有馬秀雄
有馬 秀雄(ありま ひでお、1869年5月4日〈明治2年3月23日[1]〉- 1954年〈昭和29年〉12月10日[2][3])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡寺島町長。 経歴筑後国三潴郡久留米城下(現:福岡県久留米市)で、久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、同藩重臣・有馬孝三郎の養嗣子となる[4]。1889年(明治22年)、久留米尋常中学校を卒業し[4]、1892年(明治25年)、帝国大学農科大学実科を卒業[5][注釈 1]。 その後、旧藩主・有馬伯爵家の家令となり、同家の財政の立て直しに尽力した[4]。久留米六十一銀行の頭取を務め[2]、旧久留米藩の士族授産企業・赤松社の活動にも貢献した[4]。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で福岡県久留米選挙区から出馬して当選[2][4]。当選後は無所属だったが、その後立憲政友会に入った[6][7]。その後、第14回、第15回(補欠選挙)、第16回総選挙でも当選し、衆議院議員を4期務めた[2]。この間、1921年(大正10年)12月14日から、1925年(大正14年)2月5日まで寺島村長・町長を務めた[8]。 その後、東京府南葛飾郡寺島町に在住となった[5]。1931年(昭和6年)から再び寺島町長となり、1932年(昭和7年)9月30日まで務めた[8]。その後、東京市の市域拡大に伴い、同年11月5日に向島区(現・墨田区)選出の東京市会議員となった[9]。また、1942年(昭和17年)10月から1943年(昭和18年)6月まで第47代市会議長を務めた[10]。東京市会議長在任中の1942年(昭和17年)に、第11代全国市会議長会長を務めた[11]。東京都発足後は、向島区選出の都議会議員となった[12]。また、1943年10月から1944年(昭和19年)10月まで初代都議会議長を務めた[13]。そのほか、東京府会議員も務めた[2][4]。1954年12月10日21時20分、心臓麻痺のため死去した[3]。 脚注注釈出典
参考文献
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