『考える葉』(かんがえるは)は、松本清張の長編推理小説。『週刊読売』に連載され(1960年4月3日号 - 1961年2月19日号、連載時の挿絵は朝倉摂)、1961年6月に角川書店から刊行された。太平洋戦争中の日本に秘蔵された財宝、隠匿物資をめぐって発生する連続殺人事件を描くミステリー長編。
1962年に東映で映画化されている。
あらすじ
井上代造は夜の銀座でガラスを破壊するなどの奇行を起こしたかどで、留置場に拘留された。留置場内で井上は、崎津弘吉という名の無口な青年に声をかける。井上は崎津に親切にし、就職の斡旋まで申し出る。表情を示さない崎津だったが、結局崎津は「大日建設」という会社に就職することになった。しかし井上の周囲には、次々と怪人物が現われ、彼らと接触しながら井上は謎の行動を続けていた。
東京西郊の雑木林で、右胸を刃物で抉られた死体が発見され、続いて、川崎の工場地帯で、不思議な宝の案内メモを持った浮浪者の死体が発見された。捜査は停滞していたが、他方、世の中になんの希望も感じられず、ルーズな仕事を続けていた崎津に、井上はある用件を持ちかける。ところが、井上の指示通りに代々木駅近辺をうろついていた崎津は、近隣で発生した、東南アジア使節団団長射殺事件の容疑者として、警察に逮捕されてしまう。
さらに崎津の周囲で不可解な事件が続発する。事態を知り、真相を掴もうと崎津は調査に乗り出す。
主な登場人物
- 崎津弘吉
- 孤独な青年。人生に何の生きがいも見い出せず、退屈している。
- 井上代造
- 体格のいい大男。留置場に居た崎津に声をかける。
- 板倉彰英
- 青年社長。元首相の別荘を買い取り、広大な邸宅に住んでいる。
- 村田露石
- 老書家。板倉の書道の先生。
- 杉田一郎
- 宝鉱山採掘所の保安主任。
- 中野博圭
- 政治家。派閥の頭領。
- 井上美沙子
- 井上代造の妹。
- 大原鉄一
- 川崎の浮浪者殺人事件の被害者。通称鉄ちゃん。
- ルイス・ムルチ
- 東南アジア・R国調査団の団長。
エピソード
- 単行本刊行の2年後『宝石』に掲載された創作ノートで、著者は以下のように述べている。「名前はいわないが、いま大実業家になっている人がいるんだ。この人は、戦争末期に軍需省の雇員 ― 運転手で、いろいろな軍需物資の横流しをやっていた。そのために憲兵隊につかまったが、終戦のためウヤムヤになってしまった。その人は、もちろん一人でやったんじゃない。相当上の方と結託して、彼が横流し物資をどこかに運んだんですがね。ところが戦後になって、その人がメキメキと売り出しまして、数億の金を、ある財閥に突然投げ出したんです。昭和二十四、五年頃。そうすると、終戦の時の一介の運転手が、いくら終戦直後の混乱期があったとしても、金の出所がおかしいじゃないですか。そこに彼が軍需省の隠退蔵物資の横流しのものをどこかに隠して、あの終戦混乱期に、ヤミに流して一儲けした、とも考えられる。彼自身の釈明によると、鉱山であてたとか、株式で儲けたとかいってますがね。実証はないわけですよ。これは実話なんです。そういうところがヒントです」[1]
関連項目
映画
1962年5月16日公開。製作は東映東京撮影所、配給は東映。公開時のタイトルは『松本清張のスリラー 考える葉』[2]。
製作
企画は当時の東映東京撮影所(以下、東映東京)所長・岡田茂[3][4]。
東急グループ内で孤立する大川博東映社長は[5]、東映内で幅を利かす東急系の古参幹部から、早く東映生え抜きの若手・岡田茂・今田智憲の時代に切り換えをしたくて[5][6][7][8]、1962年2月15日に[9]、それまでの企画本部を実質解散させ[10]、東西の撮影所の所長に企画の最終決定権を持たせる思い切った人事を発令した[9][10][11]。これにより1961年9月に東映東京の所長に就任していた岡田に強い権限が持たされた[10][12]。岡田は佐伯清など、巨匠監督を一人残らず契約解除し[12][13][14]、深作欣二ら若手監督を起用[12][13][15][16][17]。若手と中堅との混成で東映東京の改革を推し進めていく体制を執った[18]。
ただ現代劇を製作する東映東京には、絶対的にお客を呼べるスターが当時はおらず[3]、それで所長就任後に最初にやったのが、特に売れたスリラーなど知名度の高い原作を母体とする企画であった[3][4]。壷井栄の『草の実』や、小坂慶助『二・二六事件 脱出』、菊村到の『残酷な月』や、本作などで[3][4][19]、しかしこれらの作品は評価されるも興行が振るわず[3]。館主にも拒否され、営業部も宣伝も黙って市場に流す状況。つまり対外的にも対内的にも熱が入らず[3]。そこで対内的にまずPRの行き届くものを作ると決めた[3]。岡田茂は映画の企画力もさることながら、「オレの仕事の半分は社内セールスだ」「これ当たるで~」などと周りに吹きまわり[10]、営業部や興行部をその気にさせる宣伝力の才も持ち合わせていた[10]。ここから岡田が仕掛けた「東映ギャング路線」「喜劇路線」「名作路線」「任侠路線」などが次々当たり[7][4][12][15][20]、岡田の一言で製作が決まって、会議なしという状況が生まれ[17]、以降、岡田の標榜する"不良性感度映画"が幅を利かせていくようになった[13][21]。
キャスト
他
スタッフ
脚注
注釈
- ^ 「ずっと以前、総理大臣をやっていた人の元別荘で(中略)、当時、新聞記事にもたびたび出ていた名前である」(第二章)、「中央線O駅の南口から歩いて十四五分はいった一画である」(第九章)などを参照。
出典
外部リンク