近藤正二
近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年〈明治26年〉2月5日 - 1977年〈昭和52年〉1月22日)は、日本の衛生学者、医師。医学博士。東北大学名誉教授。 生涯を通して食生活改善の啓蒙・普及に尽力し、欧米人と比較して著しく劣っていた日本人の体格、体力、寿命の向上に貢献した。 略歴新潟県新潟市本町通10番町(現 新潟市中央区本町通10番町)の薬種商・近藤市蔵の次男として出生[1][注 1]。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業[注 2][注 3]、1913年(大正2年)7月に第一高等学校を卒業[注 4][注 5]、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業[5][注 6][注 7]。 1918年(大正7年)1月に東北帝国大学医科大学細菌学教室細菌学講座(担任:青木薫教授)助手に就任[5]、1920年(大正9年)11月に東北帝国大学医学部細菌学教室細菌学講座講師に就任[7]、1921年(大正10年)3月に助教授に就任[8][注 8]。 1925年(大正14年)3月に文部省在外研究員として出発[9]、ドイツのフライブルク大学のパウル・ウーレンフートのもとで衛生学を研究、イギリスとアメリカの各大学の衛生学研究の状況を視察[10]、1927年(昭和2年)6月に帰国[11][注 9]。 1927年(昭和2年)8月に東北帝国大学医学部衛生学教室衛生学講座初代教授に就任[13][14][注 10][注 11]、1937年(昭和12年)7月に東北帝国大学医学部第13代学部長に就任[16][注 12]。 1956年(昭和31年)3月に東北大学を定年退官、東北大学名誉教授の称号を受称、7月に北海道学芸大学教授に就任、1959年(昭和34年)3月に北海道学芸大学を定年退官[5]。 宮城学院女子大学、宮城学院女子短期大学、三島学園女子大学、三島学園女子短期大学、尚絅女学院短期大学の講師や仙台白百合短期大学の教授に就任[18]。 大学での講義を終えて自宅で休んでいる間に胃から出血を起こし[19]、1977年(昭和52年)1月22日午後2時50分に東北大学医学部附属病院で胃潰瘍のため死去[20]、墓所は宮城県仙台市青葉区八幡の龍寶寺[19]、戒名は明教院覚寿正道居士。 調査・研究短命の原因1930年代、日本の人口に対する70歳以上の者の比率・長寿者率は欧米の半分程度(約2.65%)であり、日本人は短命であった。短命の原因を突き止めるため、近藤正二は日本全国の長寿者率が高い村・長寿村と長寿者率が低い村・短命村において気候、地理的条件、生活事情(老人たちの若い時代からの労働、食生活、飲酒、飲料水、迷信、風習など)について実地調査を行って比較検討した。その結果、寿命と最も大きな因果関係があるものは食生活であることが判明した[21][22][注 13]。 長寿村と短命村の食生活近藤正二は1935年(昭和10年)から40年以上にわたって日本全国の1000ヵ所以上の長寿村と短命村の食生活を調査した[19][24][25]。若年層が多く転入・転出する村は一律に見ることができないため省略している[26][注 14]。 近藤正二は調査の結果から、長寿村と短命村の食生活を次のように要約した[28][29][30][31][32][33][34][35][36][37][38][39][40][41]。
健康長寿の食生活近藤正二は1944年(昭和19年)に日本衛生学会で日本全国の約300ヵ所の長寿村と短命村の食生活を最初に発表して以来[42]、学会や講演会、テレビ、雑誌、著書などで次のような健康長寿の食生活を啓蒙し続けた[43][44][45][46][47][48][注 15]。
飲酒と寿命近藤正二は長寿村の食生活の一つとして、「酒をあまり飲まない」ことを挙げているが、絶対の条件とはしていない[91]。酒を飲んだからといって短命になるものではない、ほどほどの飲量なら生命への障害になるものではないと述べている[92]。また、「酒は百薬の長」であるというデータはないとも述べている[93]。 虚弱児だった近藤正二の願い近藤正二は虚弱児として生まれ、医者に「生まれつき弱く生まれたんだから仕方がない」と見放され、周囲は「この子は長生きはできなかろう」とあきらめていた。神仏に頼るしかないと、母親に連れられ歩いて遠くの神社や寺院にまで参拝した。小学生の時は年に100日休み、競走はいつもビリ、昼休みは一人残って弁当を食べた。弱いなら弱いなりに鍛えなければならないと思い、毎日歩くことを欠かさなかった[注 26]。少しずつの鍛錬が自分を支えてきたと近藤正二は述懐している[96]。 近藤正二の長寿村と短命村の調査における真の狙いは、長寿者が多いか少ないかではなく、老衰が遅いか早いかであった。長寿村では老衰が遅く、老人でもみんな元気で働いていた。一方、短命村では老衰が早く、50代で既に体力が弱っていた。老衰が早いのは食生活の欠陥が大いに関係していて、これが改善されれば、仕事をしても比較的に疲れない体になると近藤正二は確信していた[97]。 近藤正二は「人間は少なくとも70歳以上まで健康で生きてもらいたい、そのかわり私は百何十歳という英雄的な長寿は、必ずしも考えなくてもいいのではないか、百何十歳の人がいても、いなくてもいい。むしろ遠慮なく言わしていただくなら、百何十歳にならなくても、結構なのであって、そのかわり国民がそろって70歳を越えるまで、健康で自分の仕事をする、という国にしたい」という念願を繰り返し述べている[98]。 逸話
近藤正二は1929年(昭和4年)から仙台鉱山監督局の衛生技師を務めていた。福島県から茨城県に広がる常磐炭鉱の坑内は湧き出す温泉で高温高湿のため、熱中症で倒れる者が非常に多かったので、どういう条件で熱中症が起こるかを調べるため、何度も出張して毎日坑内に入って検査を行った。「坑内作業場における気温は摂氏37度以下となすべし」という法規があったが、坑内で起こった熱中症の実例を集めて検討したところ、湿球温度が31度以上で熱中症が起こることが分かったので、坑内では必ず湿球温度計を使って31度以下にしておくよう指導した。戦後、労働基準法の細則が制定される際、近藤正二は関係専門学者からなる諮問委員会の委員に遅れて任命され、初めて委員会に出席したところ、すでに答申案ができていて、そこには「坑内気温は37度以下」と書いてあった。そこで、常磐炭鉱の実例を説明して31度以下にするべきだと主張して承認されたが、答申案はすでに関係機関に提出されていて改正は次の機会ということになり、37度以下のままになった[99]。現行法令の労働安全衛生規則の第611条でも37度以下のままである[100]。
近藤正二は1929年(昭和4年)から宮城県仙台市の小学校で児童の発育を調査していたが、教室には暖房がなかったため、ストーブを置くべきだと市に訴えた。ところが、市会議員には賛成者が少なく、特に軍人上がりの市会議長は自分たちが年を取っても丈夫でいるのは寒い所で鍛錬してきたからで、ストーブを使ったら人間が弱くなると言って反対した。そこで、近藤正二は地元の新聞『河北新報』に鍛錬と非衛生は違うものだという説を発表して市民に訴えた。それが奏功し、市会議員に理解されてストーブを置くことになった。だが、小学校の1学級は児童数が多くてストーブを置く場所がなかったため、教室を増築しなければならなかった。幸いなことに、ストーブ反対派であった市会議長がストーブ賛成派となって力を尽くし、教室を増築してストーブを置くことが1934年(昭和9年)に完了した[101]。
1931年(昭和6年)夏、紫外線の研究のため長野県の蓼科高原に滞在していた近藤正二は日本画家の青年・
戦争で米の配給制が実施された途端に仙台市の児童の身長も体重も発育の速度が低下し始めたため、近藤正二は文部省や厚生省などに数字のデータを示して報告した。文部省に対しては全国的な調査を行うよう3回も頼んだが行ってくれなかった。ところが一方、厚生大臣の小泉親彦が近藤正二の報告を取り上げ、児童の体格が低下し始めたことは重大事で、文部省が調査をやらないなら厚生省がやるしかないと言って、厚生省が全国的な調査を行い、小泉親彦が帝国議会で報告した[103]。
食糧事情が悪化した戦争末期、米が足りなければサツマイモを食べよと唱える内原訓練所所長の加藤完治や、米の配給を減らしても国民の体力が続くかどうか近藤正二に意見を求めた農商大臣の石黒忠篤に、米やサツマイモを腹いっぱい食べても、タンパク質を十分に摂取しなければ体力が続かないと近藤正二は大豆の必要性を説いた。それを聞き入れた石黒忠篤が大豆の緊急増産命令を出し、日本全国の桑畑の桑の木が切られて大豆畑が作られたが、大豆が採れる前に戦争が終わった[104]。
戦後、1946年(昭和21年)10月に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) 公衆衛生福祉局 (PHW) 栄養顧問のポール・E・ハウ大佐が近藤正二を訪ね、学校給食に何を出したらいいか、小麦粉のパンか、それとも、動物性の食物か、意見を求めた。近藤正二は戦争による栄養不足で貧弱になった児童の体格を考慮し、身長を伸ばす動物性タンパク質を含む食物がいいと答えた[注 27]。すると、ハウ大佐はミルクを提案し、近藤正二はそれに同意した。そして、1947年(昭和22年)に日本全国でミルクの学校給食が開始されると[注 28]、同年10月の身体測定で児童の身長が著しく向上する結果になった[59][106][107][108][109][110]。 表彰栄典・賞
称号関連人物友人
家族・親戚
その他著作物著書
論文脚注注釈
出典
参考文献
関連文献
外部リンク
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