メルビン・モーラ
メルビン・モーラ・ディアス(Melvin Mora Diaz, 1972年2月2日 - )は、ベネズエラヤラクイ州アグア・ネグラ出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 経歴プロ入り前高校時代はボクサーとして活躍。1981年からベネズエラのサッカーリーグの下部組織に所属し、1990年までサッカーをプレーしていた。プロサッカー選手としてパラグアイ、アルゼンチンへの遠征経験もある[1]。 プロ入りとアストロズ傘下時代1991年にヒューストン・アストロズと契約。しかし、ここではメジャー昇格には至らなかった。 台湾球界時代1998年には、台湾プロ野球・中華職業棒球大聯盟の三商タイガースでもプレイしていた。 メッツ時代1998年7月24日にニューヨーク・メッツと契約を結んだ[2]。マイナーでは、セントルーシー・メッツ(A+級)とノーフォーク・タイズ(AAA級)で計28試合に出場し、打率.241・10打点・1盗塁という打撃成績を残した。守備面では、この頃から内外野どちらでも守れるユーティリティとしての実力を見せており、中堅手・遊撃手・二塁手・左翼手・三塁手の各ポジションを守った。 1999年5月30日に本拠地での対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で、「8番・遊撃手」としてメジャーデビューを果たした[3]。同年は外野メインで66試合に出場したが、打率.161に終わった。一方で、マイナーでは82試合の出場で打率.303・8本塁打・36打点・18盗塁・OPS0.844という好成績をマークしている。 2000年は遊撃手、外野の各ポジションで79試合に出場し、打率.260・6本塁打・30打点・7盗塁 (成功率70%) という打撃成績を記録した。 オリオールズ時代2000年7月28日にトレードでボルチモア・オリオールズに移籍した。なお余談であるが、このトレードには阪神でプレー経験のあるマイク・キンケードが含まれていた[2]。 オリオールズ移籍後は53試合に出場し、打率.291・2本塁打・17打点と好調を維持したが、走塁面では5盗塁・8盗塁死 (成功率38%) と不振に陥った。守備では遊撃手に特化し、53試合中52試合で遊撃守備に就いて、守備率.952という内容だった。 2003年までは、遊撃手、中堅手を中心に、複数のポジションを守れるユーティリティープレイヤーとして出場した。 2004年に三塁手のレギュラーに固定[4]。同年、打率.340はイチローに次ぐリーグ2位、出塁率.419はリーグ1位。シーズン終了後にはシルバースラッガー賞を受賞。 2005年は、打率.283と前年より低下したが、2年ぶりにオールスターに選出された。 3年総額1050万ドルの契約最終年となった2006年、モーラは3年契約以上、年平均900万ドルの契約を要求したが、オリオールズでプレイしたいことを理由に5月19日、契約にノートレード条項を盛り込ませ、3年総額2500万ドルで契約延長[5]。 2008年は前半戦こそ打率.232と低迷したが、後半戦は打率.376を記録し、8月にはプレイヤー・オブ・ザ・マンスを受賞している。4年ぶりに20本塁打・100打点を達成。 2009年はシーズン開幕前の3月に第2回WBCのベネズエラ代表に選出された[6]。 シーズンでは5月以降は打率3割を越えることがなく、打率.260、OPS.679と不振に陥った。 ロッキーズ時代2010年1月5日にコロラド・ロッキーズと125.7万ドルの1年契約を結ぶ。遊撃手を除く内野全ポジションと左翼手で起用され113試合に出場し、打率.285、7本塁打、OPS.779を残した。 ダイヤモンドバックス時代2010年12月6日にはアリゾナ・ダイヤモンドバックスと40万ドルの1年契約を結んだ。 2011年は控えとして42試合の出場で出塁率.244と不振に陥り、6月29日にFAとなった。オフの12月29日に現役引退を発表した。だが、後日、引退を撤回し、現役続行する事が発表された[7][8]。 選手としての特徴
人物子沢山な野球選手としても有名であり、五つ子を含め、7人の子がいる。 詳細情報年度別打撃成績
表彰
記録
背番号
代表歴脚注
関連項目外部リンク
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