阿部桂一
阿部 桂一(あべ けいいち、1923年11月11日 - 1991年8月15日)は、日本の脚本家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14]。筆名は別に新井 啓(あらい けい)がある[9][15][16]。日本シナリオ作家協会会員[2]・功労賞受賞者[17]、日本放送作家協会会員[2]、日本脚本家連盟信託者[18]。フジテレビジョン映画部の五社英雄が手がけたテレビ映画『トップ屋』、『刑事』で頭角を現し『三匹の侍』の成功で知られる[3][15]。テレビの代表作はほかに『SFドラマ 猿の軍団』、『佐武と市捕物控』等、劇場用映画の代表作には『花と怒濤』等がある[3][5][6][7][8][9][12][13]。 人物・来歴五社英雄とともに1923年(大正12年)11月11日[1][2]、宮城県に生まれる[2]。『放送作家年鑑 1966』の阿部の項には東京府(現在の東京都)に生まれた旨の記述がある[1]。 福岡県に移った経緯は不明であるが、1940年(昭和15年)3月、旧制・福岡県中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)を卒業する[1][2]。その後、日本大学工学部に進学するも、中途退学したという説がある。1945年(昭和20年)8月15日、満21歳で第二次世界大戦の終戦を迎えるが、兵役等の経験については伝えられていない[1][2]。満34歳のとき、日本シナリオ作家協会が主催する「第8回シナリオ・コンクール」にシナリオ『戦争』を応募、1958年(昭和33年)4月に発表された同コンクールで最優秀賞を受賞、同月発行の『シナリオ』誌に全文掲載され、阿部は「入選の感想」として『感慨無量』という小文を寄せている[14][19]。このときに阿部のほか、岡田光治、川井甫、山本哲郎も入選した[14][19]。記録に残るもっとも古い時期に映像化された阿部の脚本作品は、同年5月に日本テレビ放送網が放映し同年6月1日に新東宝が配給して劇場公開した中篇映画『犯罪地帯を探せ』(監督森園忠)である[6][7][8][9][12]。同年7月13日に公開された『夜は俺のものだ』(監督森園忠)以降、当時日活の企画者だった大塚和(1915年 - 1990年)のプロデュース作に多く脚本を提供する[6][7][8][9]。 1959年(昭和34年)6月26日に放映を開始した『刑事』は、当時、フジテレビジョン映画部でテレビ映画を手がけていた五社英雄(1929年 - 1992年)が高松英郎を主演に起用した連続テレビ映画であるが、阿部は、同作で脚本を手がけて以降、フジテレビジョン製作、とくに五社のテレビ映画に多く脚本参加していく[12][13]。翌1960年(昭和35年)1月31日に放映を開始した『トップ屋』では、当時、新東宝の大部屋俳優でしかなかった丹波哲郎を主人公に起用、丹波をスターダムにのし上げることに成功した[12][13][20]。同年9月24日に「東芝土曜劇場」の枠(第80回)で放映された『むしけら』(監督五社英雄)は、同年の第15回文部省芸術祭参加作品として製作され、奨励賞を獲得した[12][13]。1963年(昭和38年)10月10日に放映を開始した『三匹の侍』では、全26回のうち5話を手がけており、同作は阿部の代表作とされる[3][12][13]。1964年(昭和39年)、松竹京都撮影所が製作して同作が劇場用に映画化された際には、柴英三郎(1927年 - )、五社英雄と共同で脚本に参加、同年5月13日に公開された[5][6][7][8][9]。同年2月8日に公開された日活映画『花と怒濤』(監督鈴木清順、主演小林旭)にも、同作の美術デザイナーである木村威夫が執筆した脚本をサポートする形で脚本に参加しており、同作は、阿部の劇場用映画の代表作である[3][5][6][7][8][9]。 刑事ドラマと特撮、テレビアニメ、成人映画1961年(昭和36年)からはNHK、1965年(昭和40年)5月29日に放映を開始した『乗っていたのは二十七人』からは東映テレビプロダクションが製作する単発・連続もののテレビ映画に起用され始め[12]、日活や大映の映画にも起用され、1960年代には殺人的なスケジュールをこなす売れっ子脚本家になる[3][12][13][15]。1968年(昭和43年)2月1日に放映を開始した『わんぱく探偵団』に参加して以降、虫プロダクション製作による連続アニメーションテレビ映画にも進出する[12]。 渡辺護(1931年 - 2013年)の回想によれば、1965年に監督デビューした渡辺にとっては初期にあたるこの時期、阿部は新井 啓の変名で渡辺の監督する独立系成人映画、いわゆる「ピンク映画」に脚本を提供していたという[15][16]。渡辺が挙げた阿部の脚本作は、『観音開き 悪道女』(製作東京興映、1971年12月公開)、『濡れ弁天御開帳』(製作大東映画、1972年1月公開)、『好色女体地獄』(製作わたなべぷろだくしょん、1972年4月公開)である[9][15][16]。渡辺も指摘している通り、阿部は当時「テレビでものすごく売れっ子のライターだった」[15]。1974年(昭和49年)10月6日に放映を開始した『SFドラマ 猿の軍団』では、円谷プロダクションとの最初の仕事であったが、「第1話の作家」として招聘され、同作のレールを敷き、最終回までの全26話中12話を書いている[12]。円谷プロダクションが次に手がけた『恐竜探険隊ボーンフリー』では、第1話に始まりノンストップで第7話まで書き、最終回までの多くの回の脚本を書いており、以降、1980年(昭和55年)の『ぼくら野球探偵団』まで、同社のメインライターの位置で同社の作品を支えた[12]。 しかしながら、渡辺護の回想によれば、向井寛が製作し渡辺が監督する予定であった『猟奇薔薇奴隷』の脚本を手がける直前、早稲田大学ラグビー部に所属していた最愛の長男が深刻な負傷を負い、いわゆる植物状態になってしまったという[15]。渡辺によれば、阿部は「テレビのホンよりピンクのホンの方がずっと面白い」といい「一本の映画にできるホンを書いてくる」「腕はたしか」な脚本家であったが、向井が阿部に発注した『猟奇薔薇奴隷』は「もうメチャクチャ」「脚本になってない」ものであり、長男の事態に対するショックの大きさを物語っていたという[15]。『猟奇薔薇奴隷』は東映が配給して、1977年(昭和52年)1月22日に公開されたが[6][7][8][9]、確かに、『プロレスの星 アステカイザー』第25話『サタン・デモンの逆襲』(監督深沢清澄)が同年3月24日に放映されて以降、『恐竜大戦争アイゼンボーグ』第1話『恐竜現わる! D戦隊発進せよ!』(監督大塚莞爾)が同年10月7日に放映されるまでの間、阿部には珍しく、半年以上のブランクが空いている[4][5][6][7][8][9][10][11][12]。 1980年代に入ると、記録に残る脚本の本数が激減するが[4][5][6][7][8][9][10][11][12]、渡辺護によれば、このころは「阿部さんは向井寛の専属みたいになっていた」という[15]。向井の脚本のクレジットの多くは「宗豊」であり、どれが阿部の脚本なのかはわからない[21]。阿部は、1981年(昭和56年)6月12日に公開された「にっかつロマンポルノ」の1作『好色花でんしゃ』(監督渡辺護、主演鹿沼えり)では、原作者の藤本義一、当時の渡辺護の脚本を多く書いた小水一男と共同で脚本を書いており、1983年(昭和58年)3月12日に公開された東映セントラルフイルム製作の『四畳半色の濡衣』(監督向井寛、原作野坂昭如、主演美保純)では、片岡修二と共同で脚本を書いた[4][6][7][8][9][10][11]。 最晩年にあたる1990年(平成2年)、満66歳のころにも、篠原とおるの漫画を原作に向井寛が監督したビデオ映画『女仕置人ゼブラ 1 セクシー篇』(同年10月25日発売)、『女仕置人ゼブラ 2 アクション篇』(同年11月22日発売)を手がけた[8][9]。それから1年に満たない1991年(平成3年)8月15日、肝不全のため死去した[3][22]。満67歳没[3]。同年10月に発行された『シナリオ』誌には鬼頭麟兵(1927年 - )が阿部の追悼文を寄せている[14][22]。翌1992年(平成4年)、第16回日本シナリオ作家協会功労賞を池上金男(池宮彰一郎、1923年 - 2007年)、井上梅次(1923年 - 2010年)、須崎勝彌(1922年 - 2015年)、富田義朗(1922年 - 2000年)、直居欽哉(1922年 - 1995年)、山田隆之(1923年 - 1994年)、若杉光夫(1922年 - 2008年)といった当時存命の人々、すでに故人であった高橋稔(1931年 - 1991年)、原研吉(1907年 - 1962年)とともに受賞した[17]。 再評価2005年(平成17年)10月9日 - 同年11月5日、ラピュタ阿佐ヶ谷で行われた「日々是好日 監督・春原政久」の特集上映で、脚本作『闇に光る眼』(監督春原政久)が35mmフィルム上映用プリントで上映された[23]。2008年(平成20年)9月28日 - 同年11月22日、同館で行われた「昭和の銀幕に輝くヒロイン 第43弾 香山美子」の特集上映で、脚本作『三匹の侍』が35mmフィルム上映用プリントで上映された[24]。2011年(平成23年)5月22日 - 同年7月16日、同館で行われた「昭和の銀幕に輝くヒロイン 第59弾 松原智恵子」の特集上映で、脚本作『花と怒濤』が35mmフィルム上映用プリントで上映された[25]。2013年(平成25年)5月11日 - 同年6月28日、同館で行われた「戦争と六人の女」の特集上映で、脚本作『四畳半色の濡衣』が35mmフィルム上映用プリントで上映された[26]。同年9月22日 - 同年11月23日、同館で行われた「蔵出し!日活レアもの祭」の特集上映で、脚本作『破れかぶれ』(監督蔵原惟繕)が35mmフィルム上映用プリントで上映された[27]。2014年(平成26年)9月21日 - 同年11月22日、同館で行われた「ミステリ劇場へ、ようこそ。2014」の特集上映で、脚本作『犯罪6号地』(監督村山三男)、同じく『犯行現場』(監督阿部毅)の2作が35mmフィルム上映用プリントで上映された[28]。 フィルモグラフィ特筆以外すべて「脚本」である[4][5][6][7][8][9][10][11][12][13]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、デジタル・ミーム等での所蔵状況も記した[5][29]。 1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
ビブリオグラフィ雑誌掲載1950年代
1960年代
1970年代 - 1990年代
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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