岡井 隆(おかい たかし、1928年(昭和3年)1月5日 - 2020年(令和2年)7月10日[1])は、日本の歌人・詩人・文芸評論家。未来短歌会発行人。日本藝術院会員。塚本邦雄、寺山修司とともに前衛短歌の三雄の一人。2016年文化功労者選出。従四位叙位、旭日中綬章追贈。
17歳から歌作を始め、「アララギ」に参加。慶大医学部卒業後、内科医のかたわら、歌人として活躍する。浪漫的歌風の生活詠から次第にナショナリズムに傾き、先鋭的な思想性を短歌に導入し、前衛短歌運動の先頭に立った。一時は文学活動を停止したが、歌集『鵞卵亭』(1975年)を刊行して復帰。作風は柔和に転じた。著作に『海への手紙』(1962年)、『茂吉の歌私記』(1973年)などの評論、『岡井隆の短歌塾 入門編』(2012年)など入門書も多い。
愛知県名古屋市東区主税町生まれ[2]。父も「アララギ」の歌人である傍ら、日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)の技術者で、後に専務取締役も務めた。旧制愛知一中(現愛知県立旭丘高等学校)、旧制第八高等学校、慶應義塾大学医学部卒。医学博士の学位を取得。内科医師として、国立豊橋病院内科医長などを歴任した。
17歳のときに作歌を始め、1946年「アララギ」に参加、土屋文明の選歌を受ける。1951年、近藤芳美を中心とした「未来」創刊に参加。アララギ派の影響が濃い浪漫的な生活詠から出発したが、1955年に塚本邦雄との交流が始まり、寺山修司とも知り合い、青年歌人会議、東京歌人会などの活動に参加。現代詩の暗喩技法を取り入れながら、ナショナリズムなど先鋭的な主題を表現することで現代短歌に思想性を導入し、前衛短歌運動の旗手の一人となった。1957年より吉本隆明と「定型論争」を繰り広げ、前衛短歌の理論的基礎を構築した。北里研究所付属病院の医師として勤務していたが、1970年の夏に辞職して20歳ほど年下の愛人女性と九州に隠遁、あらゆる文学活動を停止した。その5年後に歌集『鵞卵亭』を発表して歌壇に復帰。1985年以降は、W・H・オーデンらの影響からライト・ヴァースを提唱し、口語と文語を融和した柔らかい作風に転換していく。1989年より1998年まで深作光貞の誘いにより京都精華大学人文学部教授。この時同僚だった上野千鶴子と交友を持ち始める。
1983年から、中日新聞・東京新聞に『けさのことば』を長年にわたって連載していた。2014年まで日本経済新聞歌壇選者を務め、中日新聞の歌壇選者も1983年から長年にわたり務めた。
1993年から歌会始選者となり宮廷歌人となったが、そのことに対して歌壇では批判と論争が巻き起こった。2007年宮内庁御用掛。2016年、文化功労者選出[3]。
2020年7月10日12時26分、心不全のため、東京都武蔵野市内の自宅で死去[4][5]。92歳没。死没日をもって従四位叙位、旭日中綬章追贈[6]。
評論では、斎藤茂吉論が多い。詩集でも高見順賞を受賞するなど、詩人としても高い評価を得ている。
門下に小嵐九八郎、池田はるみ、山田富士郎、加藤治郎、大辻隆弘、江田浩司、田中槐、紀野恵、大滝和子、東直子、高島裕、さいかち真、嵯峨直樹、笹公人、岡崎裕美子、中沢直人、萩原慎一郎らがいる。
祖父母はロシア正教、父母はプロテスタントの家系で、自身も21歳のときに受洗しているが、その後は教会とは縁が切れていた。しかしそれでも自分はキリスト者であると認識していた[7]。