軍旗軍旗(ぐんき)とは、軍隊(特に陸軍)および軍隊内の部隊を表章する旗章。近代的陸軍の登場以降は伝統的に連隊(聯隊)を恒久の基本的部隊単位としてきたことから、連隊ごとに授与されるものは特に連隊旗(聯隊旗、れんたいき)とも称される。 概説軍旗は、指揮官・部隊長の所在を明示する目的や、軍隊・部隊の精神的支柱として古くから用いられており、一例として古代ローマ(ローマ軍)の各軍団は固有の軍旗を有していた。世界において軍旗はその軍隊の象徴であると同時に、その国の国旗に準じ国家等を表す重要な存在である。 多くの国の軍隊において、軍旗は程度の差はあれど神聖視される存在であり、原則として再交付は許されず、戦闘において敵軍の軍旗は鹵獲するべき対象となった。また、敵軍に軍旗を奪われることは大変な恥辱とされ、軍旗は命を賭して守護すべきものであると考えられる傾向があった。特に軍旗が畏敬されていた軍隊としては、近世および近代のフランス軍・ソ連赤軍・大日本帝国陸軍などがあった。また、プロイセン以降の歴代ドイツ軍では、主に新兵が軍旗に対して宣誓を行い国家等に対し忠誠を誓う「忠誠宣誓(軍旗宣誓)」が、ほか17世紀以降のイギリス軍では近衛師団隷下の各連隊が軍旗を先頭に分列行進を行い、英国王の閲兵を受ける「軍旗敬礼分列式」[1]という軍旗をメインに用いた伝統的な儀式が現代に至るまで行われている。 かつては演習地や戦場において、部隊長(連隊長)のあるところには常に軍旗(連隊旗)が掲げられ、部隊拠点の所在を明示していたが、戦術の変化や兵器および通信機器の進歩により意味を失った。また連隊長や連隊本部の所在を敵に示してしまい攻撃の格好の標的となること、上述の事情から軍旗の死守に拘泥することで臨機応変な戦闘行動や俯瞰的な作戦指揮を阻害すること、そして万一奪取されるなどの事態が起きた場合に将兵の士気に関わることなどから、列強各国の戦闘教義が進化した第二次世界大戦以降は概ね戦場に掲げられることは少なくなっている。現代では単に軍隊・部隊のシンボルとして、パレード(観兵式・観閲式)や栄誉礼などの儀式(式典)・行事のみで使用されることが多い。 同様の物として、日本の警察機動隊で使われる「隊長旗」(伝令が保持し、周囲に隊長の居場所を知らせる)がある。 軍旗の一覧歴史少なくとも青銅器時代以降には、軍隊を示す紋章(フィールドサイン)が戦争で使用されていた。フィールドサインとしての旗の使用は、中国やインドあたりのアジアの鉄器時代に登場したのが明らかになっている[2]。 それ以外の地域で旗が使用される前は、ローマ軍のウェクシルムのように、棒の先端に垂幕をたらしたヴェクシロイドや、像を取り付けた棒(シグナム、signum、持ち手はシグニフェルと呼ばれ、更に掲げる物によってイーグルスタンダード(アクィラ)持ちはアクィリフェル、皇帝のイメージとなる物を掲げたImaginifer、龍の飾りを掲げたDraconarius等が居た)が使用された。 軍旗の使用は中世の頃に一般的になり、盾の上に示された紋章を補完するものとして紋章と共に発展した。また像に関しては、中世の騎士は兜の上に取り付けることもあった。 大日本帝国陸軍大日本帝国陸軍は、日本史上において先駆けて旭日旗を考案・採用し、「軍旗(旧称・陸軍御国旗)」として制定した。意匠は国旗である日章旗に準じ日章は中心に位置し、十六条の光線(旭光)を放つ。なお、海軍はその陸軍に遅れること19年後の1889年(明治22年)、(陸軍の)「軍旗(陸軍御国旗)」に倣い旭日旗を「軍艦旗」として制定した(日章位置は旗竿側に寄る)。 「軍旗」および「軍旗の意匠の旭日旗」は、五芒星(五光星)や桜星(桜花)とともに、明治最初期から「帝国陸軍の象徴」として国民に広く知られており、戦争画・写真、軍歌、メディア(新聞・ラジオ放送・ニュース映画など)、兵営公開イベントを兼ねた軍旗祭などを通して一般市民からも親しまれていた存在であった(#軍旗の意匠)。 なお、制式・正式の名称は「軍旗」であるが「連隊旗(聯隊旗)」の通称・呼称も採用当時から多々使用されている。
軍旗の歴史
軍旗の扱い軍旗は陸海軍の大元帥たる天皇から直接手渡しで授けられる(「親授」という)極めて神聖なものであり、また天皇の分身であると認識されたいへん丁重に扱われ、帝国陸軍や連隊をあらわす旗という意味以上の存在とされた。軍旗に対しては天皇に対するのと同様の敬礼が行われた(#軍旗に関する敬礼)。陸軍の礼式曲(礼式歌・礼式喇叭譜)中、軍旗に対するものとしては「足曳(あしびき)」が制定されており、これは主に軍旗に対する敬礼を行う際に吹奏された。 1936年(昭和11年)に起こった二・二六事件では、戒厳司令部が「勅命下る 軍旗に手向かふな」(「お前達のやっていることは天皇陛下に対する反乱であり、陛下から鎮圧命令が出た」という意味)と書かれたアドバルーンを掲揚、またラジオ放送においても「兵に告ぐ。勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。 (中略) 今からでも決して遅くないから、直ちに抵抗をやめて、軍旗の下に復帰するようにせよ」と勧告、反乱将兵に対し原隊帰順を促している。 日本(大日本帝国)においては、他国の陸軍と同様またはそれ以上に軍旗が神聖視され、軍旗を喪失することは極めて重大な失態と考えられた。西南戦争を描いた月岡芳年の浮世絵(錦絵)『鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争之図』[3]では、「野津大佐軍旗を奪還す」の副題の通り、西郷軍に一度奪取された歩兵第十四聯隊軍旗を野津道貫陸軍大佐が奪還するシーンを華々しく描画している(これは陸軍による宣伝であり実際は奪還していない。戦後警察が発見。後述)。反面、軍旗奪還のために無謀な作戦を行い却って部隊が損害を受けるなど、本末転倒ともいうべき事態も発生した。なお、西南戦争下の1877年(明治10年)2月22日、歩兵第14連隊は植木町田原坂付近にて西郷軍の大部隊と激戦となり、移動中の連隊旗手・河原林雄太陸軍少尉は戦死し軍旗が奪取された。この事件に対し連隊長心得(連隊長代理)・乃木希典陸軍少佐[4]は、総指揮官・山縣有朋陸軍大将に対し待罪書を送り処分を求めた。この軍旗喪失は不可抗力として不問に処され翌年1月21日に再授与されている。なお、再授与直後に歩兵第14連隊軍旗(旧)が発見され、陸軍省が回収・保管していた(「歩兵第14連隊#本連隊の軍旗」を参照)。 軍旗自体の所掌事務は陸軍省(陸軍大臣)が、製造は陸軍省の外局である陸軍兵器行政本部(最終時)の管轄であったが、製造自体は基本的に民間への外注であり、東京の大手高級軍装品店「株式会社寿屋商店(すやしょうてん)」が制作・納入している。また、軍旗の管理上の扱いは建前ではあるが「兵器」とされていた[5]。 親授は「軍旗親授の儀」(『皇室儀制令』 大正15年10月21日皇室令)により、旗手や連隊長は正衣(大礼服)着用の上、諸式にのっとり宮中(皇居)にてとりおこなわれ勅語とともに軍旗が下賜された。 旗手(連隊旗手)は、新任の少尉(稀に中尉)の中の成績最優秀者が1年間交代で務め、連隊本部附であった。旗手の要件は品行方正・成績優秀・眉目秀麗・長身であることが求められ、また暗黙の要件として童貞で、悪所通いをしない高潔な人物が選ばれた。旗手は日常の勤務においては、連隊副官の秘書のような形で、連隊本部の事務処理に当たった。さらに軍旗には誘導将校と数名の軍旗衛兵が付され、また戦場では軍旗を守護するために1個中隊が編成されるが、これは本部中隊たる予備兵力として運用された[6]。観兵式などにおける分列式において、連隊が『陸軍分列行進曲(観兵式分列行進曲)』および『観兵式行進曲』[7]にのせて分列行進する際は、軍旗(旗手・衛兵)を先頭に連隊長以下連隊将兵がこれに続いた。軍旗は決して後退しないとの建前から、軍旗を反転させる際の号令としては「回れ右」は用いられず、「右向け右」を二回繰り返すとされた。 軍旗は完全に失われない限り再授与されることはなかったため、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争、日清戦争、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦(日独戦争)、シベリア出兵、満州事変、第一次上海事変、日中戦争(支那事変)、張鼓峰事件、ノモンハン事件、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)などを経た歴史の古い連隊の軍旗は、旗部分が殆どなくなり房だけとなった物がきわめて多かった。これらの軍旗は激戦を戦い抜いてきた連隊の栄光の象徴として大変な名誉とされており、1886年(明治19年)に原詩が発表され、1891年(明治24年)に曲がつけられた軍歌『敵は幾万』の第2番では「風に閃く連隊旗 記紋は昇る朝日子よ 旗は飛びくる弾丸に 破るることこそ誉れなれ」と謳われている。しかし旗だけが損耗して房が残る点については、胡桃沢耕史は人為的にひそかに手が加えられていたとする証言を聞いたことを軍隊時代の体験記である『黒パン俘虜記』に記しており、また連隊の将校が在隊記念として旗片を隠れて失敬することもあった。平時においても演習時に軍旗が損傷することも少なくなく、これら損傷記録は各軍旗とともにあった公式文書である「軍旗損傷誌」や「軍旗日誌」、軍関係者や民間向けに頒布される冊子や軍旗縮図に絵入りで記されていた。行軍時には無駄な汚損を防ぐため、筒状の布袋(覆い)を被せ保護する。 中でも、神風連の乱にて旧・熊本藩反乱士族の攻撃を受けた歩兵第13連隊では、佐竹広明陸軍中尉が陸軍御国旗を体に巻きつけ死守したため旗が血に染まり、また、日露戦争の沙河会戦・三塊石山の夜襲白兵戦において、歩兵第39連隊の軍旗は旗手2名が戦死した際にその血を受けたため、これらは「血染めの軍旗(血染めの連隊旗)」と謳われよりいっそう尊崇された。 なお、軍縮(宇垣軍縮)などにより連隊が廃止される際は軍旗は奉還(返納)される。これは編制の改編でも同様であり、1940年(昭和15年)頃末から順次実施された一部の既存騎兵連隊の捜索連隊(機動戦闘斥候部隊)への改組では、(捜索連隊の)編成に際して軍旗は奉還されている(全ての騎兵連隊が改編されたわけではなく、儀仗部隊を兼ねている近衛師団の近衛騎兵連隊や、騎兵第26連隊など数個連隊は終戦時まで存続している)。 戦時の報道写真においては、防諜上の理由から画面に写った軍旗は検閲の対象に含まれた。また、軍旗は戦闘において連隊が壊滅間際・玉砕直前(連隊の最期)になった際は連隊長や旗手の手により奉焼(丁重に焼く)された(#軍旗の奉焼等)。第二次大戦終戦時には各連隊に対し陸軍大臣より奉焼命令が出され、軍旗奉焼式を経てごく一部を除き全てが焼失し、灰や燃え残った旗・竿頭破片も土中に埋没ないし河川に流され処理された。これは天皇の分身である軍旗を敵の手に渡すことを避けたためである。一方で、極少数であるが現存する軍旗や小片が存在している(#現存する軍旗) 軍旗の意匠→「旭日旗」も参照
上述の通り、「帝国陸軍の軍旗の意匠たる旭日旗」は当時から有名な存在であったと同時に、その意匠は現代の今日に至るまで多方面で使用されることとなった(日章旗と同じく各サイズの旭日旗が大量に生産され軍隊のみならず民間においても広く普及していた)。なお、日本において「旭日」という概念・意匠自体は比較的古くから知られていたものの、「旭日旗」として公式に考案・採用・規定されたのはこの「陸軍御国旗(軍旗)」が史上初めてである。 授与対象が歩兵連隊と騎兵連隊のみであったのにもかかわらず、軍旗が帝国陸軍の象徴に位置づけられていた一例として、元帥たる陸海軍大将が佩用した1898年(明治31年)制定の「元帥徽章」や、明治二十七八年従軍記章・明治三十七八年従軍記章・大正三四年従軍記章/大正三年乃至九年戦役従軍記章・支那事変従軍記章といった各戦役の従軍記章では、その意匠に軍旗[8]を使用していた。また、陸海軍の予備役軍人や未入営補充兵ら在郷軍人が入会する組織、帝国在郷軍人会の区町村単位の分会が保有する「会旗」は歩兵連隊軍旗をモチーフとしたものであった[9][10]。 特殊な例として、1898年(明治31年)に慶應義塾(慶應義塾大学)が、軍旗を制作・納入している寿屋商店より特別の許可をもって制作途上の軍旗を購入している。これは、慶應義塾が他校に先駆けて独自に発足させた慶應義塾生徒隊(兵式操練を行う団体)の隊旗として導入したものであり、旭日旗自体はそのままに竿頭を塾章であるペンマークに、房は浅葱色に変え、軍旗では連隊の隊号を記入する余白には福澤諭吉によって「慶應義塾生徒隊」の文字が書かれてあった、翌、1899年(明治32年)3月15日には福澤別邸において隊旗授与式が行われている[11]。 また、チベットの国旗(軍旗)の意匠は、その考案に青木文教が関与していたこともあり間接的に帝国陸軍の軍旗(旭日旗)の意匠の影響を受けている[12]。
現存する軍旗歩兵第321連隊(1945年7月23日親授)では軍旗の喪失を惜しんだ連隊長・後藤四郎陸軍中佐の考えにより、旗竿のみを収めた奉安箱を奉焼。旗と竿頭はGHQ統治下を経て日本の主権回復に至るまで神道天行居という団体の施設に隠し通したため、これがほぼ完全な姿で現存する唯一の軍旗となっている。これは旗竿を復元したうえで靖国神社に奉納され、遊就館の特別陳列室に展示されている。 このほかにも一部の連隊では奉焼を経て残った破片や灰、もしくは奉燃を免れた一部が連隊将兵の手により持ち帰られている。
ギャラリー
軍旗に関する敬礼『陸軍礼式令』(昭和15年1月25日軍令陸第3号)によると、第4章に軍旗に関する敬礼が定められている。
軍旗の奉焼等
難を逃れた軍旗
陸上自衛隊→「自衛隊の旗」も参照
「軍隊」ではないとされる陸上自衛隊において、「軍旗」に相当するものは自衛隊旗(じえいたいき)である。意匠は八条の旭日旗で、旗地の彩色は白色、日章および光線の彩色は紅色、縁の彩色は金色とされている。縦87.5 cm、横は108.9 cm、日章は直径41.5 cm。旗の生地は綾錦織。連隊名は旗竿に付されている銘板に記入される。 自衛隊法(昭和29年6月9日法律第165号)第4条により内閣総理大臣[13]は自衛隊旗を交付し、自衛隊法施行令(昭和29年6月30日政令第179号)第1条の2第1項により陸上自衛隊の連隊にのみ交付されることとなっているため、「連隊旗」の通称・呼称も多々使用されている。 なお、陸上自衛隊の前身である警察予備隊および保安隊にも連隊旗が制定されていたが、旧軍との関連性を排する意図から旭日旗の意匠は用いられておらず(これは海上自衛隊の前身である警備隊の警備隊旗も同様)、旗地の彩色は連隊職種を示す色(普通科は赤、特科は黄)とし、中央には警察予備隊の帽章であった「旭日章に鳩」が意匠として配置されたものであった。旗竿には菊紋ではなく桜花が用いられた。警察予備隊の連隊旗は警察予備隊令(昭和25年8月10日、 ウィキソースには、警察予備隊令の原文があります。)により警察予備隊が発足した翌1951年(昭和26年)に制定され、旗のサイズは帝国陸軍の軍旗(連隊旗)にほぼ準じた縦80 cm、横100 cmのもので、「旭日章に鳩」の意匠の下に白字で連隊番号が記入されていた。保安庁法(昭和27年7月13日)により保安隊への改編が行われると、旗のサイズが現在の自衛隊旗と同じ縦87.5 cm、横108.9 cmとなり、連隊番号は帝国陸軍と同じく旗の左下に白布に黒字で記入される形に変更された。これらの連隊旗は昭和29年の自衛隊の発足とともに廃止され、先述の旭日旗を意匠とする自衛隊旗となった[14]。 自衛隊旗の扱い陸上自衛隊には連隊以外にも、群旗・大隊旗・中隊旗(甲)および中隊旗(乙)に隊旗が授与されるが、次のような差異・特異点がある。
自衛隊旗を含む隊旗については
に使用することができるものとされ、現代の軍旗の使用実態に合わせて、行事における使用目的が、旧来の軍旗の用途である戦場における部隊長の所在の明示目的よりも上位に列挙されている。 自衛隊旗の意匠陸上自衛隊の自衛隊旗は帝国陸軍時代の軍旗の意匠をベースとしているものの、光線を十六条から八条に変更するなど差異がある。しかし、八条旭日旗の意匠自体は十六条旭日旗と同時代の頃から存在しており、例として明治時代初期に歌川芳虎により描かれた箱館戦争を描いた錦絵、『箱館大戦争之図』や『時明治元戊辰ノ夏旧幕ノ勇臣等東台ノ戦争破レ奥州ヘ脱走ナシ夫ヨリ函館ヘ押渡再松前城ニ於テ合戦ノ図』[19]では、新政府軍(官軍)が自衛隊旗の意匠とほぼ同じ八条旭日旗を掲げ、旧幕府軍と戦闘を行っている場面が描画されている。 ギャラリー
中国大陸の旗
脚注
文献
関連項目
外部リンク |