1972年の西鉄ライオンズでは、1972年の西鉄ライオンズの動向をまとめる。
この年の西鉄ライオンズは、稲尾和久監督の3年目のシーズンだったが、シーズン終了後、太平洋クラブが運営会社の福岡野球のスポンサーになる形での身売りが決定する。
概要
1969年のシーズン終盤に発覚した黒い霧事件以後、チーム成績の低迷を続けた西鉄は3年連続で最下位に終わった。「黒い霧事件」の影響で2年連続最下位とすっかり落ち込んだライオンズ、それでも前年オフ、ドラフト会議に漏れた加藤初を競合の末獲得し、少しは期待が持てたものの、シーズン初頭に木本元敬オーナーが「今後、球団をやっていけそうにもない」と発言、ライオンズの身売りが表面化した。混乱の中で始まったシーズンは、ルーキー加藤の活躍があったものの相も変わらぬ低迷状態が続き、終わってみれば3年連続最下位。個人成績も加藤の「新人王」が目立つ程度で、309.2イニングを投げたエースの東尾修は25敗で2年連続最多敗戦投手。打撃陣も基満男が初の3割打者となった以外は、ロッテオリオンズから移籍の榎本喜八も振るわず、貧打に喘いだ。
シーズン終盤から西鉄は、ロッテオリオンズオーナー・中村長芳に球団譲渡先の仲介を依頼するなど、球団売却へ動き出し、10月16日にはペプシコーラに依頼するも同月18日に破談、ライオンズ絶体絶命となる。しかし、10月28日に中村がロッテを辞職して設立した「福岡野球」へ買収される形で球団売却が成立、平和相互銀行の事実上子会社でレジャー会社太平洋クラブがスポンサーとなり、「太平洋クラブライオンズ」が誕生、球団はなんとか存続するも、1951年以来続いた「西鉄ライオンズ」は終焉となった(ただし、ライオンズのニックネームは現在も残っている)。この年、加藤博一が念願の一軍昇格を果たしたが、太平洋時代は不遇で、才能が開花したのは移籍先の阪神タイガースだった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1972年パシフィック・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
|
9月終了時
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最終成績
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1位
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南海 |
--
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阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
2位
|
阪急 |
0.5
|
南海 |
3.0
|
南海 |
7.0
|
南海 |
6.5
|
南海 |
13.0
|
南海 |
13.0
|
近鉄 |
14.0
|
3位
|
近鉄 |
1.5
|
東映 |
4.5
|
東映 |
8.5
|
東映 |
11.5
|
東映 |
16.0
|
東映 |
15.0
|
南海 |
14.0
|
4位
|
ロッテ |
2.0
|
近鉄 |
7.5
|
ロッテ |
8.5
|
ロッテ |
12.5
|
ロッテ |
17.0
|
近鉄
|
東映 |
15.0
|
5位
|
東映 |
3.0
|
ロッテ |
8.5
|
近鉄 |
14.5
|
近鉄 |
13.5
|
近鉄 |
20.5
|
ロッテ |
16.0
|
ロッテ |
20.5
|
6位
|
西鉄 |
5.0
|
西鉄 |
12.5
|
西鉄 |
20.5
|
西鉄 |
22.0
|
西鉄 |
26.5
|
西鉄 |
31.0
|
西鉄 |
32.5
|
[1]
オールスターゲーム1972
できごと
選手・スタッフ
[2][3]
表彰選手
ドラフト
出典
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1950年オフに西日本パイレーツと球団合併 |