朝倉 虎治郎(あさくら とらじろう、1871年10月29日(明治4年9月16日[1]) - 1944年(昭和19年)5月3日)は、日本の商人(米商)[2][注 1]、東京府多額納税者[5][6]、渋谷区多額納税者[7]、実業家、政治家。東京府会議員、同議長[8]。東洋青物市場顧問[3][5]。族籍は東京府平民[9]。旧姓は杉浦。
経歴
愛知県碧海郡旭村(現・碧南市)に杉浦家の二男として生まれた[10][注 2]。小学校を5年で中退した[11]。東京深川木場の材木店で働いた[11]。1897年に朝倉たきの入婿となり[12]、1899年に家督を相続した[13]。精米業を営み[14][15]、「丸朝商店」と称した[9][12]。
1904年、養父・徳次郎の後を継いで、渋谷町会議員に推挙された[11]。家業の傍ら自治の仕事に携わった[11]。この間、朝倉米店は「虎治郎商店」と名前を変えた[11]。1915年、東京府会議員に選出され、家業一切から手を引き、家業は実弟の朝倉八郎に任せた[11]。
東京府会郡部会議長、同府会議長、渋谷区会議長等を歴任した[8][13][14]。東横乗合自動車、中央酒造、北海道証券交換所各監査役等をつとめた[4][5]。
人物
貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した[1][15]。趣味は書画[10]。住所は東京市渋谷区猿楽町[13]。墓所は青山霊園。
栄典
家族・親族
- 朝倉家
朝倉家は徳次郎の代に米穀問屋を始めた[10]。
- 親戚
脚注
注釈
- ^ 朝倉虎治郎の職業は『日本紳士録 第40版』によると「白米商[3]」、『人事興信録 第7版』によると「米穀商[4]」、『人事興信録 第12版 上』によると「精米商[5]」である。
- ^ 父親の名前は、『人事興信録 第6版』や『人事興信録 第7版』などによると「太市[4][9]」で、『ヒルサイドテラス物語 朝倉家と代官山のまちづくり』によると「太一[11]」である。
出典
参考文献
- 『日本紳士録 第6版』交詢社、1900年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 織田正誠編『貴族院多額納税者名鑑』太洋堂出版部、1926年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 『全国貴族院多額納税者議員互選人名総覧』銀行信託通信社出版部、1932年。
- 豊多摩時事新聞社編『渋谷区多額納税者名鑑』豊多摩時事新聞社、1933年。
- 交詢社編『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』交詢社、1933年。
- 婦人評論社編『日本婦人の鑑』婦人評論社、1934年。
- 交詢社編『日本紳士録 第40版』交詢社、1936年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 慶応義塾編『慶応義塾塾員名簿 昭和17年版』慶応義塾、1924-1942年。
- 交詢社編『日本紳士録 第47版』交詢社、1944年。
- 総理府賞勲局編『紺綬褒章名鑑 賞勲局百年資料集 大正8年〜昭和16年』大蔵省印刷局、1986年。
- 前田礼『ヒルサイドテラス物語 朝倉家と代官山のまちづくり』現代企画室、2002年。
関連項目