松岡由貴
松岡 由貴(まつおか ゆき、1970年9月13日[2][7] - )は、日本の女性声優、タレント。大阪府大阪市東住吉区(現平野区域)出身[2]。ぷろだくしょんバオバブ所属[4]。 来歴大阪での活動幼少期は内気で人の後ろに隠れて挨拶もできないような大人しい子供であり、両親も「せめて挨拶だけでもできるようになれば」と養成所に入所させたと語る[8]。小学3年生から子役としてタレント活動をしていた[8]。レッスンはあまり好きではなかったが、オーディションは楽しかったという[8]。当時、子役には「上手にやること」は期待されていなかったことからプレッシャーもなく、むしろそこはかとない「緊張感」が気持ちよかったが、大人になった2011年時点では苦手という[8]。 子役のオーディションの内容はほとんど質疑応答で、1人で知らない場所にはいけないことから母が会場までついてきてくれていた[8]。しかし「ステージママ」的に「頑張ってくるのよ!」のようなことは言われず、「お茶飲んで待ってるから、行ってきなさい」という感じだった[8]。当時の合否の結果ついてはその場で分かる時もあれば、後で結果を知らされることもあったが、わりとあっさり受け止めていた[8]。合格すれば嬉しかったが、自信満々だった子供が落選した後に松岡が通った時「なんで由貴ちゃんなの〜?!」と感情むき出して悔しがる子供もいたことから、冷めていたんだと語る[8]。他の子供が通って松岡が落選した時も「まあ、そんなもんだろう」と冷静に受け止めていたという[8]。 あるオーディションで「ドラえもんのポッケの中から何が出てきたら嬉しい?」という質問があり、周囲の子供が「どこでもドア」、「タイムマシン」などと言う中で松岡1人「呪いのカメラ」と答えていた[8]。その時に「ええっ?」と驚かれ、その理由を説明したところ、それが面白かったようで合格し、このことを忘れられないオーディションのひとつと語っている[8]。 子供の頃から劇団に所属し[9]、1979年、9歳の時に当時若手だった明石家さんまとの共演による[10]チロルチョコのコマーシャルでデビュー[11]。当時の母は子役として活動する松岡に特別なことはしなかった[8]。しかし唯一言われたのは「プロ意識を持て」「仕事をするからにはきちんと意識を持って臨みなさい」ということだった[8]。明石家さんまと前述のCMに出演していた時も、「サインがほしいから色紙を持って行きたい」と言ったところ「遊びに行くわけじゃない、お仕事なんだから」と怒られたという[8]。 テレビに出演していると、良くも悪くも周囲から目立ってしまった[8]。同じようなことを色々な人物から何度も聞かれたりすると、ストレスになることもあった[8]。小学5年生の時に一緒にいた友人が転校してからは周囲の友人のアクティブさについていけず、途方に暮れていた時期があった[8][12]。その頃から自分が変わり、仲間と過ごしているうちに内向的な性格から一気に外向きな性格になった[12]。 中学時代、自分の意志で母に「もう一度きちんとお芝居の勉強をしたい」と言って劇団に入団[12]。中学時代に一度エキストラの仕事を断っており、母に「あんた、今のは何?」と聞かれ、「なんかやりたくなかったからエキストラの役、断った」と言ったところ、滅多に怒らなかった母が「あんたがこれからやろうと思っている役者という仕事は、親が死んでも舞台では笑っていなけりゃいけないの! やる気がないなら今すぐ辞めなさい。そうじゃないなら今すぐお仕事を受けなさい!」と声を荒げて激怒した[8]。すぐに劇団に「さっきの、やります」と電話し、「そうか、親が死んでも役者は舞台では笑っていなければいけないんだ」というプロ意識を思い知らされた出来事だった[8]。仕事には格別厳しかった母の魂のこもったその一言が、2011年時点の松岡を作っているという[8]。 中学2年生の時、偶然青二塾大阪校の2期生募集のポスターを見て「ここだ!」と思い、当時はアニメのテロップに「青二プロダクション」と書かれており、「その養成所が大阪にできたのだから絶対にそこに入りたい」と思っていたという[12]。しかし応募は16歳からという条件で、あと1年以上待たなくてはいけず、劇団を退団して声優の道に絞りたいが、応募にはブランクをつくらずに現役で臨んだ方がいいと色々な考えが巡っていたという[12]。結局、中学3年生の15歳の終わりに青二塾大阪校に第4期生として応募して合格し、高校進学と同時に青二塾に入塾[12]。大阪校は週2回の土日クラスがあったため、高校と並行して通う[12]。 青二塾に入塾する時にもオーディションがあった[12]。しかし後にも先にも、このオーディションだけは絶対的な自信を持ち、すでに子役タレントとしての経験を積んでいた松岡には大きなアドバンテージがあったことから臨むことができた[12]。 入塾後、そこは想像を絶する厳しい修行の場であり、軍隊のように鍛えられていたが、「いい人生勉強になった」と語る[12]。当初、「自分はちょっとお芝居をかじっているんだ」という余裕があったが、それがかえって伸び悩む要因になってしまい、周囲の皆がものすごい勢いで松岡を追い越していた[12]。台本が岩波書店の文庫本で、小さな字に習っていない漢字がぎっしりであり、それがきちんと読めなかった[12]。その時に「セリフの初見に弱い」、「すぐ詰まる」とダメ出しを受け真剣に悩んでいたが、このことはのちに「小さな悩み」と語っている[12]。フリートークも凄く苦手だったが、2011年時点では放っておいても口が勝手に喋るという[12]。 青二プロダクションに所属するためのオーディションに受かり、プロダクションには高校卒業まで1年待ってくれることになった[12]。その1年の間に大きな変化があり、音楽への興味がわき、ラジオDJをしてみたくなった[12][13]。大学にも行きたくなっており、高校時代に教育実習にきていた教師が「僕は、自由になる大学4年間の時間を親に買ってもらいました」と言っていた[13]。その言葉を聞いていた時、「私も、今から4年間を買ってもらいたい!」と衝撃が走り、母に相談していたところ、「自分がそれでいいと思うならそうしなさい」、「でもきっと寂しくなるわよ」と言われた[13]。結局、自分なりに色々考えていた末に進学を選び、青二プロダクションの所属を辞退していた[13]。 大手前女子大学(現大手前大学)[1]美学美術史学科[14]に進学したばかりのころは台本もオーディションもない、普通の女子大生の生活を満喫していた[13]。しかし母が予言していたとおり、1年経つとあっという間に役者の世界が恋しくなったという[13]。当時は女子大学生はコンパニオンになるのがステータスの一つになっており、「やってみよう」と思い、展示会などにコンパニオンとして派遺されるようになった[13]。 その中で偶々「君、確かちょっとしゃべれたよね? ラジオのオーディションがあるけど、やってみない?」と声をかけられる[13]。産休で3か月休止していたラジオ大阪の番組『TOYOTA SUPER COUNTDOWN 50』の女性DJのピンチヒッターを探しており、ラジオの経験はなかったが、パーソナリティには興味があったので「受けたい」と即答し、オーディションに臨んでいた[13]。生まれてから一度も経験したことのないパフォーマンスを要求され、例えば「イントロのせ」であり、Winkの曲『ニュー・ムーンに逢いましょう』を16秒のトークでのせないといけなかった[13]。原稿はキーワードしかなく、アドリブでのせていく形であった[13]。他にはインタビューなど、やったことがないことばかりで、途中で「帰りた〜い」と思っていたという[13]。あの時は胃が痛くなってまともに呼吸もできなかったが、一次を通り二次でベテランと中堅のプロと当時素人だった松岡の3人だけ残り、結果は松岡が選ばれたという[13]。このことを人生で一番緊張したオーディションとして挙げている[13]。 在学中の1990年12月9日、ラジオ大阪の番組『TOYOTA SUPER COUNTDOWN 50』の初レギュラーのラジオパーソナリティとしてデビューし[15][16]、以後大阪ローカルのMCタレントとして活動した。当時のラジオの仕事は3か月必死で放送は週1回だったが、必ず前日にスタジオに行き、自分がかける曲を全部チェックしていた[13]。担当ディレクターもそれに毎週付き合ってくれており、その時は何をどう喋ったらいいか全くわからない中でしていた[13]。活動開始から3か月間はフリーランスであったが、ラジオ番組が縁で立原啓裕の事務所[13](有限会社りある、後に分裂)に所属、後に「キャラ」[14]、「バオバブ」と移籍。 当時、大阪府では声優の仕事はなく、CMナレーションなどを最初は月に2、3本、やがてそれが5本になり10本にという形でどんどん増えていった[13]。レポーターのようなフリートークの仕事も、勉強しながら徐々にこなしていった感じだった[13]。大学4年生の時には、そこそこ仕事を貰えるようになっていたため、卒業後はそのまま仕事にスライドしていた感じだった[13]。卒業間近の時、単位が足りずに「卒業できないか」と思った時期もあった[13]。ある授業の追試験の日が仕事と重なってしまい、その1科目の単位が足りないために留年を覚悟していた[13]。偶々クライアントの都合で仕事の時間がズレて試験を受けられたことから、留年も免れたという[13]。 朝日放送(現:朝日放送テレビ)の『おはよう天気です』にもアシスタントとして出演しており、1995年1月17日5時46分に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)は、スタジオでのコーナー紹介の最中の出来事だった。そのコーナーとはゲームを紹介する「ピコピコ通信」を担当していた[17]。 「大阪日本橋界隈の活性化」を目的とした「日本橋プロジェクト」の公式キャラクター「音々」(ねおん)の声優を担当している。堺筋沿いの商店街アーケードに設置された街頭スピーカーで、「音々」として日本橋の紹介をしている。 東京での活動目標だった『MBSヤングタウン』のパーソナリティが終わる時に必死に階段を駆け上がってきて踊り場にたどり着いた感じであり、「この先ラジオは楽しんでやろう」と声優の仕事に目線を変えた[6]。 キャラクターの声をあてていた番組のプロデューサーに過去の経歴を話するに及んだところ、そのプロデューサーが『夢のクレヨン王国』も担当しており、これが縁でオーディションを受けた結果、同作品のシャカチック役に抜擢され、以後声優としての活動も始めることになった。つづけて次の番組『おジャ魔女どれみ』と上京するまでの2年半、収録のたびに大阪から東京に通っていた[6]。当時は朝10時のスタジオ入りだったことから大阪は6時発、4時起きだった[6]。大阪で声優の仕事はないため、東京の声優の中に一人関西勢が入っている感じで、大阪を背負っているような責任感すら感じていた[6]。 やっかいだったのは天候だったという[6]。たとえば大雪で新幹線が関ヶ原辺りで動かなくなってしまい収録に間に合わず、ということになったら、もう二度とそんな交通リスクを抱えた大阪の声優は使ってくれなくなるため、天気予報と交通情報を常にチェックして「電車、とまるかも」と思ったら、もう「前のり」だったという[6]。交通費だけではなくホテル代も自腹だったことから安く泊まれる宿を探していたが、雪のシーズンは受験期と重なり、リーズナブルなホテルはどこも受験生で満室だった[6]。「前のり」しようと決めるのは直前だったことから、移動中の新幹線の車中でホテルに電話するも空いておらず、ある時、「やっと部屋があった」と思ったところ、京王プラザホテルだった[6]。その時の宿泊料は2万円であり、「このお時間ですから、お部屋をグレードアップさせていただきます」と言われた[6]。40階のデラックスツインに1人寂しく泊まり広い部屋が余計に切なかったという[6]。その後、現所属事務所であるぷろだくしょんバオバブに移籍し、東京に転居している。 大阪の現場の時では普通に「おはようございます」と言って入るだけだったという[6]。しかし初めてのアフレコの時は挨拶から違い、松岡がスタジオに入ったところ、皆が松岡の前に一列に並び、「○○プロの○○です」「××の××です」と次々に自己紹介を行い、「もう、なんじゃこれっ?」と思った[6]。当時の青二塾では演技の勉強はしていたが、アフレコ実習はしたことがなかったことから、一から実践で学んでいた[6]。「パクる」や「オミット」など、現場ではあたりまえの用語・基本的なセオリーすら無知で、当初は何をどうしていいか全然分からなかった[6]。相方のユックタック役の宮原永海も同じで初めてのアフレコだったことから、2人で「キャラが出てきたらしゃべればいいんだよね?」と言っていた[6]。その時は第一声がオフのシーンでどこから出ていいか分からなかった[6]。しかしアフレコ収録後に先輩をつかまえて聞いてみたり、本番以外の会話はあえて大阪弁で喋るように心掛けていた[6]。そうしていたところ次の番組で『おジャ魔女どれみ』の妹尾あいこ役で大阪弁のキャラクターを演じることになり、当時は3次までオーディションをしてその役が決まった時は、「また声優を続けられる」と嬉しかったという[6]。 活動の中心を東京に移した後も『週刊えみぃSHOW』や『オモシロ好奇心☆どろんぱ!』など、読売テレビ(ytv)制作の関西ローカル枠のバラエティ番組のナレーションを担当することが多い。『最後の晩餐』(2000年 - 2002年放送)では、ギャルゲー体験企画のシミュレーションVTRのヒロインの声を担当した。 人物役柄関西出身で大阪弁[4]が地の言葉で、『クレヨンしんちゃん』で方言指導をしたことがある。 役づくりをする時のイメージでは、頭の中に大小の2本の木が生えて、小さな木は男性、大きな木は女性、上の方へ行くほど若くて下の方は年齢が高めなどである[19]。またそこから枝葉が分かれていき葉っぱをめくるとそれぞれ違う性格を持った顔が現れ、ぼーっとしていたり、冷徹なタイプだったりしている[19]。そんな感じで整理された頭の引き出しを順々に開けていき役を作るという[19]。 『夢のクレヨン王国』で松岡由貴と出会った脚本家の山田隆司は、次作の『おジャ魔女どれみ』において松岡の普段の立ち振る舞いをモデルにして妹尾あいこのキャラを作成、あいこだけは松岡が演じることが最初から決まっていた。 『アベノ橋☆魔法商店街』の挿入歌のバラードや、『My Merry May』主題歌のカバーでの一人二役デュエットなど、多芸ぶりを披露している。『おジャ魔女どれみ』シリーズではなぜかMAHO堂メンバーの内でただ一人、ソロが挿入歌に使われていない。妹尾あいことしては3人以上で歌っている曲のみ挿入歌として使用されている。 『テイルズ オブ シリーズ』には一度は声をあててみたいと思っており、念願叶って『テイルズ オブ イノセンス』にて関西弁のエルマーナ・ラルモ役を獲得。 趣味・嗜好主にオカルト、ホラー、サスペンス、ミステリー、連続殺人もの、バッドエンド系を題材とする映画が好きであることを笹川亜矢奈との映画対談コラム、『緋い月の夜、蒼い月の朝。』で公言している。またそのようなアニメに出演することを誇りにしているが、オタクはあまり好きではない様子[20]。生まれて初めて見た映画は『エクソシスト』である。逆に名作系、感動もの、ミュージカル全般などの「泣かせる」映画が苦手。特に前述のコラムの企画で笹川亜矢奈と見に行った『子ぎつねヘレン』を映画の途中から見終わった後数分間ずっと号泣していた。名作系でも『ハウルの動く城』などのファンタジー系は大好き。 無類のウサギ好きで、グッズも集めてはいるが、手当たり次第に購入していると無尽蔵に増えてしまうので、鼻の部分が毛に覆われていて猫や犬のように肌が露出しておらず、手足に肉球もないリアルに造形されているアイテムを選ぶようにしている[21]。 アニラジなどで使用されている番組独特の挨拶を「くすぐったい」という理由で嫌っている。アニラジにゲスト出演した際、パーソナリティーに頼まれようが、番組の台本に書いていようが、絶対に言わないようにしている。自身がパーソナリティーを務める『*由貴の結晶*』で、「番組独自の挨拶を作ったらどうか」という旨のお便りが来るも、前述の話をして却下している[22]。 イラストが得意で『まぶらほ』のDVD特典では漫画を掲載したこともある。 その他の趣味として、スキー、乗馬、水族館めぐりを挙げている[4]。特技は油絵、日舞、激辛[4]。資格は普通自動車免許を所持している[4]。 エピソード実家は喫茶店。由貴という名前は松岡が生まれる際、親が占い師に頼んで運がいい名前を決めてもらった。そのためオーディションなどで合格することが多いという。また、男の子だったら同じ字で(よしたか)という名前がつけられる予定だった。両親は物心ついた時には既に離婚しており、母方に引き取られた。実父と初めて出会ったのは高校時代である[23]。 フェレットを飼っている。名前は「ラムネ」。先代は「ウォッカ」。ラムネのために、夏は24時間欠かさずエアコンをつけている。そのせいで電気代が高額になってしまい困っているとのこと[24]。 2004年から2006年の誕生日はニューハーフバーで祝ってもらった[25]。 2007年11月18日に行われたイベント「『緋い月の夜、蒼い月の朝。』由貴と亜矢奈のトークショウ 『ソウ』スペシャル」で、笹川亜矢奈とのゲームに負けて人生初の「メイド服」を着用した。『涼宮ハルヒの憂鬱』第1話での笑い声のバリエーションを4種類ほど持たせた。 2023年5月28日、六本木UTAIBAにて松岡由貴30周年記念作品 「蒼い光は雪のように」(CD)リリースイベントが開催された(2回、各20名限定)。ゲストは秋谷智子、笹川亜矢奈、アリガトユイナ。ドラマ前日譚の朗読、質問コーナー、ゲストとともに歌を披露した。本来の30周年は2020年12月9日だったが、新型コロナウイルス蔓延の関係で遅くなったとのこと。 なお「ウィキペディアに掲載されている出身地は誤り」との発言もあった。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
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