板が無いままシーズンを終え[87]、オフに戦力外通告を受けた[89]。 DeNA時代2024年11月16日に横浜DeNAベイスターズが育成選手として獲得したことを発表した[90]。背番号は199。DeNAがソフトバンクから育成枠で選手を獲得するのは、昨年の九鬼隆平に続いて2年連続である。テレビ西日本のももスポによれば、支配下でのオファーもあったとされる[91]。 選手としての特徴最速153km/h[92]のストレートにチェンジアップ・スライダー・カーブを投げ分け、どの球種でも空振りを奪えるのが特徴[93][94]。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
記録
背番号
登場曲
代表歴
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
|