中野昭慶
来歴満洲では、父親は南満洲鉄道の関連会社の国際運輸に勤務していた[出典 6]。祖父はいわゆる大陸浪人であり、日露戦争などに貢献したとして国から金杯を下賜されるなどしていた[6]。幼少のころは裕福な生活を送り、小学校は安東大和在満国民学校に通う[23]。 1946年(昭和21年)[18][6]、日本敗戦のため愛媛県新居浜市に引揚げ。新居浜には小学校卒業まで過ごす[13][24]。 1948年(昭和23年)、月輪中学校入学とともに京都府京都市に移る[13][25]。 1955年(昭和30年)、京都市立日吉ヶ丘高等学校普通科を卒業と同時に日本大学芸術学部映画学科脚本コースに入学[出典 7]。 1959年(昭和34年)、日本大学を卒業し、東宝に入社[出典 8]。当初は助監督部で本多猪四郎の下についたが[16]、『潜水艦イ-57降伏せず』では人手不足であったため、数日特撮助監督を務めた[出典 9]。 1962年(昭和37年)、円谷英二の指名を受け、『妖星ゴラス』から東宝特殊撮影技術班の助監督となる[出典 10][注釈 1]。『キングコング対ゴジラ』より本格的に参加[29]。 1963年(昭和38年)、『太平洋の鷲』からチーフ助監督に就任[出典 12]。円谷に請われ、「円谷特技プロダクション」でテレビ特撮番組『WOO』の企画に参加する[32]。 1969年(昭和44年)、クレージーキャッツ主演の『クレージーの大爆発』で特技監督(特殊技術)デビュー[出典 13]。同年の『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』でも、チーフ助監督という立場ながら、監督の本多猪四郎に代わり特撮の絵コンテなどを手掛けた[34]。 1970年(昭和45年)、円谷英二の死去に伴って特殊技術課が解散となる[12]。 1971年(昭和46年)、この年に東宝を退社した2代目特技監督の有川貞昌に代わって、東宝3代目の特技監督に就任[出典 14]。1970年代以降の東宝製作の特撮映画の特撮監督として活躍[5]。「ゴジラシリーズ」などのSF・怪獣映画や『日本沈没』などのパニック物、『連合艦隊』、『大日本帝国』などの戦争物、『火の鳥』をはじめとするファンタジー映画など、様々なジャンルを演出[出典 15]。円谷死去後における東宝特撮の第一人者として、映画斜陽時代の特撮を支えた[31][6]。 1973年(昭和48年)、『日本沈没』で「特技監督」として初めてクレジットされる[出典 16][注釈 2]。同作品はアジア映画祭の特殊技術賞を受賞し[13]、『東京湾炎上』『ノストラダムスの大予言』『地震列島』などで東宝パニック映画というジャンルを築く[12]。 1981年(昭和56年)、この年からフリーの特技監督となり、東映の戦争三部作や海外映画を演出[12]。 1984年(昭和59年)、9年ぶりに復活したゴジラ映画、『ゴジラ』を演出[16][17]。 1985年(昭和60年)、金正日の招きで北朝鮮を訪れ、怪獣映画『プルガサリ 伝説の大怪獣』の特撮監督を務める[36][19]。 以後、『竹取物語』(1987年)まで映画の特技監督として活躍[29]。その後はテーマパーク・博覧会関係の映像作品を多数手がけている[29]。 2017年(平成29年)、12月10日に東京の乃村工藝社本社でドキュメンタリー映画『特技監督 中野昭慶が語る特撮映画の世界』が初上映された。 2022年6月27日、敗血症のため死去[3]。86歳没[21][12]。 作風特技監督は技術者であり、文系・理系どちらかの素養があるとの持論を述べており、理系の天才である有川貞昌、文理両方をこなす円谷英二に対し、自身は文系の凡才であると評している[37]。特殊効果の渡辺忠昭は、監督就任当初の中野は特殊技術のプロフェッショナルではなかったが、『日本沈没』や『続・人間革命』などの大作を経て変化していったと証言している[38]。 「なんでもかんでも熱線でというのには抵抗があった」として、ゴジラを演出する際も肉体のぶつかり合いを重視したといい、この点では格闘よりも光線の応酬を重視する後輩の川北紘一と好対照を成している。1984年の『ゴジラ』でも、意識的に破壊を抑え、熱線もここぞというところで吐かせたと語っている。川北は中野について、「合成にあまり詳しくない」と述べていて、『ゴジラ対ヘドラ』や『ゴジラ対メカゴジラ』では、川北が数々の光学合成を担当し、演出を助けている[39]。 怪獣の演技に関しては、自らが殺陣をつけており、『ゴジラ対メガロ』では時代劇、『ゴジラ対メカゴジラ』では西部劇をイメージしたと語っている[40]。怪獣の動きには美しさを見せるため、歌舞伎や能・日本舞踊を参考にした[41]というが、1970年代のシリーズでは作劇上、ある程度擬人化せざるを得ず、悩みも多かったという[40][注釈 3]。また、ゴジラは円谷英二の時代にある程度やり尽くしてしまい、限られた予算の問題もあったため、次に何をやるか、また何ができるか考えることに苦労したと語っている[42]。ゴジラの流血描写も、本来は血を見せるのは好まないが、ヒーローとして仕立てるためには敵側の残忍性・残虐性を強調する必要があったと述べている[29]。助監督を務めた田淵吉男は、中野はお子様サービス精神を生真面目に撮っていた正統派と評している[43]。 東宝チャンピオンまつり時代では日本的な要素を入れることを意識していたといい、ガイガンは十二単、ジェットジャガーは般若の面、キングシーサーは狛犬をモチーフとしている[29]。 チャンピオンまつり時代でのゴジラシリーズは低予算での製作を強いられていたが、中野は円谷が育んだ技術を失わせたくないという想いや低予算を言い訳にするのは観客に対して失礼だとの考えから、破壊や爆発を一点豪華主義で見せる、コンパクトなセット作り、既存ミニチュアの活用、過去作品からのフィルム流用など、節約を重ねつつ低予算に見えない画面作りを心がけていた[41][12]。東宝映像社長の田中友幸はこれに味をしめて同じような作り方を要望するようになってしまったため、中野は失敗であったと述懐している[41]。また、操演に手間がかかることから、特技監督になってから一度もモスラを演出していない[44]。 チャンピオンまつり時代では、主な観客である幼児層にも設定が理解できるようキャラクターの見た目の説得力を重視している[10]。1970年代のゴジラは、吹き出しで話したり空を飛ぶなどの子供向け演出に対して批判が多かったが、「評論家を満足させるために映画を作っているのではなく、子供の客のため」であったという[12]。メカゴジラでは本来のデザインにはないリベットの意匠を加えており、金属製であることの説得力を持たせている[10][12]。デザインを担当した井口昭彦はこれに反発しているが、中野は「遊び心のある悪戯」がデザインの基本であるとし、自身たちが作る「大ボラ」に対してロマンを感じてほしいと述べている[10]。 火薬を多様・多量に利用した爆発映像から、「爆破の中野」「爆発の中野」の異名をうたう書籍もある[19][12]。いかに美しい火炎を描くか工夫を重ねたとのことで、有鉛ガソリンの発火色が特に美しいとして、市場が無鉛ガソリンに移行したために、特撮に使用できなくなったことを惜しんでいる。特殊効果の渡辺忠昭によれば、中野は『日本沈没』の後から火を好むようになったという[38]。 『日本沈没』では、波のうねりを表現するためにスタジオ内の特撮プールの水にビールを混ぜ込んで粘りを加えたため、スタッフ全員が悪酔いしたという。やってみたい映画として、特撮を駆使した「2時間、3時間笑いっぱなしという」[45]スラップスティック映画を撮ってみたいと語っている。 中野は、実景とミニチュアとではミニチュアで作った情景の方が本物以上のものを作ることができるためミニチュアの方に価値があると考えており、実際に実景で撮った船の映像を見た関係者から「ミニチュアがチャチだ」と言われたこともあったという[22]。一方で、火と水だけは本物を撮るしかないと述べている[22]。 人物・エピソード幼少期を満州ですごしたことから、後に映画を手掛けた際に日本と外国との違いを意識することはなかったと述べている[22][6]。後年、北朝鮮の映画『プルガサリ 伝説の大怪獣』(1985年)の撮影のため同国を訪れた際も、見知った風景であったため外国に来ているという感覚はなかったと述懐している[6]。 終戦後、日本へ引き上げるまで1年近く一家で大陸をさまよっており、父のつてで満州鉄道の貨物列車に隠れて移動するなどしていた[6]。祖父が下賜された金杯は、没収されぬようトウモロコシの粉で包んで蒸し、食べ物に偽装して中野が運んだ[6]。 満州から日本へ引き揚げた際に、満鉄の車両よりも小さな日本の機関車を見て遊園地の乗り物のようだと感じたといい、スケールの大きな大陸に比べて日本は何でも小さく見えたことが、後に自身が手掛けるミニチュアのイメージの原点になったという[13][22]。 日本では、母親の勤め先から映画の券を社員割引で安く入手することができたため、週に4回は映画を鑑賞していた[27]。中学校の国語の教科書に映画のシナリオが掲載されていたのをきっかけに、自身でもシナリオを書くようになり、映画業界を志望するようになった[27]。 助監督志望で東宝に入社したが、いきなり「円谷組へ行け」と命じられての特撮の現場入りだった[40][2]。当時、特撮の現場は社内でも敬遠された部署だったという[27][46][2]。中野は、当時は文学青年で『ゴジラ』も観たことがなかったというが[27][37][注釈 4]、やり始めてからは特撮も演出技術であると解釈するようになった[37]。 『太平洋の翼』で特撮班の監督助手(チーフ助監督)に起用されるが、通常10年以上の経験者が起用されるため、助監督歴3、4年の中野は異例の抜擢であった[47]。中野によれば、前年の『キングコング対ゴジラ』の時点で特撮班の助監督は2人しかおらず、当時のチーフ助監督であった浅井正勝が事務職へ転向したため、自身が繰り上がったという[2]。中野は、特技監督の円谷英二に迷惑をかけないよう雑務をすべて取り仕切ろうと意気込み、まず大雑把なものしかなかった特撮のスケジュール表を綿密なものに作り変えたが、会社側からは喜ばれたものの円谷からは「特撮はスケジュールで作るものではない」と怒られてしまった[47][注釈 5]。これにより2週間ほど円谷から無視されていたが、その後円谷が「(スクリーンプロセスで)本編の俳優を使いたい」と発言した際に本編班と交渉を行いこれを取り付けたことで、円谷の信頼を得て以後相談を受けるようになったという[47]。 助監督として参加した『キングコング対ゴジラ』が最初に携わったゴジラシリーズであったが、社会派であった前2作から娯楽作へと転換することに疑問を抱いたという[34]。一方で、怪獣の動きにスポーツの型を取り入れた円谷のアイデアは高く評価している[34]。その後のインタビューでは、同作品での一大転換がなければその後もシリーズが続くことはなかっただろうと述べている[2]。 『キングコング対ゴジラ』では、大ダコの撮影に用いた本物のタコが連日食事に出ていたことから食べ飽きてしまい、その後タコを食べることができなくなってしまったという[2]。 円谷は、本編もやりたいという中野の意を汲んで『ウルトラQ』に誘い、製作第1話(放送第4話)「マンモスフラワー」の監督を予定していたが、結局中野は円谷班の撮影に加わることになり、実現には至らなかった[37]。 『モスラ対ゴジラ』の撮影で、モスラ幼虫の糸として噴出するゴム糊が目に入ってしまい、失明しかけたという[44][3]。幸い大事には至らなかったが、腫れと痛みが治まるまで2,3日はかかったと述懐している[44][3]。このとき、遠視で疲れやすいことを眼科医に相談したところ、「見えにくくすればいい」とのアドバイスを受け、以後サングラスを着用するようになった[44][3]。 『ゴジラ対メカゴジラ』では、特撮の撮影初日に大遅刻した揚句、周りの緊張感をよそに何食わぬ顔で「本番スタート」の声をかけたというエピソードが残っている[39]。 インタビューなどでは温厚で誠実な受け答えで知られる。[要出典]『マンガ少年別冊・特撮映像の素晴らしき世界』(1979年、朝日ソノラマ)で企画された「特撮マン座談会」では、自身が酷評されている研究書(コロッサス編の「大特撮」)に対しても謙虚な姿勢を見せている[要ページ番号]。 映画『ゴジラ』(1984年)では、ゴジラのスーツ造形にこだわり、何度も手直しが行われた[48]。造形の安丸信行がこれに耐えかね憤慨したが、それに対して中野は台本を足元に叩きつけて怒りをあらわにしたといい、これを目撃していたゴジラのスーツアクターである薩摩剣八郎は後にも先にもこんなに怒った中野はみたことがないといい、赤鬼のような形相であったと述懐している[48]。 本人曰く「シネマスコープ大好きおじさん」だという[49]。特撮映画はシネマスコープで制作すべきだと持論を述べており、『ゴジラ』(1984年版)ではそれまでのシネマスコープからビスタサイズに変更されたことに不満を持っていた[17]。別のインタビューでは、シネスコは好きではなく、怪獣もので迫真力を出せるスタンダードサイズが一番好きだと述べている[29]。 初期のカラー映画ではアグファカラーを好んでおり、イーストマン・カラーは嫌いであったと述べている[46]。 助監督時代に、特撮用の巨大扇風機で手の指を切断する事故に遭った[50]。 円谷の死去する直前に、仕事の帰りにスタッフを引き連れて伊豆で療養中の円谷のもとを訪れ、スタッフの多くはこれが最後の対面となり、中野はなんとなく予感していたというが、一方で円谷の仕事を引き継いだ自身が訪れたことは円谷に対して良いことであったのか酷なことであったのか省みる部分もあったという[14]。 ドキュメンタリー映画『特技監督 中野昭慶が語る特撮映画の世界』の上映後のトークショーに監督の小澤智之、ナレーションを担当した黒塚まやと共に出演し、『シン・ゴジラ』の監督・特技監督を務めた樋口真嗣と総監督の庵野秀明の功績(特にゴジラの生物感の表現)も称えている。特に『ゴジラ』で映画界に入った樋口については息子同然であるとも話し、映画のヒットを労った[出典無効]。 作品映画助監督特技監督
テレビ
博覧会・テーマパーク
受賞歴
出演DVDコメンタリー出演すべて東宝ビデオ発売。
テレビ出演ラジオ出演
トークショー
著書
脚注注釈
出典
出典(リンク)
参考文献
外部リンク
|