1975年の太平洋クラブライオンズでは、1975年の太平洋クラブライオンズの動向をまとめる。
この年の太平洋クラブライオンズは、江藤慎一が1年間のみ監督を務めたシーズンである。
概要
この年は大洋ホエールズから江藤慎一をトレードで獲得、選手兼任で監督を務める事に。他に日本ハムファイターズから白仁天、そして近鉄バファローズから土井正博がトレードで入団。その打線は「山賊打線」と称された。結果は江藤監督率いる山賊打線の活躍により、前期は2位、後期は4位で総合成績は優勝した阪急、2位近鉄に次ぐ3位と1967年以来のAクラスとなったが、これは福岡時代では最後のAクラスとなった。そして白が日本ハムの小田義人を僅差で抑えて、初の首位打者、また土井が34本の本塁打で初の本塁打王。これに加えてエース・東尾修も大活躍し、23勝で初の「最多勝」を獲得、また奪三振も154個で当時は表彰対象ではなかったがリーグの「最多奪三振」となっている。シーズン終了後、球団は来季も江藤監督留任を決めるも、新たに元アメリカ大リーグ監督のレオ・ドローチャーを招聘。ドローチャー側も監督就任に前向きな姿勢を見せ、江藤には打撃コーチ兼任を要請するが固辞して退団。選手としてロッテオリオンズへ復帰。また、東尾と並ぶエース・加藤初が、控え内野手の伊原春樹とともにこの年最下位に甘んじた読売ジャイアンツへトレードとなった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1975年パシフィック・リーグ順位変動
前期
順位
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4月終了時
|
5月終了時
|
前期成績
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1位
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
2位
|
太平洋 |
2.5
|
太平洋 |
2.5
|
太平洋 |
6.0
|
3位
|
ロッテ |
3.5
|
近鉄 |
3.5
|
近鉄 |
6.0
|
4位
|
近鉄 |
3.5
|
ロッテ |
7.0
|
日本ハム |
8.0
|
5位
|
日本ハム |
4.0
|
日本ハム |
7.0
|
南海 |
9.0
|
6位
|
南海 |
4.5
|
南海 |
10.0
|
ロッテ |
10.0
|
|
後期
順位
|
7月終了時
|
8月終了時
|
後期成績
|
1位
|
近鉄 |
--
|
近鉄 |
--
|
近鉄 |
--
|
2位
|
ロッテ
|
ロッテ |
3.0
|
ロッテ |
9.5
|
3位
|
阪急
|
太平洋 |
4.5
|
南海 |
11.5
|
4位
|
日本ハム |
1.0
|
日本ハム |
5.5
|
太平洋 |
12.5
|
5位
|
南海 |
2.0
|
阪急 |
5.5
|
日本ハム
|
6位
|
太平洋 |
3.0
|
南海 |
8.5
|
阪急 |
14.0
|
|
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定
オールスターゲーム1975
できごと
選手・スタッフ
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監督 | |
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一軍コーチ | |
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二軍監督・コーチ | |
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投手 | |
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捕手 | |
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内野手 | |
---|
外野手 | |
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[1][2]
表彰選手
ドラフト
出典
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1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
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2000年代 | |
---|
2010年代 | |
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2020年代 | |
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1950年オフに西日本パイレーツと球団合併 |