甲斐田 ゆき(かいだ ゆき、11月30日[2][3] - )は、日本の女性声優。東京都出身[3][2]。フリー[2]。
幼少期は、かわいげのない子供だったようであり、兄には人懐っこいが、女子のほうが愛想がなく母は心配していたという[4]。小学2年生の時に担任の教師にお願いをして、授業を潰して友人と2人で15分くらいの即興劇をしていた[5]。人前で演じることは好きで、小学校のお楽しみ会、学芸会で張り切っていた[5]。小学生の頃は「童話作家になりたい」と考えており、本を読むことが好きで、想像の世界が好きな少し暗めの危なめの子供だったとのこと[5]。小学校の卒業文集の将来の夢の欄には、「童話作家」と書いてあったという[4]。
中学校は演劇部がなく必修クラブで演劇クラブに入部し、クラブ長をしていた[5]。その頃に職業としての声優があることを知り、友人とラジオドラマのまねごとをしたりもしていた[5]。中学時代はバドミントン部、高校時代は演劇部、1学期のみラグビー部のマネージャーをしていた[5]。同時期に劇団のオーディションを受けていたが、不合格になったという[5]。
高校生くらいに「お芝居が好きなんだな」と自覚していたという[6]。その頃から情報を集め、無料の興行、研究生公演を探し、お小遣いをやりくりし、劇場へ足を運んでいたという[6]。
進路を演劇関連に絞ることを決めて、演劇学科のある大学に進学しようと考えていた[7][8]。しかし選択肢が少なく「大阪芸術大学を受験したい」と言っていたところ両親から「日本にいるなら東京の自宅から通える大学にしなさい」と言われて断念[7][8]。
海外の大学はほとんど演劇学部があることから海外なら良いということ、母から大学に進学したら「1年留学をするように」と言われていたこともあり、放課後に留学関連の機関に通い、東京都立新宿高等学校卒業後[8]、アメリカ合衆国の大学に留学し、演劇を学ぶ[6][7]。母も若い頃に海外で生活していたため、特に特別なことではなかったようだったという[4][7]。大学卒業の際、そのままアメリカに残りそうであり、母がアメリカまで連れ戻しに来ていた[7]。芝居をしていることには反対していたが、出演していた舞台は観に来てくれたという[7]。全10回公演があったら、母3回、兄6回と来てもらっていたという[7]。
兄は、甲斐田が書いていた脚本の芝居を友人を連れて観に来てくれて、感動して泣いてしまったが、友人は「泣いていなかった」と文句を言っていたという[7]。
帰国後は日本の演劇業界については右も左もわからない状態だったため、雑誌に掲載されていたオーディションに応募する日々を送っていた[6]。「お芝居だけではごはんは食べられそうもないな」と早い段階で気づき、文句なしの才能があった訳ではなかったことから抜群の歌唱力、絶対的な美貌、美声、超絶ダンステクニックもなく役者は断念し、「一般企業に就職すべきかも」と考えてた時期があったという[6]。
採用試験を受けていたが、重役面接で落選[6]。企業の不採用の連絡を受けていたその日に、以前、オーディションを受けていた舞台のプロデューサーから「夏休みに子供ミュージカルをやるんだけど出演しませんか?」という電話をもらい、アンサンブルの1人として舞台に立つ[6][7]。
英語を話す舞台に出演した時にラジオCMのディレクターから誘われて声の仕事を始める[9]。当時バイリンガルが少なかったためか、開局間もなかったJ-WAVEでの番組もすぐに決まったという[9]。J-WAVEの番組の放送後、それが経歴になり、次々に仕事がまわってくるようになった[10]。半年後にはナレーションで食べていかれるようになっていったという[10]。ナレーションの仕事があると知っていたら、早く目指していたという[10]。「こんなに楽しいことしてお金もらっていいのかな」と思うくらい楽しく、読むだけで高揚するようなセンスのいい文章を書く人物と仕事ができたことも恵まれていたと語る[10]。初めてのアニメ出演は、1993年に発売された学習研究社制作の英語教材ビデオのアニメ『サザンウィンド[9]』のヒミコ。
以前はトリトリオフィスに所属していた。
ナレーションだけをしていた頃に1998年、ゲーム『スターオーシャン セカンドストーリー』の女性役のセリーヌ役、男の子役のレオン役を演じる[4]。当時はあまりにも気楽に収録に行っていたところ「今のセリフはちょっと女の子っぽいですね」など、ディレクションをくれても、正直キョトンとしてしまった[4]。その時は男の子役という認識もビジョンもなかったという[4]。
ターニング・ポイントとなった作品は『HUNTER×HUNTER』である[4]。このことを、事の重大さもわからず、たりないことだらけだったが、声優として育ててもらった現場とも言えるかもしれないという[4]。同時に、それまで想像していたこともなく、色々な経験させてもらったという[4]。もちろん『テニスの王子様』もであり、男の子役は相当面白く、声優ならではの体験ができて純粋にうれしかったという[4]。
仕事をくれた時にトレーニングしても間に合わないため、20代半ば以降、仕事をするようになってからアンテナを立てることを意識するようになった[11]。監督、その作品自体が求めている空気、言葉ではなく感覚として感じているアンテナは「必要だな」と語る[11]。
生年は未公表だが、置鮎龍太郎より年上であることは公表している[12]。また、竹内順子より年上で郷田ほづみより年下である。
自身がパーソナリティを務める『少年陰陽師・彼方に放つ声をきけ〜略して孫ラジ』では、「ニッキー」(ユッキーとかけて、ニはニックネームのニ)や「かゆき」(女優の「小雪」と自分の名前をかけて)という愛称が生まれた。
皆川純子、竹内順子と共にユニット「AZU」を結成。2006年から2007年12月30日まで、『AZUのラジオ』というラジオ番組を放送していた。声優界でもっとも仲の良い2人だという。
高橋広樹とは『HUNTER×HUNTER』以来アニメの共演も多く、『高田広ゆきラヂヲシティホール』『高田広ゆきケータイシティホール』と合わせて6年3ヶ月あまりパーソナリティーを務めた。2013年2月15日〜3月1日更新の『ヘタリアWEBラジオ 第2期〜ヘタリアThe Beautiful World〜』で久しぶりに一緒にパーソナリティーをやることになり、高田でも一緒だった放送作家の田原弘毅とディレクターの佐藤太と共に4人で撮った写真をツイッターに載せていた。
太字はメインキャラクター。