1971年の野球(1971ねんのやきゅう)では、1971年の野球界における動向をまとめる。
競技結果
日本プロ野球
ペナントレース
日本シリーズ
1971年 日本シリーズ
日付 |
試合 |
ビジター球団(先攻) |
スコア |
ホーム球団(後攻) |
開催球場
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10月12日(火) |
第1戦 |
読売ジャイアンツ |
2 - 1 |
阪急ブレーブス |
阪急西宮球場
|
10月13日(水) |
第2戦 |
読売ジャイアンツ |
6 - 8 |
阪急ブレーブス
|
10月14日(木) |
移動日
|
10月15日(金) |
第3戦 |
阪急ブレーブス |
1 - 3 |
読売ジャイアンツ |
後楽園球場
|
10月16日(土) |
第4戦 |
阪急ブレーブス |
4 - 7 |
読売ジャイアンツ
|
10月17日(日) |
第5戦 |
阪急ブレーブス |
1 - 6 |
読売ジャイアンツ
|
優勝:読売ジャイアンツ(7年連続15回目)
|
個人タイトル
ベストナイン
オールスターゲーム
高校野球
大学野球
社会人野球
メジャーリーグ
できごと
1月
- 1月11日
- セ・リーグ理事会が12時から東京・銀座の連盟事務所にて行われ、大洋が荒川尭をヤクルトへトレードした件について討議。その結果、トレードは野球協約には抵触しない事、大洋・ヤクルト間で密約はなく野球協約による処分の対象とはしない、と確認した。しかし、社会的影響、道義的な面からの措置をセ・リーグ会長の鈴木龍二に一任することになった[1]。
- プロ野球コミッショナー委員会が10時から東京・銀座の事務所にて開かれ、南海の三浦清弘に対し、1968年8月に当時南海の佐藤公博から八百長を勧誘され、その場で断ったものの球団に報告する義務を怠ったとして、パ・リーグ会長の岡野祐から昨年12月15日付で処分の申請が出ていた件に関して、戒告処分とすると決定[2]。
- 1月13日 - セ・リーグ会長の鈴木龍二は荒川問題に関して、野球協約には違反しないがドラフト会議の精神に反するとして、会長権限内でヤクルトに対し5月20日まで公式戦の出場を見合わせるよう勧告すると明らかにした。コミッショナー委員会は、ヤクルトが会長勧告を無視した場合、委員会独自の強制措置を執るとした[3]。
- 1月16日 - ヤクルトは、内臓疾患で6か月の療養が必要となった石戸四六を保留選手とすることを決定[4]。
- 1月25日 - ロッテ製菓は14時より東京・新宿のロッテ本社にて役員会議を開き、ロッテオリオンズの経営を引き受けることを決定[5]。17時より東京球場食堂にてロッテの選手、職員らが集まり、オーナーの永田雅一が別れの挨拶[6]。この後、新たにオーナーに就任した中村長芳が記者会見し、「2月25日の株主総会で毎日大映球団の名称をロッテ・オリオンズ球団とする」と発表。
- 1月26日 - ヤクルトのオーナーの松園尚巳が14時半から神宮球場のクラブハウスにて記者会見し、荒川問題に関してセ・リーグ会長からの勧告を受け入れ「球団独自の裁断で、荒川選手の公式戦開幕から一か月、遠慮させる」と発表。荒川は5月10日の巨人戦から公式戦に出場できる。これにより荒川問題は決着を見た[7]。
3月
4月
5月
- 5月1日 - 南海の野村克也が大阪球場での対近鉄3回戦に出場し、プロ通算2000試合出場を達成[17]。
- 5月3日
- 東京球場での東映対ロッテ5回戦でロッテは10回表二死満塁の場面で代打の作道烝が1号満塁本塁打。続く大下剛史2号、大橋穣5号、張本勲6号、大杉勝男6号とプロ野球新記録の5者連続本塁打、1イニング5本塁打[18]。ロッテは10回裏に江藤慎一が4号2点本塁打を打ち、1イニング両チーム合わせて6本塁打の日本プロ野球新記録を達成[19]。
- 大洋の竹村一義が川崎球場での対中日3回戦の1回表無死二、三塁の場面から救援登板し11回一死まで無安打に抑えるも、谷沢健一にこの試合登板後初安打を浴び、さらに12回表に1点を失い敗戦投手に[20]。
- 巨人の柴田勲が後楽園球場での対ヤクルト3回戦の五回裏に1号2点本塁打を放ち、プロ通算100本塁打を達成[21]。
- 5月4日 - 元早稲田大学総長の大浜信泉がコミッショナーに就任することが決定し、12時から東京・大手町のパレス・ホテルにて記者会見[22]。
- 5月5日 - 南海の広瀬叔功が平和台球場での対西鉄4回戦の二回表に二塁盗塁し、日本プロ野球史上初の通算500盗塁を達成[23]。
- 5月12日
- 大洋の長田幸雄が中日球場での対中日5回戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成[24]。
- 東映の張本勲が大阪球場での対南海5回戦の六回表に10号本塁打を打ち、プロ通算3000塁打を達成[25]。
- 5月20日
- 5月23日
- ロッテは小倉球場での対西鉄8回戦の一回表に先頭の有藤通世から醍醐猛夫まで8者連続安打のパ・リーグ新記録[29]。
- 巨人の柴田勲が川崎球場での対大洋6回戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成[30]。
- 5月25日 - 巨人の長島茂雄が神宮球場での対ヤクルト9回戦の八回表に安打を打ち、プロ通算2000安打を達成[31]。
- 5月26日
- 広島は甲子園球場での対阪神8回戦に3-2で勝ち、球団史上初の10連勝[32]。
- 西鉄は平和台球場での対阪急7回戦に1-4で敗れ、球団史上初の10連敗[33]。
- 5月28日
- 南海の野村克也が大阪球場での対阪急8回戦の四回裏に敬遠四球で、プロ通算1000四死球を達成[34]。
- プロ野球実行委員会が11時から東京・有楽町の日生会館にて開かれ、オールスター戦に選出された選手が辞退した場合、病気や怪我などでコミッショナーから認められた場合を除き、10試合の出場停止処分とすることを決定[35]。
- 5月29日 - 南海の上田卓三が大阪スタヂアムでの対阪急9回戦の一回表に、日本プロ野球新記録の1イニング4被本塁打[36]。
6月
7月
- 7月2日 - 南海ホークスの野村克也が大阪スタヂアムでの対西鉄ライオンズ10回戦で、日本プロ野球史上初の通算500本塁打を達成[45]。
- 7月3日
- ロッテの小山正明が後楽園球場での対東映ダブルヘッダー第1試合の9回戦に先発して10勝目を挙げ、プロ通算300勝を達成[46]。
- 南海の樋口正蔵が大阪スタヂアムでの対西鉄11回戦の6回裏に代打として出場し、プロ通算1000試合出場を達成[47]。
- 7月4日 - ロッテの醍醐猛夫が後楽園球場での対東映11回戦の第一打席で本塁打を放ち、前日の試合の3打席連続本塁打と合わせ、4打席連続本塁打の日本プロ野球タイ記録を達成[48]。
- 7月6日 - 阪急の長池徳二が西京極球場での対西鉄13回戦の2回裏に22号本塁打を放ち、32試合連続安打の日本プロ野球新記録を達成[49]。
- 7月8日 - ロッテの榎本喜八が東京球場での対近鉄16回戦の五回裏に二塁打を打ち、プロ通算3500塁打を達成[50]。
- 7月13日 - ロッテは西宮球場での対阪急10回戦の7回表に、ロッテの打者の江藤慎一へのツーストライク・ワンボールからの第4球目の判定をストライクと判定されたことに対して猛抗議し、試合放棄。江藤への判定の直後に三塁ベースコーチの矢頭高雄が主審の砂川恵玄を突き飛ばして暴力行為で退場処分を受け、ロッテ・ベンチは約33分猛抗議をした後ロッテの選手全員がダグアウトへ引き上げる。約33分後審判と阪急ナインがポジションに戻り主審の砂川が試合再開をコールするが、ロッテの打者ジョージ・アルトマンがコールした後1分間打席に立たなかったため球審は没収試合を宣告し、ロッテ放棄試合となった[51]。
- 7月17日 - オールスターゲーム第1戦が西宮球場で行われ全セ先発の阪神タイガース・江夏豊が9連続奪三振を達成。全セはその後継投でオールスターゲーム初のノーヒットノーランを達成[52]。
- 7月21日
- プロ野球機構は12時から東京・銀座のコミッショナー事務局にて13日の試合で試合放棄をしたロッテへの処分を検討する放棄試合裁定委員会を開き、200万円の制裁金、監督の濃人渉に対し15万円の制裁金を課すことを決定し、コミッショナーの大浜信泉が発表[53]。
- ロッテはオーナーの中村長芳と監督の濃人渉が東京球場にて記者会見し、中村は「裁定には謹んで従います」と語る[54]。
- 7月23日 - ロッテは東京球場での対阪急14回戦の試合終了後に記者会見を行い、監督の濃人渉監督が二軍監督へ降格、二軍監督の大沢啓二が一軍の監督に就任したと発表[55]。
- 7月29日 - 近鉄の土井正博が東京球場での対ロッテ19回戦の8回表に23号本塁打を放ち、プロ通算200本塁打を達成[56]。
8月
- 8月1日
- ロッテ対阪急の18回戦が西宮球場で行われ、ロッテが阪急を7対6で下す[57]。7月23日の時点で首位の阪急と2位のロッテは8ゲーム差があったがこの日ロッテが阪急を下したことでゲーム差が0となり、9日間で8ゲーム差がゼロとなる[58]。
- ロッテの小山正明が西宮球場での対阪急18回戦の7回から登板し、プロ通算800試合登板を達成[59]。
- 8月3日 - ロッテが新宿区西大久保の球団事務所にて監督の大沢啓二と5年契約を結び、東京球場にて発表[60]。
- 8月5日 - ロッテの江藤慎一が東京球場での対東映17回戦の2回裏に21号本塁打を放ち、プロ通算300本塁打を達成[61]。
- 8月8日 - 阪急の米田哲也が西宮球場での対東映20回戦に登板し、8回表に東映の末永幸吉から三振を奪い、プロ通算3000奪三振を達成[62]。
- 8月11日 - ロッテの江藤慎一が東京球場での対南海18回戦の2回裏に23号満塁本塁打を放ち、これで1シーズン3本目の満塁本塁打となり、パ・リーグの1シーズン最多満塁本塁打のタイ記録を達成。また、通算11本目の満塁本塁打となり、野村克也と並ぶ日本プロ野球タイ記録を達成[63]。
- 8月12日 - 巨人の王貞治が後楽園球場での対ヤクルト20回戦の6回裏に35号満塁本塁打を放ち、これで通算10本目の満塁本塁打となり、セ・リーグ新記録となる[64]。
- 8月14日 - 南海の野村克也が西京極球場での対阪急ダブルヘッダー戦第二試合の19回戦で1962年以来一塁手として先発出場、三回から右翼に回る[65]。
- 8月16日 - 第53回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦が甲子園球場にて行われ、神奈川県の桐蔭学園高校が福島県の磐城に1対0で勝利し、大会初出場で初優勝達成[66]。
- 8月17日
- 8月19日 - 広島の藤本和宏が広島球場での対中日ダブルヘッダー第2試合となる21回戦に先発し、ノーヒットノーランを達成[69]。
- 8月21日 - 東映の高橋善正が後楽園球場での対西鉄戦19回戦において完全試合を達成[70]。
- 8月25日 - 東映は東映株式会社臨時総会でさる17日に亡くなったオーナーの大川博の後任を大川毅に決定したと発表[71]。
- 8月26日 - 南海の野村克也が神宮球場での対東映22回戦の4回表に安打を打ち、プロ通算4000塁打を達成[72]。日本プロ野球史上山内一弘に次いで2人目。
9月
- 9月1日 - ロッテは翌年春に渡米し大リーグと12試合のオープン戦を行うと発表[73]。
- 9月2日 - 中日球場で行われた中日対巨人23回戦の三回裏、中日の高木守道が巨人先発の堀内恒夫の投球を頭部に受け死球となり、これに怒った高木が堀内にヘルメットを投げつけて堀内の右肩にぶつかり、高木、堀内がともに負傷で試合を退く[74]。
- 9月6日 - 巨人の菅原勝矢が神宮球場での対ヤクルト25回戦に先発し、ヤクルトを6回までノーヒットに抑えるも、試合は7回表に降雨コールドゲームとなり4-0で巨人の勝利、菅原の投球は参考記録に[75]。
- 9月9日 - 近鉄の鈴木啓示が日生球場での対西鉄26回戦においてノーヒットノーランを達成[76]。
- 9月10日 - 南海の野村克也が大阪スタヂアムでの対近鉄16回戦の六回裏に二塁打を放ち、山内一弘の持つ通算4015塁打の記録を更新する通算4017塁打となる。さらに八回裏にも安打を放ち、この試合で4018塁打と記録を伸ばす[77]。
- 9月19日
- 巨人の王貞治が広島球場での対広島24回戦の1回表に第39号満塁本塁打を放ち、野村克也と並ぶ日本プロ野球タイ記録の通算11本目の満塁本塁打[78]。
- ロッテの成田文男が西宮球場での対阪急ダブルヘッダー第2試合の23回戦に先発して阪急を完封して11勝目を挙げ、プロ通算100勝を達成[79]。
- 9月22日 - 大洋の近藤昭仁が川崎球場での対巨人25回戦に出場し、プロ通算1500試合出場を達成[80]。
- 9月23日 - 巨人が後楽園球場での対阪神25回戦に7-1と勝利し、7年連続セ・リーグ優勝を達成[81][82]。
- 9月24日 - 阪急の米田哲也が西宮球場での対近鉄26回戦に7回から登板し、プロ通算800試合登板を達成。史上4人目[83]。
- 9月28日 - 東京球場でのロッテ対阪急25回戦で阪急がロッテに10-4と勝利し、2年ぶり4度目のパ・リーグ優勝達成[84][85]。ロッテは四回裏に有藤通世が26号本塁打を放ち、南海が1963年に記録したチーム最多本塁打184を更新するチーム本塁打数185本。六回裏に有藤が27号本塁打、九回裏に山崎裕之が20号本塁打を放ち、チーム本塁打を187とした[86]。
10月
11月
12月
誕生
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
死去
出典
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野球の歴史 |
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1910年代 | |
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