ジョン・マッキューアン(John McEuen、1945年12月19日カリフォルニア州オークランド生まれ)は、アメリカ人フォーク・ミュージシャンにしてニッティー・グリッティー・ダート・バンドの創設メンバー。
キャリア
ソロ活動
ジョン・マッキューアンはカリフォルニア州オークランドに生まれた。1964年にディラーズ(英語版)の演奏を見た後で、最終的にフィドルとマンドリンに興味を抱いた[1]。1986年、ダート・バンドでの20年にのちに、マッキューアンはソロ・キャリアへと歩みを進めた。1991年から1997年にかけて、ヴァンガード・レコードから4枚のアルバムをリリースした。映画とテレビ向けに作曲し、マイケル・マーティン・マーフィー(英語版)の5枚のアルバムを含む数人のアーティストのアルバムにゲスト出演した。その後、2001年にダート・バンドに復帰した[1]。ジョンは2017年に再びバンドから離れた
ニッティー・グリッティー・ダート・バンド
ニッティー・グリッティー・ダート・バンドのルーツは3つの異なる場所を起源にしている。1つ目は高校の同級生だったジェフ・ハンナ(ギター/ボーカル/ウォッシュボード)とブルース・カンケル(ギター/ボーカル/サックス/カズー)が1960年代前半に南カリフォルニアで結成したデュオである The New Coast Two であり、[フォーク]の側面を持ち込んだ。ジミー・ファッデンはハーモニカで[ブルース]の貢献をもたらし、レス・トンプソンとジョン・マッキューアン(レスは彼らの最初のグループだった Willmore City Moonshiners から以前のバンド仲間を勧誘した)が[ブルーグラス]とアパラチアの側面をもたらした。このような形成期の間に(ギタリスト/シンガーのラルフ・バーは初期のメンバーに含まれている)、1966年に彼らはフォーク=ロック=カントリーのグループであるニッティー・グリッティー・ダート・バンドを結成した。ジョンは兄のビルにマネージメントを任せ、彼らのキャリアがスタートした。1967年2月、バンドはマイナーヒットとなった "Buy for Me the Rain" とファーストアルバム『ニッティー・グリッティー・ダート・バンド(英語版)』をリバティー・レコードからリリースした。
その後の3枚のアルバムからはヒットが出ず、バンドはパラマウント映画の『ペンチャー・ワゴン』(リー・マーヴィンとクリント・イーストウッドが出演)のミュージカルの鉱夫役でオーディションを受けて合格した。撮影セットでの4か月間は、ジェフ・ハンナが始めたバンドを解散に追い込んだ。6か月後にジェフとジョンはPOGO(後のPOCO)を見て、お互いに「バンドを元に戻そう」と語り、ウィリアム・E・マッキューアン(英語版)のプロデュースで『アンクル・チャーリーと愛犬テディ』が生み出された。『チャーリー』にはジェリー・ジェフ・ウォーカーの「ミスター・ボージャングルス」のカバー、ケニー・ロギンズの「プー横丁の家」、マイク・ネスミスの「サム・オブ・シェリーズ・ブルース」と言った、1枚のアルバムからの3曲のヒット曲が収録されていた。
1970年にナッシュビルのヴァンダービルト大学でのニッティー・グリッティー・ダート・バンドで出会ったあと、ジョンは1971年6月にバンジョー奏者で新しい友人のアール・スクラッグスにバンドと一緒にレコーディングしないかと持ち掛けた(アールの息子のゲイリーが、その夜はグランド・オール・オプリではなく、このコンサートに行くように勧めていた)。
一週間後にドク・ワトソンにも同じ提案をして、双方から快諾された。
ビルとジョンのマッキューアン兄弟は、2人に問いかけてから8週間後に、彼らがカリフォルニア州ロングビーチで演奏していたエレクトリックなフォーク=ロックとは異なる、アコーステックの伝統的なブルーグラスとカントリー・ミュージックをレコーディングするというアイデアとともに、バンドに対してナッシュビルでのレコーディングを提案した。
そして、彼らが見落とされていると感じていた、ナッシュビルの一部に敬意を表して、その結果として、アール・スクラッグス、ロイ・エイカフ、マール・トラヴィス(英語版)、メイベル・カーター、ドク・ワトソン、バッサー・クレメンツ、ジミー・マーティン(英語版)およびバッシュフル・ブラザー・オズワルト(英語版)と言ったカントリー・ミュージシャンがゲスト出演した三枚組アルバム『永遠の絆(英語版)』(1972年)が生み出された。アルバムは評論家及び一般からの称賛を受け、ゴールドディスクに認定され、その後プラチナ認定を受けた。このアルバムはグラミー栄誉の殿堂と議会図書館に収められている。1977年、バンドはアメリカのバンドとして初めて旧ソビエト連邦でツアーを行った。
スティーヴ・マーティン
ジョン・マッキューアンはスティーヴ・マーティンを、ときどきバンジョーを教えていた高校時代から知っていた。1978年、マーティンから彼のコミカルで目先の変わった "King Tut"" と言う曲のバックバンドをやらないかと持ち掛けらえた。マーティンのボーカルで、ダート・バンドは Toot Uncommons と言う別名でこの曲を録音した[1]。
マッキューアンはマーティンのアルバム The Crow: New Songs for the 5-String Banjo(Rounder、2009年)をプロデュースし、演奏もでも参加した。アルバムは7か月にわたって1位となり、グラミー賞最優秀ブルーグラスアルバムを受賞した[1]。
マッキューアンは2018年に The Life I've Picked - A Banjo Player's Nitty Gritty Journey と題した自伝を出版した[2]。
共演者
マッキューアンが共演したアーティストの一部: デヴィッド・ブロムバーグ、ドリー・パートン、スティーヴ・マーティン、ウィリー・ネルソン、ビル・ワイマン、ロレッタ・リン、ジョニー・キャッシュ、ジューン・カーター、ジェリー・ガルシア、フィッシュ、ジェリー・ジェフ・ウォーカー、ケヴィン・ニーロン、レス・デューデック(英語版)、アリソン・クラウス、ジャクソン・ブラウン、ビル・コスビー、スティーヴン・ライト、トミー・リー・ジョーンズ、シシー・スペイセク、リンダ・ロンシュタット、エリック・アンダースン(英語版)、レオン・ラッセル、リトル・リチャード、メイベル・カーター、リヴォン・ヘルム、クリス・クリストファーソン、ボブ・ディラン、ケニー・ロジャース、スティーヴ・ヴァイ、ドク・ワトソン、ジミー・バフェット、スマザーズ・ブラザーズ(英語版)、ローワン&マーティン(英語版)、メアリー・チェイピン・カーペンター(英語版)、アラン・アーキン、ボビー・シャーマン(英語版)、ディアナ・カーター(英語版)、ホセ・フェリシアーノ、オールマン・ブラザーズ・バンド、ジョン・デンバー、ロイ・エイカフ、アール・スクラッグス、ジャック・ベニー、グレン・キャンベル、スティーヴ・グッドマン(英語版)、ウェイロン・ジェニングス、ロビン・ウィリアムズ、リトル・リヴァー・バンド(英語版)、ザ・バンド、マーシャル・タッカー・バンド(英語版)、ビッグ・ヘッド・トッド・アンド・ザ・モンスターズ(英語版)、ドゥービー・ブラザーズ、アンディ・ウィリアムズ、マール・トラヴィス(英語版)、バッサー・クレメンツ、ディジー・ガレスピー、オズモンド・ブラザーズ、エヴァリー・ブラザーズ、クリスタル・ゲイル、ゲイリー・モリス(英語版)、ダグ・カーショウ(英語版)、マイケル・マーティン・マーフィー(英語版)、ドアーズ、ドノヴァン、リー・マーヴィン、ランブリン・ジャック・エリオット、デヴィッド・アムラム(英語版)、アーロ・ガスリー(英語版)、アメリカ、ビル・モンロー、アスリープ・アット・ザ・ホイール、エアロスミス クリス・シーリ、マーク・オコナー(英語版)、ライル・ラヴェット、ゲイリー・ビジー、トム・ペティ、ザ・グレート・ゴンゾ、ポール・ウィリアムズ
受賞と表彰
- グラミー賞最優秀ブルーグラス・アルバム:スティーヴ・マーティンのThe Crow: New Songs for the Five-String Banjo
- グラミー賞最優秀カントリー・インストゥルメンタル・パフォーマンス:ニッティー・グリッティー・ダート・バンドのEarls Breakdown
- エミー賞ノミネート:The Wild West、Braving Alaska
- 全米バンジョー博物館(英語版):栄誉の殿堂入り(英語版)[3]
- Independent Music Award for Best Americana Album, "Made in Brooklyn"[4]
- Western Heritage Wrangler Award
- IBMA, Recorded Event of the Year
- Surround Music Awards, Best Additional Features
ディスコグラフィ
アルバム
シングル
Year
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Single
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US Country
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Album
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19
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"Blue Days Black Nights"
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81
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John McEuen
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脚注
外部リンク