関門海峡関門海峡(かんもんかいきょう)は、日本の本州(山口県下関市)と九州(福岡県北九州市)を隔てる海峡。名称は両岸の地名である、馬関(現在の下関市)の「関」と、門司(現在の北九州市門司区)の「門」を取ったものである。穴戸海峡(あなとかいきょう)、馬関海峡(ばかんかいきょう)、下関海峡(しものせきかいきょう)とも称された[1]。 2017年、山口県下関市と福岡県北九州市にまたがる42件が「『関門“ノスタルジック”海峡』〜時の停車場、近代化の記憶〜」として日本遺産に認定された。 地理関門海峡付近は古くは陸地で最終氷期(約7万年前〜1万年前)の寒冷期に河川が発達し、後にこれらの河川が花崗閃緑岩の岩石を洗い流して窪地になった[2]。さらに気候が温暖になり海水面が上昇したことで窪地に海水が入り込み海峡が出来上がった[2]。 最深部は水深47m。潮流は大潮で最大10ノットを超えることがある。 本州と九州を隔てる水路を大瀬戸(おおせと)といい、大瀬戸の幅が約600mまで狭まる壇ノ浦と和布刈の間は早鞆瀬戸(はやとものせと)という。彦島と本州を隔てる水路を小瀬戸(こせと)または小門海峡(おどかいきょう)という。 一般には大瀬戸の下関と北九州市門司区の間を関門海峡と呼ぶ。なお、海運業界では下関市彦島の周囲を迂回する形で門司区 - 小倉北区 - 戸畑区 - 若松区に抜けるルートが関門航路=関門海峡との認識である。 歴史約6000年前に本州と九州が分断され、関門海峡が形成されたといわれる。 関門海峡は諸外国との関係では交流交易や防衛の拠点、国内交通では本州と九州の結節点、さらに日本海と瀬戸内海をつなぐ海上交通の要衝であり、しばしば歴史の舞台となってきた[3]。 記紀仲哀天皇元年 - 仲哀天皇が妻の神功皇后と九州の熊襲(くまそ)の平定のために関門海峡へ進軍。翌年、穴戸の国(長門国)に豊浦宮(御所)を置いた(今の忌宮神社の場所)。 仲哀天皇8年9月 - 仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲征伐のため博多の香椎宮を訪れる。そこで、神懸かりした神功皇后から「新羅を攻めよと天照大神と住吉三神のお告げ(ご信託/託宣)を受けたものの、仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行う。しかし、ご信託の通り天皇軍は敗北し撤退。さらに翌、仲哀天皇9年2月、仲哀天皇自身が筑紫で熊襲の矢に打たれ崩じた。遺体は武内宿禰により海路穴門(※当時は関門海峡の一部は繋がっており、そこに巨大な穴が空いていて潮が行き来していたという説がある)を通って豊浦宮で殯された。 下関戦争と関門海峡1863年、攘夷を主張する長州藩は海峡に砲台や軍艦を配備し、5月にはアメリカ商船、フランス艦、オランダ艦などを砲撃した[4]。長州藩はアメリカ艦やフランス艦から報復攻撃を受けたが海峡を封鎖し続けた[4]。海峡が通行不能となり、さらに攘夷論の台頭を恐れたイギリスは、フランス、オランダ、アメリカとともに艦隊を組織し、1864年8月に集中攻撃を行い陸戦隊を上陸させて占領を行った[4]。 →「下関戦争」を参照
第二次世界大戦と関門海峡関門海峡周辺は1895年より下関要塞司令部が設置され下関要塞として関門海峡を、第二次世界大戦中には壱岐要塞、対馬要塞とともに朝鮮海峡全体を防衛していた。 太平洋戦争が進むにつれ、下関市吉見に下関海軍防備隊が置かれ、呉鎮守府の指揮を受け関門防備に当たることとされた。1940年に着工、1942年に完成[5]。 太平洋戦争の末期にはアメリカ軍による飢餓作戦の一環として、B29による機雷敷設が行われた。日本近海に投下された機雷は推定1万1,000個とされ、そのうち半数近い約4,990個が関門海峡に集中的に投下されている。効果は抜群で、1945年3月には1日7万トンの船が通過していた海峡の通航量は、同年6月には1/40に減少した[6]。それでも終戦までに113隻が触雷している。 海軍は終戦後も下関防備隊を下関掃海部として掃海隊を所属させ、航路啓開に努め、1945年11月に海軍が解隊した以後も復員省に属して存続し、作業は継続された。1948年1月に全国各地の掃海部が解隊した後も、下関掃海部だけは作業終了の見通しは立たなかったため存続させられた。 米軍は「機雷の電池寿命は1948年頃尽きると推定、以後その効力を失う」と日本政府に通告していたが、現実にはそれ以後も触雷事故が絶えず、米軍はその都度機雷の寿命見積を延長したため下関掃海部は解散することが出来ず、海上保安庁、海上自衛隊と所属は変わったが、海上自衛隊下関基地隊を基地として関門の掃海は継続された[5]。 戦後の掃海作業は1960年代まで集中的に実施されたほか、2010年代においても浚渫工事などで散発的に見つかる機雷を自衛隊下関基地隊が処理している[7]。現在も約1700個が未処理であると推定されている[8]。 戦前・戦中の関門海峡については「下関要塞」も参照。 年表
海上交通関門海峡は古来、本州と九州、日本とアジア大陸を結ぶ重要航路であり続けてきた。近現代においても、工業地帯のある瀬戸内海沿岸と中国・韓国などとの往来に不可欠な航路である。1日に行き交う船は約1千隻[11]、早鞆瀬戸を通過する船舶は1日約440隻[12]。国土交通省九州地方整備局の推計によると、日本の港湾から輸出される年間貨物総量の13%(約3600万トン)が関門海峡を通る[7]。陸上交通(トンネルおよび橋)の供用以降、交通の主流ではなくなったものの海峡を横断する連絡船は地域住民の足として存続し、観光需要に対応する運航もある。また、漁業も行われている[7]。 関門海峡はS字状に曲がり、六連島(むつれしま)から部埼(へさき)まで約28km(15海里)[13]。航路幅は500~2,200メートル、最も狭い早鞆瀬戸の流速は約10ノットに達する[14]。潮流は干満により1日4回向きを変える[11]。 関門海峡を含む全長約50kmの関門航路は、全国に15箇所ある開発保全航路の一つに指定され、国土交通省九州地方整備局が整備を行なっている。2016年時点の航路の水深は12mで、船舶の大型化に対応するため2034年完了予定の水深14m化事業が行われている[15]。浚渫(航行に支障になる堆積物の除去)と(事故等による)油回収に機動的に対応するために、専用の船舶である「海翔丸」が九州地方整備局関門航路事務所に配備されている。 海上保安庁により関門海峡海上交通センター(関門マーチス)が設置され(海上交通センターは日本国内に7箇所)、船舶交通の情報収集・監視、船舶への情報提供・勧告・指示等により関門海峡の航行を支援している[16]。 潮流の状況(流向、流速、今後の傾向)はインターネット及び潮流信号所(部埼、火ノ山下、台場鼻)の電光表示板により情報提供される。潮流放送およびテレホンサービスは2022年12月16日に廃止された[17]。また、早鞆信号所の電光表示板では狭い早鞆瀬戸での行合いの注意喚起として、10,000総トン(油送船については3,000総トン)以上の船の運航情報を提供している。 一部区域を除き、通峡船は10,000総トン以上、出入港船は3,000総トン以上または危険物を積載する300総トン以上において水先人の乗船が義務付けられる[18][19]。内航定期旅客船や防衛省艦船等の水先人乗船は義務付けられていない。 海難事故屈曲や潮流の速さから、事故が多い航路である[20][21]。 2008年10月から2009年12月のあいだに運輸安全委員会の調査対象となった関門海峡での事故40件のうち最も多かったのは乗揚17件(42.5%)、次いで衝突10件(25%)だった[20]。 秀吉御座船の座礁(1592年)乗揚事故の例として古くは、1592年の文禄の役の折、豊臣秀吉が名護屋城から大坂に向かう中、関門海峡で船が座礁し、船頭の明石与次兵衛が切腹した(または斬首となった)事故がある[22]。与次兵衛瀬(または与次兵衛ヶ瀬、与次兵衛岩)と呼ばれるようになったこの岩礁は、長年の工事により昭和初期に除去された[23]。シーボルト著「日本」に与次兵衛瀬の挿絵がある。巌流島と与次兵衛瀬の間を舟で通った際、川原慶賀にスケッチさせ、これをもとに欧州の画家に下絵を描かせたものである[24]。 貨物船の乗揚(2018年)明治以降浚渫が進められたが航路外の水深は浅い。2018年1月22日22:07頃、巌流島の北にあるコシキ瀬と呼ばれる領域で、下関本港を出港後、航路に入るため旋回中の貨物船聖嶺(しょうれい、749総トン)が水深1.9mの浅瀬に乗り揚げる事故が発生している[25][13]。 コンテナ船と護衛艦の衝突・炎上(2009年)衝突の例としては、2009年10月27日、早鞆瀬戸で護衛艦くらま(5,200トン)とコンテナ船カリナ・スター(CARINA STAR、7,401総トン)が衝突、火災が発生し、関門港内全域で航行禁止となった事故[26]がある。この事故では、海上交通センターの運用管制官が、先行する速度の遅い貨物船クイーン・オーキッド(QUEEN ORCHD、9,046総トン)にカリナ・スターが追いつく位置の予想を誤り、左側を追い越せとアドバイスした。これをカリナ・スターがアドバイスではなくオーダーと捉え、狭い早鞆瀬戸で左舵をとったところ逆潮により大きく左転、航路の中央線を越えた。また、護衛艦くらまはAISの発信をしていなかった。この事故後、海上保安庁は早鞆瀬戸での追い越しに関する運用マニュアルを改定し、防衛省はAIS運用方針の改定を行った。 貨物船の衝突・沈没(1997年)海峡の幅が広い区域においても衝突事故は発生している。西に向かう船は早鞆瀬戸を抜けたのち、岬之町沖で左に屈曲して巌流島の東を通過する。このとき屈曲する航路の内側をショートカットし、右側通行の航路中央線の左側に逸脱、つまり東へ向かう船の航路に入ることがある[27]。1997年11月11日23時39分、西航中の貨物船チューハイ(CHU HAI、2,387総トン)が東航中の貨物船エイジアンハイビスカス(ASIAN HIBISCUS、7,170総トン)と衝突した事故[28]はこのケースである。沈没したチューハイが船主責任保険未加入であったため引き揚げ作業は翌年1998年5月開始、完了は1998年7月まで掛かり[29][30][31]、1997年12月に東航船が沈没船に衝突する事故も発生した。事故後の対策として、東に向かう航路については浚渫により航路を広げ灯浮標を追加、西に向かう航路については彦島導灯の設置が行われた[32]。 灯浮標への衝突船と灯浮標(ブイ)の衝突もある[33]。2008年から2013年までの灯浮標と船舶の衝突事故は13件、件数は増加傾向にある[34]。二次災害を招く要因にもなることから、2012年以降第七管区海上保安本部は複数回の注意喚起発出[35]や、接触事故の多い灯浮標[34]の位置変更[36]を行っている。
陸上交通1942年に鉄道トンネル、1958年に国道2号のトンネルが開通した。狭い海峡であるため比較的古くから海底トンネルや橋が整備され、現在、海底トンネル3本、橋1本の合わせて4本のトンネルと橋梁が本州と九州をつないでいる。鉄道や自動車による頻繁な往来により海峡両岸は強く結びつけられ、下関市と北九州市ならびに両市の周辺地域は、海峡を跨いだ「関門都市圏」と呼ばれる一つの都市圏を形成している。 一方、本州と九州を結ぶ鉄道・道路は関門海峡以外にないため、災害や事故により鉄道・道路が使用できなくなると影響は大きい[注釈 1]。下関北九州道路の建設計画もある。 事故国道2号関門トンネルでは、交通事故が発生すると通行止めとなることがあり、この場合は関門橋が迂回路となる。また、関門橋は、強風などの気象条件により通行止めや速度規制が行われることがある。また、関門鉄道トンネル内で車両故障が発生したことにより同トンネルが不通となる事例や、当該列車内の乗客が長時間にわたり閉じ込められる事例が発生している。また、関門トンネルの大規模工事による長期通行止めの際に、台風等により関門橋が通行止めになったり、鉄道が運転見合わせになることによって、九州地方が事実上"孤立"状態になることもある。
唱歌1900年(明治33年)に発表された大和田建樹作詞の『鉄道唱歌』第2集山陽九州編では、門司・下関と関門海峡を26番から30番までの5番で歌いこんでいる。なおこの当時山陽本線は私設鉄道の山陽鉄道の路線であり、さらには路線も下関まで開業しておらず三田尻駅(今の防府駅)が終点で、九州へ本州から渡る客はその手前の徳山駅から航路で門司に出ていた。
脚注注釈出典
関連項目
外部リンク
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