守本專一
守本 專一(もりもと せんいち、1894年8月14日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4]。新字体表記守本 専一[2][3][4]。「守本恵一」「森本専一」[2]は誤記である。本名守本 熊太郎(もりもと くまたろう)[1]。 人物・来歴1894年(明治27年)8月14日、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草地区)に生まれる[1]。 学歴等は不明であるが、満16歳を目前とした1910年(明治43年)7月、嵐璃徳に入門、関西歌舞伎の役者となる[1]。 満32歳となった1926年(大正15年)12月19日、京都に御室撮影所を構える牧野省三のマキノ・プロダクションに入社、入社後の第1作は『成り上り者』(監督金森萬象)の家老役であり、同作は、翌年1927年(昭和2年)1月10日に公開された[1][5][6]。その後、時代劇・現代劇の区別なく脇役として多く出演した[1][2]。1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』の三保松子(結婚後本名・守本かつ子、1894年 - 没年不詳)の項によれば、守本と三保は当時すでに結婚し「京都市外花園村字上谷口齋宮町」(正確には京都府葛野郡花園村上谷口龍安寺齋宮町、現在の同府京都市右京区龍安寺斎宮町)に居を構えた旨、記されている[7]。『正伝 高山彦九郎』(監督押本七之輔)、『西南戦争』(監督中島宝三)、『大逆倫』(監督勝見正義)等では、夫婦共演している[2][8]。 1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、守本は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門、市川米十郎、東郷久義、市川幡谷、實川芦雁、桂武男、市川新蔵、津村博、澤田敬之助、河津清三郎、五味國男、川田弘三、柳妻麗三郎、小金井勝、秋田伸一、児島武彦、岡村義夫らとともに「俳優部男優」に名を連ね、また妻の三保松子も「俳優部女優」に名を連ねた[9]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)4月以降、製作が停止する[10]。同年1月5日に公開された『里見八剣伝』(監督吉野二郎)が、記録に残る同社での最後の作品となった[2]。 マキノ解散以降、妻の三保松子は帝国キネマ演芸、同社を改組した新興キネマに移籍していったが[11]、守本については、マキノの監督であった金森萬象が同年に設立した協立映画プロダクションに参加、翌1932年(昭和7年)に製作・公開された『光を仰ぎて』(監督金森萬象)に出演した記録が残っている[4]。同社もまもなく解散し、その2年後の1934年(昭和9年)9月に田中伊助が御室撮影所に開いたエトナ映画社に参加、1935年(昭和10年)5月23日[12]に公開された『義人長七郎』(『義人長七郎江戸の巻』とも[12]、監督後藤岱山)に出演した記録が残っており、満40歳のときに出演した同作が、記録に残る最後の映画出演作である[2]。同社は同作を最後に解散しており、同社にとっても最後の作品であった[12]。 マキノ光雄によれば、守本は後に1937年(昭和12年)8月21日に設立された満州映画協会に入社し、俳優幹事を務めていたという[13]。その後、妻の松子は第二次世界大戦終結後の1947年(昭和22年)まで東宝に所属して映画出演を続けたが[14]、以降の守本の消息は伝えられていない。没年不詳。 フィルモグラフィクレジットは、すべて「出演」である[2]。公開日の右側には役名[2]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[4][15]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。 マキノプロダクション御室撮影所特筆以外すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、サイレント映画である[2]。
協立映画プロダクションサイレント映画である[2]。 エトナ映画脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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