ル・アーヴル襲撃
ル・アーヴル襲撃(ル・アーヴルしゅうげき、英語: Raid on Le Havre)は七年戦争中の1759年7月3日から2日間、ジョージ・ロドニー少将率いるイギリス海軍によるフランスのル・アーヴルへの艦砲射撃。フランスによるイギリス侵攻計画のためにル・アーヴルに停泊していた多くのはしけを破壊した[1]。 背景1759年夏までにショワズール公爵の侵攻計画は大西洋や英仏海峡沿岸にあるフランスの港(ブレスト、ル・アーヴル、ロシュフォール、トゥーロン)で着実と進められた。陸軍もダンケルク、サントメール、オーステンデ、リール、ヴァンヌで集結した[2]。ル・アーヴルがセーヌ河畔にあって部隊を移動しやすいため、ショワズールはそこをスービーズ公のイギリス侵攻の基地とした[2]。 イギリスはフランスが遠征軍の運輸のために多くの平底船をル・アーヴルで準備したという情報を得ていた[3]ので、対策を練っていた。 砲撃ロドニー海軍大将率いる小艦隊は7月2日にスピットヘッドを出港、ル・アーヴルへ向かった。この小艦隊は旗艦の60門艦アキレス、50門艦4隻、フリゲート5隻、スループ1隻、そして爆弾を積載したケッチ6隻であったが、6隻のケッチは到着してすぐオンフルールへの狭い川で錨を降ろした。次の日に砲撃がはじまり、3千発以上の砲弾が50時間以上にわたって、フランスの平底船や補給や町に向かって撃たれた[3]。ロドニーはフリゲート数隻とともに年末までル・アーヴル港近くにとどまり、数多くの戦利品を鹵獲した[4]。 フランスは砲撃で夥しい損害を出した[1]が、フランス軍は砲台や塹壕に隠れてイギリスに反撃した。町には火の手があがり、住民が逃げ惑う中に燃え上がった[3]。 その後しかし、この勝利でイギリスの指導部は安全を錯覚した。フランスは確かに大損害を被ったが、(計画の縮小を余儀なくされながらも)まだまだ侵攻する余力があった[5]。1759年夏、フランスのトゥーロン艦隊はジブラルタル海峡から出港したが、8月のラゴスの海戦で拿捕された。11月、フランスのブレスト艦隊はキブロン湾の海戦で大敗、この3つの敗北でフランスの侵攻計画はようやく放棄された[4]。 この勝利は1759年の奇跡の年の一部となった。 脚注
参考文献
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