西村青児
西村 青児(にしむら せいじ、1906年3月30日 - 1948年)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6]。本名西村 清司(にしむら せいじ)、旧芸名日向 錦之助(ひゅうが きんのすけ)[1][2]。旧漢字表記西村 青兒。 人物・来歴1906年(明治39年)3月30日、北海道小樽市に生まれる[1][2]。 北海道庁立小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を卒業後、満18歳になる1924年(大正13年)、兵庫県西宮市甲陽園の東亜キネマ甲陽撮影所に入社する[1][2]。1926年(大正15年)3月、同社を抜けて小林一三や坪内士行らが結成した宝塚国民座に一時期参加したが、翌年1927年(昭和2年)3月には東亜キネマに復帰、京都・等持院の京都撮影所に所属する[1]。同年からは、「日向 錦之助」の名で、井出錦之助監督の『夜光珠を繞る女性』や米沢正夫監督の『光に向ふ人々』(1928年)等に主演・準主演級で出演するが、1929年(昭和4年)夏に同社を退社している[1][3]。 休養を経て、満25歳となった1930年(昭和5年)、東京に移り、松竹蒲田撮影所に入社、「西村 青児」と改名する[1][3]。以降は脇役として出演をつづけ、1936年(昭和11年)1月15日、同撮影所の全機能が神奈川県鎌倉郡大船町(現在の鎌倉市大船)の松竹大船撮影所に移転した際には、大船に異動している[3]。1940年(昭和15年)には、満州映画協会(満映)と松竹との提携作品『黎明曙光』(監督山内英三)に笠智衆とともに特別出演、同作は、同年9月22日に公開された[1][3]。1942年(昭和17年)2月1日以降、映画法による戦時統制の時代にも、引き続き同撮影所で脇役出演を続けた[3]。 第二次世界大戦終結後も同撮影所に所属し、1948年(昭和23年)中ごろまでの出演の記録が確認できるが、同年に死去したものと伝えられている[1][2]。満42歳没。 フィルモグラフィ特筆以外すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6][7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 東亜キネマ京都撮影所すべて製作は「東亜キネマ京都撮影所」、すべて配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画、「日向錦之助」名義である[3][4]。
松竹蒲田撮影所すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画、「西村青児」名義である[3][4]。
松竹大船撮影所特筆以外すべて製作は「松竹大船撮影所」、戦時中の「映画配給社」による配給以外すべて配給は「松竹」、すべてトーキー、すべて「西村青児」名義である。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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