松田直樹
松田 直樹(まつだ なおき、1977年3月14日 - 2011年8月4日)は、群馬県桐生市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー。元日本代表。 来歴プロ入り前小学1年の時、兄の影響でサッカーを始める。地元の天沼FCには小学3年から始める規定のところを特例で入団した。当時できたリフティングは最高で16回。他にも野球・バドミントン・水泳・ラグビーと様々なスポーツに挑戦するが、負けず嫌いの性格からどうしても一番になれないサッカーに夢中になっていった[3]。 中学まではFWの選手だった。当時U-15日本代表の監督であった小嶺忠敏が山田耕介(当時前橋育英高等学校監督)にいいDFがいないかを相談した際に、FWでありながらDFとしての適性も持つ松田が推薦されたことをきっかけに、その後のDF人生がスタートした。 U-15代表で小嶺のもとでDFとして指導を受けると、進学した前橋育英でも山田の元で指導を受けた。その後、山田が選手時に使用していた背番号「14」を与えられるようになった。当時松田には「超高校級」の触れ込みがあり、当時のJリーグ全12クラブのうち10クラブの争奪戦の末、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に加入する。 横浜マリノス / 横浜F・マリノス時代1995年、監督のホルヘ・ソラーリに「君は将来井原正巳を追い越す才能を持っている」と評価され[4]、3月18日、開幕戦の鹿島アントラーズ戦でスタメンに抜擢された。5月にソラーリが退任し、早野宏史体制になってからは主に控えでの出場が多かったものの、1stステージ優勝に貢献した。9月30日、名古屋グランパスエイト戦でプロ初ゴールを決めた。チームはこの年、初のリーグ王者に輝いた。 1997年に右膝半月板損傷、1998年に初手術を受けた。復帰後はレギュラーに定着し、1999年、高校時代からの背番号「14」から、井原の背番号「4」のひとつ前の「3」を付けるようになる。 2000年、Jリーグベストイレブンを初受賞。 2002年、2度目のベストイレブンを受賞した。その後行われた契約交渉ではクラブ側との意見の食い違いを見せ、当時の社長である左伴繁雄との5時間にわたった直接会談で和解し契約を更新。「永久にマリノスだよ」という言葉を残した。 2003年から2年間キャプテンを務め、チームはリーグ連覇を果たす。2005年にJリーグ通算250試合出場を達成。 2006年にはキャプテンに再び就任。2007年、オフに骨片が右膝十字靭帯を圧迫し、手術。その後、守備的MFとしてナビスコカップGL第1節の大宮アルディージャ戦で復帰した。この年、再び監督に就任した早野宏史からレギュラーを外されていたが、リーグ第16節のガンバ大阪戦でセンターバックとして先発し、39試合連続得点中のG大阪を無失点に抑えた。その後、第18節大分トリニータ戦で、リーグ戦300試合出場を達成。2006年には複数年契約拒否、2007年には約60%の減俸となったが、横浜FMへの愛・サポーターからの愛情を大事にしたい一心で契約更新をする[5]。 2008年、河合竜二の負傷により、再び守備的MFに抜擢される。最終ラインを守るチームメイトからは「DFの前にDFがいる」と頼りにされた。6月、小椋祥平に触発され、4年ぶり坊主頭(五厘刈り)を披露[6]。それがチーム内に連鎖し、田中裕介、小宮山尊信ら選手だけではなくチームスタッフや記者まで頭を丸めた。この年から2年間、チームの選手会長を務めている。 2010年、慢性的なケガを抱えていた右膝半月板の4度目の手術を行った影響で出遅れ、リーグ第13節のサンフレッチェ広島戦でシーズン初出場となった。 シーズン初先発となった第17節のベガルタ仙台戦でゴールを決め、その後は累積警告による出場停止の1試合を除き、最終節まで全試合にほぼ先発で起用された。1995年から15年にわたってクラブ一筋でプレーし、ミスターマリノス[7] と呼ばれるようになっていた。前年のシーズンオフの契約更新では「引退までマリノスでプレーしたい[8]」と語っていたが、11月27日、クラブから戦力外通告を受けた。12月4日、最終節後の退団セレモニーにて「マジでサッカー好きなんすよ。マジでもっとサッカーやりたい。本当にサッカーって最高な所を見せたいのでこれからも続けさせてください。」という言葉を残し退団した[9]。 松本山雅FC時代2011年、海外からのオファーもあったが、当時JFLの松本山雅FCと契約[1]。背番号は横浜FM時代から引き続き3番をつけた。主にCBとして全15試合に出場、1得点。 生前最後の試合となった7月23日のJFL後期第4節Honda FC戦(長野県松本平広域公園総合球技場)で、Jリーグ含め公式戦通算400試合出場を達成していた。 日本代表歴U-15日本代表に招集されて以来、各世代の日本代表に選出された。U-17世界選手権やワールドユースに出場。U-19代表ではほとんどが19歳の選手の中で松田は17歳で試合に出場した。 1996年のアトランタ五輪に19歳4カ月で出場し、これは当時日本サッカー史上最年少での五輪出場だった[10]。マイアミの奇跡として知られるブラジル戦でロナウドのマークを担当するなどレギュラーとして全3試合に出場した。 トルシエジャパン時代A代表と五輪代表監督に兼任で就任したフィリップ・トルシエの下、フラット3と呼ばれる3バックの一角としてプレー。1998年11月23日、五輪チーム立ち上げ初戦のアルゼンチン戦に招集されるも出場はなく、その後五輪アジア1次予選にも召集されることはなかった[11]。1999年9月7日、五輪最終予選前の韓国との壮行試合に10ヶ月ぶりに召集されるが出場機会は与えられず、不満を露にし自ら代表を去った[12]。しかし2000年2月のカールスバーグカップの際、トルシエから「君にはもう1度チャンスを与える。生かすも殺すも君の自由だが、これが最後のチャンスだと思ってくれ」と再招集を受け[13]、川口能活の説得もあり[14] 代表に復帰。同大会のメキシコ代表戦でA代表デビュー。当初は中央か右の候補だったが、中央は森岡隆三と宮本恒靖が重宝されるようになると、右ストッパー要員専門の候補となる。同年、シドニー五輪本大会に2大会連続でメンバー入り。ベンチメンバーであったがレギュラーの中田浩二の怪我に伴い、本来ではない左ストッパーとして2試合に出場。その後のアジアカップでは3試合に出場し、優勝に貢献。2001年のコンフェデレーションズカップからレギュラーに定着した。 2002年、日韓ワールドカップのメンバーに選出される。初戦のベルギー戦後、合宿場所である葛城北の丸の風呂で選手だけのミーティングを行い、松田の「俺らは戦術に縛られすぎている」という発言により、選手の間でのみディフェンスラインを下げることに決めた[15]。その後チームは史上初のベスト16という結果を残した。 その後トルシエは「松田は信頼できる強い選手で、日韓W杯では日本代表のキープレーヤーだった」と当時を振り返っている[16]。 ジーコジャパン時代ジーコが監督に就任して以降は主に控えに回っていた。アジアカップ優勝時まで試合に出場したのは約8分間であり[17]、優勝に貢献できなかった自分を悔やみメダルをスタッフにあげてしまうほどであった[17]。2005年3月25日、ドイツワールドカップ最終予選第2節のイラン戦では、DFの田中誠が出場停止、中田英寿、中村俊輔、小野伸二が久しぶりに揃ったという状況で、ジーコはCBを減らしMFを増やす4-4-2フォーメーションで臨む。記者から「黄金の中盤の起用は理想を追い過ぎでは?」と問われたジーコは、「イラン戦で4-4-2にしたのは、田中が出場停止だったからだ。それがなければ変えるつもりはなかった」と発言。松田はそれに対し、「自分達控えDFが信頼できないのか」と不満を露にし[18]、続く3月30日の第3節バーレーン戦でベンチ外が決まると、スタンドでの観戦が規則であったにも関わらず試合前に無断帰宅。その後謝罪の手紙を送ったが、以降代表招集されることは無かった。 国際Aマッチ通算40試合出場、1得点。 突然の死2011年8月2日の9時58分頃、松本市の梓川ふるさと公園にてチームの練習中に、「やばい、やばい」と発しながら突然倒れ[19]、心肺停止の状態で信州大学医学部附属病院高度救命センターに緊急搬送された[20]。病名は「急性心筋梗塞」と発表[20]。補助循環装置 (PCPS) を付け、途中心拍が微弱ながら戻り、STが上昇していたという。しかし、意識を取り戻すことはなく、8月4日13時6分頃、同病院で34歳で死去[21]。 戒名は「 スペインのセビリアでは松田の死を大きく報道し、国営放送ではゴールデンタイムのニュース番組で報じた。死去当日に行われたスペイン代表とRCDエスパニョールの親善試合(アントニオ・プエルタ杯)では、松田と同じような形で亡くなったアントニオ・プエルタ、ダニ・ハルケの写真と共に松田の写真も掲示された[22]。また国際サッカー連盟の会長ゼップ・ブラッターは「日本代表の伝説的なディフェンダー (the legendary defender of the national team of Japan) 」と評し、哀悼のメッセージを贈った[23][24]。 8月8日の通夜、翌日の葬儀・告別式には中田英寿、川口能活、中山雅史、小野伸二、曽ヶ端準、安永聡太郎、佐藤由紀彦、城彰二、秋田豊、楢﨑正剛、前園真聖、三都主アレサンドロ、松本所属選手(木島良輔など)、横浜FM所属選手全員(中村俊輔、中澤佑二など)、木村和司、トルシエ、岡田武史、西野朗など多くの関係者やサポーターなどが参列し、故人を悼んだ[25]。 松田の死後に行われた日本国内のリーグ戦や8月10日に行われた日本対韓国の国際親善試合では、試合前に松田への黙祷が捧げられ、吉田孝行等多くの選手たちは自身が決めたゴールを「松田に捧げる」というコメントを残した。 チームが使用したグラウンドには自動体外式除細動器 (AED) が設置されていなかったことから、日本サッカー協会は、2012年度よりJリーグだけでなく、JFL等(Fリーグ、なでしこリーグ)に試合や練習におけるAED常備を義務付けることを決め[26]、日本陸上競技連盟 (JAAF) は、松田が急逝した翌週に競技場内で行うトラック・フィールド種目でのAEDの設置の義務付け・操作方法を広めると決定した[27]。また、日本循環器学会AED検討委員会と日本心臓財団が松田直樹の件を取り上げてAEDの設置および配置について具体的な目安を示し[28]、相撲協会でAED講習会が行われるなど[29]、サッカー界だけでなく全国各地でAEDへの関心が広まった[30]。 8月12日、前年まで在籍していた横浜FMが松田の背番号「3」を永久欠番とすることを発表[31] 。J1史上初の永久欠番となった。一方で松本は3番を背負いたい選手が現れるのを待つとして永久欠番にはせず空き番となっていたが、横浜FM時代にチームメイトだった田中隼磨が2014年に松本に加入し背番号「3」を付けることとなった[32]。 8月26日、松本平広域公園総合球技場アルウィンにて松田直樹壮行会(お別れ会)が行われた。 同年12月5日、Jリーグ功労選手賞を受賞。 2013年5月17日、サポーター、ファンが選ぶ Jクロニクルベスト ベストイレブンに選出された。 人物・エピソード一般社団法人 松田直樹メモリアル Next Generationが設立されている(後述)[33]。 ヘアバンド日韓W杯と前後して試合中に松田がつけていたヘアバンドが世間で流行する現象が起きた。当時はヘアゴムを大きな輪にしてはめていただけであったが、その後アディダスにより製作されており、背番号3と共に松田を象徴する代名詞[34] と言われた。写真集の初版限定盤にはヘアバンドがつき、松田直樹メモリアルでは、3の入った黒のヘアバンドが販売されている。 選手として「俺は負けるのが許せないし、だからこそプロの世界で生きてこられた[35]」と、自他ともに認める“負けず嫌い”の性格であり、フィリップ・トルシエからは「試合に出さなきゃ殺すというオーラがある」[36] とまで言われた。闘志あふれるプレースタイルで、カードを出されることが多かったが[37]、「本当は冷静なのに相手との駆け引きで熱く見せたりすることもある」「イエローカードも一つの勲章だと思っていた」と語った[38]。 ピッチに立つことに強い思いがある選手であり、代表では監督のトルシエやジーコと度々衝突し無断離脱したことがある[39]。2000年、1stステージ第12節のアビスパ福岡戦では、負けている福岡の選手がこれ以上の失点を防ぐために守りに入っていることに対し本気で激高し、ピッチ上でボールに座り、相手選手を手招きしながらののしった。試合後のインタビューでは「あいつらはプロじゃない。必死に戦ってくれているサポーターの気持ちが分からないのかな」と涙ながらに発言し[40]、2003年のジュビロ磐田戦では、西野泰正と接触プレー後に憤激して主審に向かい言い放った「やるよ、やっちゃうよ」はピッチ外マイクに拾われてテレビに流れ、以後、松田を象徴する名文句となった[41]。 気合を入れるためにチームメイトに殴ってもらうことがあり、2004年のJリーグチャンピオンシップ第2戦、浦和レッズ戦の試合前にはチームメイトの栗原勇蔵に殴らせて気を失いかけた[42]。負傷で離脱している選手や退団が決まった選手の名前をアンダーシャツに書いて着用するなど[43]、仲間に対する想いも強かった。また、同世代の経験の豊かな選手が次々と戦力外として外されていくことに危惧しており、「若返り」と「身の丈経営」を理由にベテラン選手が解雇されていくJリーグの現状を危惧する発言を、自身が戦力外通告される前から度々していた[44]。 サポーターやクラブへの愛が強く、横浜FM時代にはミスターマリノス[7]と呼ばれるほど親しまれた。2007年のレギュラーから外されていた時期の練習中には、サポーターによって松田の名前が入った横断幕が常に掲げられていた。その年のリーグ戦初出場となった第16節のG大阪戦では松田のコールが響き渡った[45]。のちに、松田は「あの時の横断幕は俺を奮い立たせてくれた」と語っている[46]。松本ではサポーターの多さと、サポーターとの距離が近いスタジアムにまず興味を示し[47]、加入当時には「クラブ・監督・選手・サポーターが一丸となってJ2に上がりJ1へ行く」と公言し、シーズン新体制発表の前にスタッフやチームメイトと共に松本市内の神社を訪れ、J2昇格を祈願した[48]。 デビューした1995年当時、リーグ戦では背番号が固定制ではなかったため、DFながら「10番」を付けて試合に出場した事がある[49]。これに対して前年現役引退し、チームで長らく10番を背負ってきた『元祖ミスターマリノス』こと木村和司は、「マリノスの10番も軽くなったもんだ」と発言している[50] が、あくまでも松田がまだチームを背負うような立場でない新人で、なおかつ「10番」のイメージには似合わないDFであることに冗談めかして触れたものである。 筋力強化のためにオフシーズンは肉食中心の食事をし、特に鶏肉のささみが好物だった[51]。また、普段からファーストフードや甘いものを良く食べ、体重が5~6kg増えたこともあったため、これが死因に繋がったともされる[30]。 選手・サポーターへの影響力
所属クラブ
個人成績
その他の公式戦
その他の国際公式戦
代表歴
出場大会
試合数
出場
ゴール
タイトルクラブ代表個人その他関連情報関連書籍
松田直樹メモリアル
松田直樹メモリアルNext Generationは、サッカーを通して子どもたちが仲間や命の大切さを学び、大きな夢を育むことを目的とした一般社団法人である。 メモリアルゲーム
脚注
出典
関連項目外部リンク
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