I LOVE YOU (尾崎豊の曲)
「I LOVE YOU」(アイ ラブ ユー)は、日本のシンガーソングライターである尾崎豊の楽曲。 1991年3月21日にCBS・ソニーから11枚目のシングルとしてリリースされた。作詞・作曲はおよびプロデュースは尾崎が担当しており、前作『永遠の胸』(1991年)から2か月ぶりのリリースとなった。元々は1枚目のアルバム『十七歳の地図』(1983年)の収録曲であり、アルバムリリースから8年後に改めてリカットされる事となった。 ピアノ演奏をメインとした若い男女の切ない恋愛をテーマとしたバラードソング。アルバム『十七歳の地図』制作中に曲数が不足したため、プロデューサーの須藤晃から依頼されて尾崎が1日もしくは2日で完成させた楽曲。1991年のシングル盤のジャケットは尾崎および田島照久が担当している。 オリコンチャートでは最高位第5位であったが売り上げ枚数は48.4万枚となり、生前の尾崎のシングルとしては最大の売り上げ枚数となった[注釈 1]。生前のライブではほぼ欠かさず演奏されており、またアンコールとして終盤に演奏される事が多かった。JR東海「ファイト! エクスプレス」を始めとして様々なコマーシャルソングとして使用された。後に宇多田ヒカルやコブクロ、玉置浩二などの著名なミュージシャンによってカバーされている。 背景本作は尾崎のファースト・アルバム『十七歳の地図』(1983年)の収録曲であったが、以下にシングルとしてリリースされるまでの経緯を記載する。 アルバム『誕生』(1990年)リリース直後、尾崎は所属事務所である「ロード&スカイ」が金儲けのために自身を利用しているとの猜疑心から同事務所を退所する事となった[4]。尾崎は事務所代表の高橋信彦に対して退所を告げると同時に独立して新たな事務所を共に設立する案を提示したが、高橋は取材など一部の仕事のみで尾崎に関与していたため疑心暗鬼の対象となっておらず、深く関与すれば高橋自身も同様の立場になると考え尾崎の提案を拒否した[5]。 1990年12月19日に尾崎は個人事務所「アイソトープ」を設立[6]。自らが代表取締役となり、コンサートツアーのブッキングやバンドメンバーの選定に当たるようになった[6]。個人事務所の設立には文芸・音楽誌『月刊カドカワ』編集長であった見城徹も深く関与しており、雑誌の編集長としての範疇を超えて協力していたため編集部に発覚すれば立場を追われるほどの協力体制となっていた[7]。事務所設立後に尾崎は仕事場を借り、そこへの引っ越しを行っている[8]。 1991年2月28日には角川書店より初の小説集『普通の愛』(ISBN 9784041867013)を出版[8]。この時期の尾崎は音楽家、レコーディング・プロデューサー、事務所社長、小説家など多彩な活動のために多忙な日々を送っていた[8]。アルバム『誕生』を受けてのコンサートツアーは「ロード&スカイ」所属時に仮決定されていたが、尾崎がツアーの実施を拒否したため事務所側は仮予約してあった会場をキャンセルするなど対応に追われた[9]。そのため事務所退所後にはコンサートツアーは全て白紙に戻されていた状態であった[10]。改めてブッキングを行うも、尾崎のコンサートツアーは過去幾度も中断やキャンセルが発生していた事[注釈 2]や、事務に不慣れなミュージシャン自身が社長である事などからイベンターから敬遠されていた[10]。 録音、制作1982年にCBS・ソニー主催の「SDオーディション」に合格した尾崎は、プロデューサーである須藤晃の指示によって「十七歳の地図」(1984年)を制作し、同曲の歌詞に感嘆した須藤からレコーディング開始を告げられる事となった[12]。レコーディングも終盤に差し掛かった時、須藤は尾崎に対して「曲が足りないからバラードを書いてきて」と要請、尾崎は「バラードということはやっぱり、ラブソングのほうがいいんですかねえ」と返答した[13]。出来なければアルバムは9曲でリリースするという須藤の言葉に対し、尾崎はその場で「あ、良い曲あります。『I LOVE YOU〜♪』って感じの曲なんですけど」と返答し、須藤も「うん、いいじゃない。そういう感じで書いてきてくれる」とのやり取りが行われた[14]。尾崎が口ずさんだメロディーに対してその場でアレンジャーの西本明がコードを合わせて演奏、その翌日もしくは翌々日に尾崎は歌詞を完成させた[13]。その後1983年10月1日にソニー信濃町スタジオにて歌入れが行われた[15]。 本作は元々制作してあった曲ではなく、その場で即興で口ずさんだ可能性が高いと須藤は指摘、「もともとあった曲なら、それ以前にテープで渡してるはずだし。曲作りをしていたときに、大学ノートの歌詞を見ながら、その場で僕に歌って聞かせたのと似た感じだったんじゃないだろうか」と述べている[14]。須藤は当時高校三年生であった尾崎が大人のビジネスに巻き込まれた結果、咄嗟についた嘘だった可能性があるとも推測している[14]。また尾崎は歌詞に英語をなるべく使用しないと宣言していたが、本作はタイトルからして急場しのぎで作ったような感じがあると須藤は述べ、「でも急場しのぎって、すごくいいものができる。つまり、結局そこに実力が出ちゃうからなんだ。前々から用意したものっていうのは、その人の音楽的なイヤらしいクセとかも出ちゃうのね」とも述べている[14]。また、アルバム『十七歳の地図』において最後にレコーディングが行われたのが本作であると須藤は断言している[14]。その他、本作のイントロ部分は西本が制作している。 音楽性と歌詞僕は、遺伝子の中には"やがて肉体は滅びる"という自意識が、組み込まれているんじゃないかという気さえするんだ。つまり命をかけてもいい、これだけは無くしたくないっていうほど人を好きになった瞬間に、『そんなことはできないんだよ』っていう、神様のささやきが聞こえるんだと思う。だからせつなくなる。それでラブソングは哀しく聞こえるんじゃないかな。
尾崎豊が伝えたかったこと[13] 本作に関して須藤は、尾崎が『十七歳の地図』のレコーディングを通して、自身の中で音楽的要素が整理されていく中で制作した曲ではないかと推測している[14]。須藤は尾崎は吸収力があったと述べ、自身はギターのみで作曲していたがキーボードが入ってバンド形式となった時に、どんな形で音が構築されていくのかをレコーディング中の2~3週間で学び本作を制作したのではないかと須藤は述べている[14]。須藤は本作はアマチュアっぽさがなく、楽曲としてスタンダードになり得る完成度であった事から流行歌になったと総括している[14]。須藤は自身にとって尾崎の代表曲は「卒業」(1985年)であると述べたが、世間一般的には本作であり、後にリリースされ尾崎最大のヒット曲となった「OH MY LITTLE GIRL」(1994年)と比較しても本作は制作当初から評価が高かったと述べている[16]。 本作は恋愛関係にある男女の幸福を描いた曲であるにも拘わらず、「とてつもなく哀しく聞こえる」と須藤は述べている[13]。須藤はこの事について尾崎と議論を重ね、「人の命には、限りがあるからではないか」という結論に辿り着いた[13]。須藤は歌詞中の「若すぎる二人の愛には触れられぬ秘密がある」という箇所の解釈として、若すぎる為に生活力もなく、二人で暮らす事を社会が認めてくれない事が「秘密」であると述べている[13]。須藤は現実的に生きる力がない事を箱の中にいる子猫のイメージに例えた尾崎の詩人としての才能を称賛し、本作には決して一つになれないという10代の恋愛が持つ哀しさが全て融合されていると述べた他、本作がその後ライブなどで歌唱された際にも17歳の尾崎の瑞々しさを失わなかった理由として、「ラブソングの持つ永遠の魅力を、表現しきったからだと思う」と述べている[13]。 音楽情報サイト『CDジャーナル』では、本作が結婚式の定番曲になっている事を指摘し、歌詞が「純粋で刹那的」である事から18歳で制作されたとは思えないと述べ、「しっとりと情熱的に歌われており、色褪せない永遠のラヴ・ソング」であると評価した[17]。著書『放熱の行方』においてノンフィクション作家である吉岡忍は、本作を「きれいだが、悲しみに満ちた歌」であると指摘し、「まぶしさの前で立ち止まり、そのまぶしさの裏側に隠されているのもを必死で探し当てようとしている姿がある」と述べている[18]。 リリース1991年3月21日にCBSソニーより8センチCDおよびカセットテープの2形態でリリースされた。元々は尾崎のファースト・アルバムである『十七歳の地図』(1983年)の収録曲であったが、制作当時はレコード会社からの評価が低く、シングル化は検討されなかった[19]。その後アルバムリリースから8年の歳月を経て、JR東海のコマーシャルソングとしてのタイアップと同時に初めてシングル曲としてリリースされる事となった[20]。カップリングには2枚目のアルバム『回帰線』(1985年)の4曲目に収録されていた「ダンスホール」が収録された[20]。 1996年10月21日にはNTTのコマーシャルソングとして使用され、プロモーション用として1曲入りの8センチCDとして再リリースされた[20]。また、2001年9月12日にジャケット・カップリング曲を一新し、マキシシングルとして再リリースされ、日清食品のコマーシャルソングとして使用された。カップリングには1991年8月27日の郡山市民文化センターでの同曲ライブバージョンが収録された。 チャート成績、受容本作はオリコンシングルチャートにおいて最高位第5位の登場週数45回、売り上げ枚数は48.4万枚となり[3]、当時の尾崎のシングルとしては最大の売り上げ枚数となった。本作の売り上げ枚数は尾崎のシングル売上ランキングにおいて第2位となっている[21]。2001年盤は最高位第45位、登場回数2回、売り上げ枚数は0.7万枚となった。2022年に実施されたねとらぼ調査隊による尾崎の楽曲人気ランキングにおいては第4位[22]、2023年に実施された同ランキングでは第5位となった[23]。 また、本作は2004年に教育芸術社が発行する高等学校の音楽教科書に掲載されている[24]。 ミュージック・ビデオ本作のミュージック・ビデオは、ビデオクリップ集『6 PIECES OF STORY』(1986年)に初収録された。ビデオの内容は、1985年11月14日の代々木オリンピックプール第一体育館でのライブ音源を元に、独房のような場所で尾崎がたたずみ、転げ回り不気味に笑うなど狂ったような様子を映したものが収録されている。このビデオが制作された時点では本作はシングルカットされていなかったが、監督を手掛けた佐藤輝は独自の判断でビデオ制作に踏み切った[19]。ビデオ内での設定は牢獄のような病室であり、佐藤は立ち位置以外は尾崎に指示を出さずに撮影が行われた[19]。尾崎はスタートの合図と共に涙を流しながら周辺をのた打ち回る演技をしたが、カットの合図と共に「お疲れ様でした」と普通の表情に戻っていたという[19]。 1996年10月21日には1991年8月27日に行われた郡山市民文化センター公演におけるライブ映像を使用した新たなミュージック・ビデオがシングルビデオとして発売されている。その後はこのビデオが正式なものとして統一され、『6 PIECES OF STORY』に収録されたバージョンは使用される事はほぼ無い状態となった[19]。 2018年4月25日に発売された10 PIECES OF STORYには、新たなミュージックビデオが制作されている[注釈 3][25][26]。 ライブ・パフォーマンス1984年3月15日の新宿ルイードでのデビューライブで演奏され[20]、その後のライブにおいてほぼ欠かさず演奏されており、アレンジもスタジオ録音版と大きく変わることはなかった。ライブでは本作のイントロが始まると同時に会場が静まり返っていたという[27]。また、ほぼ全ての公演においてアンコールとして終盤に演奏されている。演奏の曲順はデビューライブにおいて6曲目、「6大都市ライブハウス・ツアー」においては2回目のアンコールとして18曲目、「FIRST LIVE CONCERT TOUR」において1回目のアンコールとして19曲目、「"TROPIC OF GRADUATION" ツアー」において2回目のアンコールとして17曲目、「"LAST TEENAGE APPEARANCE" ツアー」においては2回目のアンコールとして19曲目、「"TREES LINING A STREET" ツアー」においては8曲目、東京ドーム公演「"LIVE CORE" 復活ライブ」においては1回目のアンコールとして24曲目、「TOUR 1991 BIRTH」においては2回目のアンコールとして22曲目、「"BIRTH" スタジアム・ツアー <THE DAY>」においては1回目のアンコールとして18曲目に演奏された[27]。 「LAST TEENAGE APPEARANCE TOUR」の新潟県民会館公演において、尾崎と同時に客席から聴衆の歌う声が大きく響いたため、尾崎自身が「俺の歌なんだから、歌うな!」と叫び、歌うのをやめ舞台袖に引き返した事がある[28]。 メディアでの使用
カバー日本語バージョン
英語バージョン
韓国語バージョン
中国語バージョン
タガログ語バージョン
シングル収録曲オリジナル盤
2001年盤
スタッフ・クレジット参加ミュージシャン
スタッフ
リリース履歴
収録アルバム
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク |