近藤芳美
近藤 芳美(こんどう よしみ、男性、1913年5月5日 - 2006年6月21日)は、日本の歌人。 本名は近藤 芽美(読みは同じ)。戦後の歌壇を牽引する歌人として活動し、文化功労者に選ばれた。長年「朝日歌壇」(朝日新聞)の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持ち、ゼネコンや大学に籍を置く。 東工大建築科卒。「アララギ」に入会、土屋文明に師事。1948年刊行の『埃吹く街』は戦後の短歌の方向を樹立したものといわれている。戦争経験をもつ知識人の立場から時代状況を鋭く歌いつづけた。ほかに『黒豹』(1968年)など。 生涯1913年、慶尚農工銀行(後の朝鮮殖産銀行)に勤務する父の赴任先だった朝鮮・慶尚南道の馬山で出生。12歳で帰国し、父の郷里・広島市鉄砲町(現・広島市中区鉄砲町)で育つ。広島県立広島第二中学校(現・広島観音高)時代の教師に影響を受け、短歌に関心を抱いた。旧制広島高校(現広島大学)在学中に、広島市近郊で療養中の歌人中村憲吉を訪ね、「アララギ」に入会、本格的に作歌を始めた。以後、中村及び土屋文明に師事した。 東京工業大学卒業後、清水建設に入社。設計技師として勤務する傍ら、アララギ同人としての活動を継続した。戦時中は中国戦線に召集された。終戦後の1947年、加藤克巳、宮柊二ら当時の若手歌人と「新歌人集団」を結成。同年、評論『新しき短歌の規定』を発表した。またこの頃、鹿児島寿蔵や山口茂吉、佐藤佐太郎らと共に「関東アララギ会」を結成している。 1948年、妻で歌人のとし子(本名=年子)への愛情などを綴った処女歌集『早春歌』を上梓。同年刊行の歌集『埃吹く街』と共に注目を集め、戦後派歌人の旗手としてのデビューを飾った。 1951年、岡井隆、吉田漱、細川謙三、金井秋彦、相良宏、田井安曇、上野久雄、河野愛子、川口美根子、米田律子らとともにアララギ系短歌結社「未来短歌会」を結成、同時に歌誌『未来』を創刊し、これを主宰。李正子、石田比呂志、大田美和、佐伯裕子、道浦母都子など社会派的な傾向を持つ歌人を多く育成した。また、現代歌人協会の設立に尽力し、1977年以来約15年に亘って同協会の理事長の任にあり続けた。建築家としてはプレハブ工法とコンクリートの凝結の専門家で1961年に工学博士。1973年から1984年まで神奈川大学工学部建築学科教授を務めた。 このほか、朝日新聞をはじめ、中国新聞、信濃毎日新聞などの短歌欄の選者として、市井の人々による短歌に対し積極的な評価を行った。高校生時代の萩原慎一郎の短歌の評も行った事でも知られる。 殊に朝日新聞の「朝日歌壇」では、1955年から2005年1月まで約半世紀に亘って選者を務めた。 2000年から2001年にかけて、これまでの歌集や評論をまとめた『近藤芳美集』(全10巻、岩波書店)が刊行された。 2006年6月21日午前10時1分、心不全(毎日新聞によれば、前立腺癌)のため、東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去。93歳。遺志により、葬儀・告別式は親族のみで行われ、同年9月1日、未来短歌会主催による「近藤芳美をしのぶ会」が開催された。死後、正四位に叙され、旭日重光章を授けられた。 短歌理論「新しき短歌の規定」において、ごてごてした装飾を排した素材主義をとることを宣言。戦後短歌は、人々の生活の実感に基づいたリアリズムによるべきだと主張しつつ、ややもすると宗匠主義に陥ることのあったアララギを内部から批判し、また、当時さかんであった、人民短歌に代表される日本共産党系の歌人についてもその公式主義や安易さを批判した。結果として、アララギ内部では、歌と政治を峻別しないと批判され、左翼からは傍観者と批判されることになる。 (以下未完) 年表
著書
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