万国公法万国公法(ばんこくこうほう、旧字体:萬國公󠄁法)は、19世紀後半から20世紀前半にかけて近代国際法を普及させたという点で、東アジア各国に多大な影響を与えた国際法解説書の翻訳名であり、同時に“International Law” の現在の訳語「国際法」以前に使用されていた旧訳語でもある。以下では最初に翻訳命名されたウィリアム・マーティンの『万国公法』とその重訳本[注釈 1]を中心に記述し、この本がもたらした西欧起源の国際法がアジア諸国にどのように受容されていったかについても触れる。
概要「万国公法」とは、国際法学者ヘンリー・ホイートンの代表的な著作 Elements of International Law が漢語訳されたときのタイトル名。またこの訳は、この書が世に広く知られるようになるとともに、“International Law” の訳語としても定着していき、Elements of International Law 以外の国際法解説書を翻訳する際においても「万国公法」ということばがタイトルに使われるようになった。翻訳者は当時中国で布教していたアメリカ人プロテスタント宣教師ウィリアム・マーティンで、その訳書は東アジアに本格的に国際法を紹介した最初の書物である。国際法の何たるかを東アジア諸国に伝え、各地域の国内政治改革や外交に大きな影響を与えた。特に日本では、最初に刊行された清朝よりも大きく素早い反応を生みだし、幕末明治維新に及ぼした影響は無視できないものがあった。 時代背景華夷秩序→「中華思想」も参照
前近代における東アジア国際社会は、政治的・経済的・文化的に大きな存在感を放つ中国王朝を中心とする形で国際秩序が成り立っており、日本や朝鮮、ベトナム、琉球といった中国の周辺諸国は、その中国から様々なスタンスを取ることで安定的な国際秩序を形成維持してきた。中国王朝に対しどのようなスタンスを取るかという点で、(中国王朝から見て)周辺諸国はいくつかの国際関係の種類、たとえば冊封や朝貢、互市に分類される。これまでの諸研究では、このような様々な国際関係を束ねたものを朝貢―冊封体制、あるいは朝貢システム、互市体制、華夷秩序と表現することが多い(対象とする時代や研究者によって異なる)。ここでは便宜的に華夷秩序と呼ぶ[注釈 2]。 中国王朝から見た華夷秩序は、中華思想に基づく世界観を現実に投影したもので、中国を「華」(文明)と自認し、中国という同心円的ヒエラルキーの中心から離れるに従い「華」から離れ「夷狄」(野蛮)に近づいていくと考える国際秩序である。このヒエラルキーが特異なのは、中国王朝が直接支配する領域とそれ以外の地域とが国境のような確固たる分断線によって区切られず、連続したものとして捉えられている点である。具体的には、
という大きく分けて三つのカテゴリーがあり、前者から後者に行くに従い、漸次中国皇帝の徳が及ばなくなり、同時に中国の支配力も低下していくという観念で支えられている。したがって版図外といっても、その地は中国の支配(あるいは中国皇帝の徳)がなかなか及ばないだけで、本来中国皇帝に支配されるべき地であるという意識は捨てられていない[注釈 3]。 そしてこの版図外にある諸国は、中国王朝になびく国家とそうでない国家に大別される。まず中国に使節を送り、臣従する諸国。これらには「冊封」(国王承認)や「朝貢」(貢ぎ物と引替えに賞賜が与えられ、さらに交易することができる)という政治的・経済的見返りを与えた。それを目的に中国を訪れた冊封あるいは朝貢使節の存在は、中国皇帝の徳が遠くの「夷狄」に及んだ証左とされた。中国とこれらの諸国とは、「宗主国」(Sovereign State) と「藩属国(あるいは「属国」「付庸国」)」(Tributary State) という上下関係を基調とする国際関係を結んだことになる。ただ「宗主国」と「藩属国」との関係は、近代における「宗主国」と「従属国」(Subject State) のような関係とは大きく異なり、内政外交全般に中国の支配が及んでいたわけではなく、たとえば中国は、「藩属国」どうし、あるいは「藩属国」と中国王朝に臣従しない諸国との関係について特に関知しない。そのため排他的な主従関係は希薄であり、ある国が中国以外の国へも朝貢する「二重朝貢」といった例も見られた[注釈 4]。 前王朝の明代において、「冊封」や「朝貢」は諸外国との関係の中で大きな比重を占めていたが、このような制度自体は、清代まで大きく変化することなく存続した。しかし続く清朝においても「冊封」や「朝貢」が、明朝の対外関係で同じ比重を占めていたわけではなかった。清代では、明朝の時以上に欧米諸国が中国を訪れるようになり、「冊封」や「朝貢」よりも政治的意味合いが希薄化した交易が増加の一途を辿ったのである。この交易関係を「互市」という。 そしてこれまで述べてきたような「冊封」や「朝貢」、「互市」によって中国と関係を持つ国々をそれぞれ「冊封国」・「朝貢国」・「互市国」という。 以上の説明は歴代中国王朝が構想した華夷秩序であるが、日本や朝鮮、琉球、ベトナム等の周辺諸国もその華夷秩序及びその根拠となった中華思想を選択的に受容、あるいは共有し、華夷秩序の一翼を担っていた。ただどの程度受容するかについては、中国と周辺諸国との力関係(地政学的な影響)から一元的ではなく、地域により濃淡がある。たとえば中国ではなく自国を中心(「華」)だと自認する「小中華思想」をもった国家が複数あり、中国の華夷秩序が一元的に東アジア国際秩序を貫いていたわけではなかった[注釈 5]。しかしそれらが思い描く国際秩序も構造そのものは華夷秩序に借りた相似構造をもっており、その各国の小華夷秩序が、中国王朝の華夷秩序と折り合いをつけながら併存している状態であった。いうなれば諸国ごとの小華夷秩序の束が、互いに重なりながら存立する状態こそが、前近代の東アジア世界の国際秩序、すなわち総体として華夷秩序とよぶものであった。したがって、どの国・どの地域にも貫通する一元的な国際秩序を見出すことは困難といわねばならない。 国や地域によって均質・一様でない華夷秩序(の束)に、最終的には取って代わったのが西欧起源の条約体制であった。 条約体制華夷秩序では、国際関係を中華思想に基づく「礼制」によって律してきた。しかし欧米諸国は、「礼制」に変えて近代国際法に基づく条約によって国際関係を律する国際秩序を東アジアにもたらした。このことからこの国際秩序を条約体制と呼ぶ。また欧米によって強制された条約が不平等条約だったことから「不平等条約体制」と呼ぶこともある。 近代的国際秩序の起源はヴェストファーレン条約(1648年)に始まるとされ、その国際関係を律する秩序原理として近代的国際法は発達してきた。そして国際法を担う主体は主権国家とされた(近代的な主権国家については後述「4.4.1 『万国公法』がもたらした外交概念」を参照のこと)。上記華夷秩序との最も大きな相違点は、主権国家間の法的平等原則の存在である。華夷秩序では、自国と周辺諸国を文化面では「華/夷」という等級で順序付けし、政治面では君臣関係(宗主国―藩属国)として捉えており、中国王朝と周辺諸国が平等であることは原則的にありえない(ただし、実際には金と宋や匈奴と漢のような場合もある)。一方で条約体制では、国家・国力の大小に関係なく、主権を持つ国家は法的には平等・対等であるとされる。 しかしこの近代国際法の「万国平等」という理念は単なる理念に留まり、現実には万国に普遍的に適用されるようなものではなく、それは本来キリスト教諸国間だけに通用する「キリスト教国国際法」(“International law of Chirstendom”)ともいうべきものであった。 近代国際法は、崇高な正義と普遍性とを理念としているが、他方、非欧米諸国に対しては非常に過酷で、欧米の植民地政策を正当化する作用を持っていた。この国際法は適用するか否かについて「文明国」か否かを基準としているが、この「文明国」とは欧米の自己表象であって、いうなれば欧米文明にどの程度近いのかということが「文明国」の目安となっており、この目安によって世界は3つにカテゴライズされる。まず欧米を「文明国」、オスマン帝国や中国、日本等を「半文明国」(「野蛮国」)、アフリカ諸国等を「未開国」とした。「半文明国」に分類されると、主権の存在は認められるものの、その国家主権には制限が設けられる。具体的には不平等条約を砲艦外交(軍艦や大砲といった軍事力を背景に行われる恫喝的な外交交渉)によって強制された。さらに「未開国」と認定されると、その国家主権などは一切認められず、その地域は有力な支配統治が布かれていない「無主の地」と判定される。近代国際法は「先占の原則」(早期発見国が領有権を有する原理)を特徴の一つとして持っていたので、「未開国」は自動的に「無主の地」とされ、そこに植民地を自由に設定できるということになる(小林2002)。 以上に見るように、近代国際法はその適用を「文明国」とそれ以外によって使い分ける二つの顔を持っており、これを「近代国際法の二重原理」と呼ぶ研究者もいる(高村1998)。この近代国際法は、19世紀に入ると掲げられた理念とは裏腹な砲艦外交によって中近東、アフリカ、東アジア等世界全体に適用範囲を広げていった。 東アジアにおいて、この条約体制のはしりはアヘン戦争の後に締結された南京条約である。中国最後の王朝であった清朝とイギリスの間に結ばれた条約は、近代国際法に基づいた不平等条約であった。この条約の締結後、これをモデルとした条約を清朝は各国と締結していき、『万国公法』が翻訳刊行された当時、すでに20数カ国と条約が交わされていた。ただ条約の締結と、意識レベルで国際法の理念に遵うつもりがあったかどうかは別である。トルコでも中国でも不平等条約は当初、西欧諸国に与えた恩寵というとらえ方をし、自国の不利益性を意識していなかった。このような国際法への認識を改め、率先して条約体制に参加するよう促す一助となったのが、『万国公法』という一冊の国際法解説書であった。 原書 Elements of International Law原著者ヘンリー・ホイートン『万国公法』の原著は、ヘンリー・ホイートン の『国際法原理』(原題:Elements of International Law, 1836)である[注釈 6]。ホイートンは アメリカ国際法学草創期を代表する法律家・外交官である。彼は弁護士からスタートし、ニューヨーク海事裁判所判事、連邦最高裁レポーターを歴任した。また法律キャリアを重ねる一方で、アメリカの駐コペンハーゲン代理公使、駐プロシア代理公使(後に特命全権公使)に任命され、外交官としても活躍している(松隈1992)。法曹界に身を置きながら、外交官でもあった経験が結実したのが、『国際法原理』であった。なお明治期の日本や片仮名のない中国ではホイートンを「恵頓」(拼音:Huìdùn)と表記した。 性格『国際法原理』は、刊行当時グロチウスの『戦争と平和の法』に次ぐほどの権威と名声を博していた国際法解説書である。この書の初版は1836年に刊行されたが、アメリカ・イギリスといった英語圏のみならず他のヨーロッパ言語圏でも非常な好評をもって迎えられ、フランス語版・ドイツ語版をはじめとして各国の言語に相次いで翻訳された。 特徴としては、この書が自然法及び実定法双方に立脚して書かれているという点がある。詳しくは自然法と実定法の記事に譲るが、自然法とは法の淵源(法律の拠って立つ根拠、すなわち法源)を人為的に定められたものに求めず、人の理性によって発見される、時代や地域を超越した普遍性(と思われるもの)と正義に由来すると考える法概念である。他方実定法とは立法機関のような人為的な存在によって作り出されてきた法律で、形而上的な普遍性を法源として採用せず、法とは一定の地域・時代の中でのみ有効であることを自覚する性質を持つもので、具体的には蓄積されてきた判例や慣習法、制定法を指す。 以上をふまえて簡単に近代国際法の潮流に触れると、グロチウスは自然法思想に重きを置いて国際法の基礎を構築したが、その後の国際法学は実定法をより重視する傾向が増し、E.ヴァッテル (Emmerich de Vattel) は、自然法と実定法双方に軸足をおいた学説を唱えた。ホイートンも自然法・実定法折衷の立場を取る。しかしホイートンが活躍した時代は自然法から実定法へという流れがさらに加速しつつある時期にあたり、自著『国際法原理』を改訂するにあたって実定法的立場へと徐々に重心を移し、特に第三版改訂の際は、実定法についての言及が大半を占めた。ただ完全に自然法的側面を放棄することはなかった(松隈1992)。 この『国際法原理』は「国際法の法源と主体」、「国家の基本権」、「平時における国家の権利」、「戦時における国家の権利」という4章から成っており、近代国際法の基本的事項をほとんど全て押さえている。その内容は、『万国公法』と重複するので後述する。 漢語訳『万国公法』―中国における受容―翻訳の経緯アヘン戦争・アロー戦争後に締結された不平等条約によってすでに多くの実利を得た列強にとって、清朝が国際法を学ぶことは無論望ましいことであった。清朝が国際法を学び遵守するのであれば、再度大規模な砲艦外交に頼らずに交渉のスムーズ化と安定化を図れると考えたためである。このため『万国公法』を紹介しようとする動きは、まず欧米側から起こった。当時の総税務司として上海にいたロバート・ハート(Robert Hart、中国名:羅伯特•赫徳)は Elements of International Law の一部を翻訳し清朝に提供している。 一方でアロー戦争後まで中国は中華思想に基づいた唯我独尊的外交姿勢を守り続け、国際法や条約といった近代的国際関係に不可欠な概念を積極的に取り込もうとはしなかった。しかしアロー戦争の結果締結された天津条約や北京条約によって、清朝は少なくとも外交制度上は西欧諸国を自国と対等な存在として認めざるを得なくなる。具体的には、それまで清朝は諸外国を中華思想的価値観から「夷狄」とみなしていたが、清朝の公文書に西欧諸国を指して「夷」と表記することを禁じ、同時に総理衙門という近代的国際関係を担う外交機関を設けた。 このような清朝の外交方針の大転換は、アロー戦争後の清朝の政局を主導した恭親王奕訢や文祥たちによって進められた。彼らは講和交渉を担った満洲族系の大官であり、講和後新設された総理衙門の中枢に陣取り、外交および近代化政策を取り仕切った。恭親王たちは元々対外戦争に反対し、現実路線の外交を展開しようとした穏健派である。また同時期太平天国の乱を鎮圧した曽国藩や李鴻章ら地方の大官も西欧の先進技術を学ぶ重要性を認識し、軍事・産業方面の近代化を推し進めていた。これを洋務運動という。すなわち1860年代以降の清朝は、西欧の諸知識・技術を摂取しようという機運が高まっており、国際法への関心もその延長線上にあるものであった。清朝側が外交交渉を西欧列強のスタイルに合わせるのであれば、彼らの価値観・行動原理を知らねばならない。そこで求められたのが国際法の解説書であった[注釈 7]。ただこの国際法受容は、はじめは近代国際法の理念に共鳴して率先してそれに参加しようとしたものではなかった。というのも西欧列強との交渉においては、清朝がいくら「天朝の定制」(中華思想的慣例)を持ち出しても議論が噛み合わず、列強側の要求を拒絶することはできなかったため、列強間で通用している国際法を逆手に取ることで外交交渉を有利に運ぼうという意図からなされたもので、多分に理念よりも道具、華夷秩序を保持するためのツール、としての受容というニュアンスが強かった。そのためこのような国際法受容を「夷の長技を師とし以て夷を制す」(夷狄の得意技を学び、それにより逆に夷狄を制覇する。魏源著『海国図志』の一節)の外交バージョンと評することもある。 ウィリアム・マーティンと翻訳→詳細は「ウィリアム・アレキサンダー・パーソンズ・マーティン」を参照
翻訳に着手したのは、アメリカ人宣教師ウィリアム・マーティン(W.A.P.Martin、中国名:丁韙良)であった。マーティンは1850年に来華して以来中国に留まり、天津条約の起草や北京同文館や京師大学堂での西欧学問教授、キリスト教伝道など多方面にわたり活動した人物である。特に教育及び翻訳によって近代中国に多大な影響を与えたことで知られ、『万国公法』の訳出はその代表的な事績といえる。 マーティンが漢語訳『万国公法』に着手したのは、在清アメリカ公使ジョン.E.ウォード(John Elliott Ward、中国名:華若翰)やアンソン・バーリンゲーム(Anson Burlingame、中国名:蒲安臣)、ロバート・ハートの強い薦めがあったためである。マーティン自身は長年中国に留まっていたため、漢語の読み書きにも不自由はなかった。翻訳は1862年上海滞在期に着手された。翌年、ある程度訳出できた時点で、天津に赴いて清朝の有力官僚の一人崇厚に提出し、その後総理衙門の公認を得て出版する運びとなった。刊行年については、研究者によって違いが見られ、1864年11月とする説(熊1994、佐藤1996、田2001)と翌年1月とする説(坂野1973)がある。 『万国公法』の翻訳は、幾人かの中国人の協力があってはじめて可能であった。まず崇厚に提出した未完稿には何師孟・李大文・張煒・曹景栄ら4人が参加して訳文を練り上げたが、それは「文義が非常に不明瞭である」と評される代物でそのまま刊行するには難があった。総理衙門の公認を得てからは総理衙門章京の地位にあった陳欽・李常華・方濬師・毛鴻図らが協力して校訂に臨み半年がかりで翻訳を完成させている[注釈 8]。元々中国と西欧とでは法に対する観念が全く異なる上に、国際関係についての考え方も大きく違っているため、その作業には大きな困難を伴った。 困難にぶつかりながらもマーティンが訳業を放棄しなかったのは、単なる名誉欲だけではない、彼なりの強い信念があったためである。すなわち宣教師であった彼にとって、『万国公法』の訳出は広い意味でキリスト教伝道活動の一部であった。マーティンは国際法について「諸国間に行われ、一国が私することができない」(『万国公法』凡例)と述べ、欧米各国間に存在するこの公的なルールこそキリスト教文明が生み出した最良の成果の一つと捉えていた。その国際法を(『万国公法』の訳出を介して)中国に普及することで、西欧を夷狄視する中華思想的思いこみを徐々に是正していこうと考えたのである。そしてそのことは後々キリスト教の伝道にプラスになるとの展望をもっていた。このような宗教的使命感こそが翻訳動機の核であったといえる(張嘉寧1991、佐藤1996)[注釈 9]。 マーティンは『万国公法』刊行後、1865年に設立された同文館という外交における通訳者養成を目的とする公立語学校の英語・国際法・政治学の教師の職に就き、後日校長に昇進している。彼はこの同文館の英語表記を“International Law and Language School”とすることが多かったが、このことから同文館を単なる通訳養成機関とは見ておらず、国際法普及の拠点と見なしていたことがわかる(佐藤1996)。実際、この同文館では『万国公法』に続き『星軺指掌』・『公法便覧』・『公法会通』といった国際法の翻訳が行われ刊行されていった。これらはアジアの諸地域に国際法の何たるかを伝え、近代国家の礎を築く契機のひとつとなった。 内容構成『万国公法』は、全4巻12章231節から成り、北京崇実館から刊行された。300部刷られ、総督・巡撫をはじめとする各地の官僚に配布された。構成は以下の通りとなっている。()内は加筆者の訳。
『万国公法』で扱われる内容は、国際法の主体及び客体、法の淵源、国際法と各国内の法との関係、条約・外交と領事の関係、主権の及ぶ範囲としての領土や領海の説明、国際紛争が発生した際のルール及び和平交渉のルール、戦時における第三国の中立のあり方など多岐にわたり、国際法をまさに体系的に解説したものといって良い。 また国際法の具体的事例を示すために、欧米各国の政治制度や歴史をしばしば引用しており、当時渇望されていた欧米事情の供給源ともなった。 翻訳について原著と翻訳を比較する際、まず注意を払わねばならないのは、原著の第何版を底本としたのかという点である。簡単に原著『国際法原理』 (Elements of International Law) の版本について触れると、『国際法原理』初版と第二版は、同じ1836年にロンドンとフィラデルフィアで刊行された。違いは前者が2巻に分けられているのに対し、後者は1巻本として出版されたことであり、それ以外に内容などには全て異同がない。これに判例などの事例を増補したのが第三版(1846年)である。さらにフランスのパリで刊行されたものが第四版(1848年)、ドイツ語版が第五版(1852年)にあたる。著者ホイートンが直接手を加えたものは第四版までであり、それ以後は友人であったW.B.ローレンスが改訂を引き継ぎ、これが1855年に出た第六版である。これをローレンス版ともいう。その後ローレンスは1864年に第七版を出したが、ホイートンの遺族とローレンスの間に齟齬が生じ、改訂は以後R.H.ダナに委ねられた。それが1866年に出た第八版(ダナ版)となる。漢語訳『万国公法』が参照しえた版は刊行の時期からいって第七版までであるが、当時の交通事情を勘案すると第七版がアジアにもたらされたのは刊行年より非常に遅く、実際には参照が難しかったと考えられている。ダナ版は、『万国公法』が刊行された後に出版されていることは確実であることから、『万国公法』の底本は第六版までのどれかということになる。なお、第六版は外部リンクより原文を見ることができる。 何を底本にしたかという点について、『万国公法』にはその記載はなく正確には不明である。しかし訳出時期や段落構成、見出し、文章から勘案して第六版(1855年刊)を底本としたとする説が有力である[注釈 10][6]。 以下、翻訳の主要な特徴を列挙する。
受容『万国公法』がもたらした外交概念中国や周辺諸国は、それまでなかった外交概念を『万国公法』から学んだ。現在日本や中国などのアジア諸国において用いられている外交概念は、この翻訳書とともにもたらされたものである。そして以下に挙げる外交概念は単なる書物に書かれた知識というだけでなく、近代国際法が認める「文明国」かどうかを見定める具体的な要件・目安ともなっており、その外交概念を共有しない国家は近代国際法が適用されない、もしくは制限を受けるものと解された。
移入した政治思想『万国公法』の翻訳がもたらしたものは外交概念に留まらない。それに付随して、多くの思想がアジア諸国の人々に知られるようになった。
この他、『万国公法』は原著にない世界地図を本冒頭に挟み、中国が世界の一部、万国の一国であることを示した。 「万国公法」の広範な普及『万国公法』を含む近代国際法は、官僚・知識人に知られてはいたものの、中国においてその意義を積極的に認める者はすぐには多数派とならなかった。後述する日本とは異なり、その浸透は緩やかだったと言える。ただし外交官として海外に派遣される官僚が増加してくると、そうした人々の間では『万国公法』への関心が高まっていった。その需要を見越して『万国公法』は再版されており、上海申昌石印本(1898年)や海賊版など幾つかの刊本が出回っている。やがてそれは当時新たにつくられ始めた洋学(欧米学問)を教授する学校の法律用教科書として採用されるようになっていった(田2001)。 「万国公法」がさらに広く受容・認知されるようになったのは、日清戦争後である(林1995)。戦後における明治日本への関心の高まりと、それに比例して起こった日本への留学ブームによって、近代国際法の受容と富国強兵の間には密接な関係があることが大陸へと伝えられていった。留学生たちは、自らが日本の大学で新知識の吸収に努めたばかりでなく、雑誌を自ら立ち上げてそこに翻訳を掲載したり、書物にまとめて刊行したりした。それらは大陸にももたらされ、政治や思想方面に大きな影響を与えるに至ったのである。 この時期、日本より大陸にもたらされた翻訳書は法律方面に限らず多数に上るため、新知識を求める人々の便となるように幾つか書籍目録が作成された。たとえば教育学について中国訳されている本を探す場合、このような目録を紐解いて書名を調べたのである。当時の代表的な目録は『日本書目志』(1898年)、『増版東西学書録』(1902年)や『訳書経眼録』(1934年)などであるが、その中に書名がみえる国際法関連の書物は多数ある。うちいくつかを以下に挙げるが、その数の多さから日本における翻訳書が清末の人々の近代国際法受容に一役買っていたことがわかる。
さらに近代国際法の受容が進んだことで、単なる翻訳でなく『万国公法』に中国人自らが注釈を施した著作も刊行されるようになった。曹廷杰注の『万国公法釋義』(1901)がその代表例である。曹廷杰は、義和団の乱後のロシアによる東北三省進駐に遭遇した人で、『万国公法釋義』は国際法によって国防を図ろうとして『万国公法』に注釈を加えたものである。 清末外交における『万国公法』 ―活用事例―ここまで清朝が近代国際法をどのように受容したかについて述べてきたが、清朝はただそれを受動的に受け入れてきたのではない。そもそもは後述するように、西欧列強を説き伏せる道具として『万国公法』を受容したのであり、その道具としての活用そのものは、早期からなされている。以下は活用事例の一部である。
「万国公法」と社会進化論中国での『万国公法』の受容は、その当初こそ前述したように儒教的道徳を媒介とした自然法的理解からなされたが、帝国主義が大手を振ってまかり通る世界情勢とのギャップが次第に認識されるようになっていった。そうした受容姿勢の変化に大きく寄与したのが、同じく欧米からもたらされた新思想、社会進化論であった。厳復が『天演論』(1898年刊)というタイトルで翻訳紹介したこの思想は、瞬く間に世紀末の中国を席巻し、「弱肉強食」「適者生存」「優勝劣敗」ということばが流行語となった。 儒教的・自然法的な『万国公法』理解は、その公的・道徳的性格は天(自然)に由来するものだと受け止められていたが、「社会進化論」においてはその同じ天が各国間の競争を促し切磋琢磨することで進化させるのだと説いた。そこでは弱者保護や平等といった観念は払拭されており、天の役割が大きく転換されている。すなわち強国が弱小国を併呑していく当時の世界情勢(帝国主義時代)は、自然の摂理であると受け取られ、『万国公法』の説く「万国並立」「万国対峙」という理念は建前に過ぎないといったシニカルな受容をもたらした。 以後、西欧と同じ「文明国」(=富強国)とならなければ、不平等条約を解消し、「万国公法」の恩典には与れないという考えが広がっていき、西欧列強をモデルとした富国強兵改革が推進される思想的要因となった。 影響並存相剋から華夷秩序消滅へ南京条約の締結によって中国に条約体制がもたらされたが、正確にはそれにより冊封や朝貢といった華夷秩序が一度に崩壊したわけではなく、しばらくの間華夷秩序と条約体制は相剋しつつも並存することとなった。欧米諸国とは条約を基礎とした関係(外交を担う役所総理衙門の設置や公使の相互派遣)を結ぶ一方で、清朝は朝鮮やベトナム、琉球といった周辺のアジア諸国とは旧来の華夷秩序を温存し、それを恒久的に維持しようとした。 しかし中国に対し冊封・朝貢を行っていた周辺諸国も、次第に欧米列強の植民地へと変えられていき、また清朝自身もロシアの伊犁地方占領や清仏戦争、日本の台湾出兵、日清戦争などアヘン戦争以降の度重なる列強からの外圧にさらされた。下関条約(1895年)によって、最後の朝貢国朝鮮が華夷秩序から離脱したことにより、中国を中心として機能していた華夷秩序は消滅した。 中華思想の変容(世界観の変容)華夷秩序の崩壊は、その思想的根拠たる中華思想にも変容を迫った。 中国での『万国公法』の受容速度は、非常に緩慢であった。その理由としては、まず西欧列強に都合の良い運用(外圧正当化)がされたことによって、『万国公法』への根強い不信感が中国側に植え付けられ、その心理的抵抗からスムーズな受容がなされなかったという点が挙げられる。 次に『万国公法』翻訳の動機にも原因の一端がある。当初中国側の意識では、『万国公法』の翻訳によって中国がただちに国際法制約下に入ることを意味するものではなかった。中国側の認識では条約体制は、それまであった朝貢や互市といった華夷秩序の一部が変形したものとしか考えておらず、国際法もほんの一部分の特例に過ぎないと捉えていた。たとえば『万国公法』の翻訳認可を上奏した恭親王奕訢は、西欧列強側の外交要求を論破する根拠として『万国公法』を求めていたにすぎない。上奏文には以下のような箇所がある。
不平等条約における片務的最恵国待遇についても、当初は不平等であるという意識すらなく、「一視同仁」(中国はそれ以外の夷狄を平等に扱う)という儒教的観点から中華が夷狄に与える恩恵と考えていた。また、領事裁判権も「華夷分治」(中国とそれ以外の夷狄に対して別の法制を適用する)という観点から、唐や宋がアラビア商人の居留民に対して彼らの法(イスラム法)に基づく司法権を認めた先例と同じように各条約港における夷狄との紛争を避けるための手段として歓迎する意見すらあった。中国側の抱く中華思想的な国家概念には国家主権に相当するものが存在せず、代わりに王朝(体制)の永続性に重きが置かれていた。従って、不平等条約によってもたらされる国家主権の喪失や侵害が、王朝の存続に重大な支障を与えない限りは中国側にとっては許容範囲とされていたのである。 このように中華思想的な発想がすぐさま清朝首脳部から一掃されたわけではなく、むしろ中国を特別な存在として国際法の適用外であることを当然としていた。『万国公法』の翻訳を共に求めながら恭親王奕訢と訳者マーティンの思惑は、ひたすらすれ違っていたといえる。 しかしアロー戦争の後、欧米人たちが中国国内に植民地や租界を設け、貿易や布教のために内地へ進出するようになると様々な問題が持ち上がるようになった。たとえば教案というキリスト教が原因で発生する事件が、各地で頻発して中国側の地方官を苦悩させるようになり、それは海岸線から遠く離れた任地の地方官といえど例外ではなかった。チベット方面から訪れる欧米人もいたためである。このようなトラブルでは、常に国際法や条約を楯に有利に事を運ぼうとする列強との交渉に、中国官僚は神経を尖らせる必要があった。このような行政上の苦悩が『万国公法』受容の下地となっていった。 また徐々に南京条約をはじめとする諸条約は天朝が夷狄に与える恩寵であるというよりも、むしろ不平等条約であるということも意識されるようになり、その改正が外交目標となっていった。中国が国際法圏外であることは非常に不利であるという認識が一部の改革派官僚や知識人の間に見られるようになる。国際法圏外であると自認することは、教案解決や条約改正のテーブルにつくことを自ら阻害した。外交官として活躍した薛福成は、『万国公法』を全国の地方官に広く配布することを提言し、「中国の公法の外に在るの害を論ず」という論説を発表している。 中国を国際法下に位置づけようとする外交的努力は、やがて西欧諸国の中に夷狄とは異なる「文明」的な要素を見出させた。それまで西欧列強が中華思想的に見て夷狄と断定されていたのは、礼や徳よりも力や利を追求することに重きをおき、無秩序に争いをしかけるというイメージが先験的にあったためである。しかし『万国公法』を読むことによって、あるいは駐在公使として直接海外に赴く人が増えたことで、西欧諸国間にも徳に基づくルールが存在するのだという認識が徐々に広まっていった。すなわち「万国公法」の「公」とは、諸国家よりも上位にある、公平かつ公正な徳であって、まさにそれ故に普遍的なルールとして受け取られたのである(茂木2000)。そうした国際法を肯定的に捉える受容は、洋務運動時期にはまだ少数であったが、それは中国を唯我独尊的な存在と自認する中華思想とそれに基づく華夷秩序が動揺し、変化させられていく契機の一つだったといえる[注釈 12]。『万国公法』の存在は中国を中華思想的観念から脱し、万国の中の一国であるという認識へと向かわせるのに大きな役割を果たした。 日本 ―周辺諸国への伝播 1―『万国公法』の受容『万国公法』伝来マーティンの漢語訳『万国公法』は中国で刊行後すぐ幕末の日本にもたらされ、以後大きな影響を日本史に与えている。伝来したと思われる1865年・1866年の両年に限っても、幕末・明治維新に活躍した幾人もの著名人が『万国公法』の輸入に素早い反応を示した。たとえば安井息軒門下の米沢藩士雲井龍雄が横浜で購入し、勝海舟が松平春嶽に貸し出している。また海舟の弟子坂本龍馬は『万国公法』翻刻を計画している[注釈 13]。仮に『万国公法』の中国での刊行が1865年1月だとすると、一年を経ずして日本に伝わり憂国の志士たちに読まれていたことになる。そして需要の拡大により中国からの輸入だけでは需要をまかなうことができなかったため、すぐに『万国公法』の「海賊版」が日本で作られるようになった。 その日本での最初の翻刻は江戸幕府の洋学教育機関であり研究機関であった開成所でなされている[注釈 14]。つづいて漢語を日本語に重訳した堤殻士志(つつみこく しし)訳の『万国公法訳義』や重野安繹訳の『和訳万国公法』が刊行された。またホイートン原著から直接訳した瓜生三寅訳『交道起源 一名万国公法全書』も出た。幕末から明治初期にかけて、「万国公法」ということばをタイトルに持つ著作は上記以外にもいくつか刊行されたことから、その影響のほどがうかがえる[注釈 15]。 日本において『万国公法』の影響は、このように素早くしかも大きなものであった。この点につき穂積陳重は「識者は争うて此書を読むが如き有様であった」(『法窓夜話』)と記し、あたかも経典のような権威をもって『万国公法』が読まれたと述べている。 自然法的理解の強調しかしこの経典の如き扱いにもかかわらず、日本における国際法の理解が急速に進んだかといわれれば疑問とせざるを得ない。『万国公法』の日本における受容は、中国のそれ以上に自然法的性格が強調された理解が一般に通行した。一例を挙げるとさきに挙げた『万国公法訳義』は「(万国)公法は恕の道一筋のみ」と「公法」を定義する。この「恕」とは『論語』里仁編に登場することばであり、他者に対し自分のことのごとく思いやることを意味し、儒教倫理における基本概念である。すなわちこの一文は他国を自国の如く思いやることを説いていることになり、ルールとしての法が道徳倫理的に理解受容されたことを意味しているのである。 新漢語『万国公法』は多くの新漢語を日本にもたらした。知識人のみならず、下で触れるように教育分野でも教科書として採用されたため、新語の定着を促したと思われる[注釈 16]。 『万国公法』に由来すると思われる新漢語は多数ある。この場合の由来とは、必ずしもマーティンたちが新造したことに限定するものではなく、中国古典等に使用されていた熟語を法律用語に転用し、表記は同じでも意味が変容されているものも含んでいる。たとえば「公法」ということばは『韓非子』有度篇にも確認されるが、“International Law”という国際法の意味で使用したのは『万国公法』に始まる。現在まで使用されているものの代表例には以下のような熟語がある(松井1985)。
明治初期の法律用語の翻訳は、津田真道・加藤弘之・箕作麟祥・西周の四人によって進められたが、彼らが参照したのが『万国公法』であった。彼らは当時明六社の同人であり、社会に大きな影響力をもっていた。そして彼らが訳語を自らの著作の中で積極的に使用することで『万国公法』の新漢語定着に寄与したのである。 幕末・明治史における『万国公法』と国際法『万国公法』の伝播という事件は、西欧法思想に留まるものではなく、以下に見るように幕末・明治初期に大きな影響を与えている。 幕末日本最初の翻刻である開成所版『万国公法』は、西周が訓点を施したものである。その西周はオランダに留学して国際法を学び、1865年に帰国している。こののち幕府開成所教授の職に就いていたが、1867年に改革案として「議題草案」・「別紙 議題草案」を提出した。この後者において「万国公法」という字句が登場している[15]。これら改革案は徳川家中心の政体案であり、且つ三権分立を取り入れたもので、大政奉還後の展望を示したものである。ただ翌月には王政復古の大号令が発せられ、草案が日の目を見ることはついになかった。 また薩長が攘夷論から開国論へと対外政策を転換する契機ともなった。『万国公法』は、国際社会が遵守すべき法規として受け取られ、また理念として世界中の国家が平等である権利(「万国並立の権」・「諸国平行の権」)を有することを説いていた。このような万国公法の内容が広く知られるようになったことは、薩摩・長州ら維新政府側が、江戸幕府が締結した不平等条約を継承することへの弁明や攘夷論者の説得(=開国論の正当化)に根拠を与えた(吉野1927、尾佐竹1932、山室2001)。 なお、攘夷論を否定されるに至った国学者たちは『万国公法』をどのように受け入れたのか。大国隆正は「新真公法論」を著し、人間にも国家にも善悪本末があるのに全ての国家が平等であると言うのは道理に反する。正しい公法とは優れた国の君主を万国が仰ぐことで成り立つのであり、それこそが神代から続く日本の天皇であるとする。反面、「万国公法」は儒教的な華夷秩序を否定していることには評価して、世界が日本の天皇を理解するまでは当面「万国公法」に従うべきであるとする。八田知紀・竹尾正胤ら同時代の国学者(特に平田派)においても、日本の神々を世界の創造主として捉える立場から日本と天皇の優越を否定する「万国公法」を否定して日本と天皇を頂点とする新たな「公法」を創造したいとする意欲を示す一方で、開国および文明開化の流れに直面する中で中国中心の華夷秩序の否定のために「万国公法」の一時的追認を行う態度を示したのである(三ツ松、2016)。 明治新政府の布告への影響『万国公法』は、また一方で維新政府の国家体制設計に際し、大いに参照されている。 まず明治政府の基本方針として示された五箇条の御誓文に、『万国公法』の影響が認められる。五箇条の一つ「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」、及びその原案「旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし」に使われていることば「天地ノ公道」・「宇内の通義」は「万国公法」(国際法)の意味だとされる[注釈 18]。 また1868年にだされた政体書は、日本の国家体制を規定しようとした、いわば維新政府の青写真・計画書であるが、その構想とは太政官をトップに、議政官(立法)・行政官(行政)・刑法官(司法)を配置するもので、三権分立思想を取り入れている。この政体書第11条を書くに当たって参照されたのが『万国公法』第一巻第二章第二四節及び第二五節で、そこではアメリカ合衆国憲法やスイスの国会権限について部分的に訳され、紹介されている。政体書第11条は、アメリカを例にして連邦政府による連邦内の小政府の権限制約について解説した箇所であるが、これを政体書に取り入れることで中央集権の法理導入の根拠としようとしたものである[注釈 19]。というのも当時の江戸幕府倒壊直後の日本は諸藩割拠状態であって、諸藩をどのようにまとめ上げて統一国家とするかという点において、国家スタイルとして連邦制が妥当と考えられた。この時点では連邦型国家の中でも、ドイツ連邦のような分権型国家か、あるいはアメリカのようなより中央集権を強めた国家とするかという二つの選択肢が考えられていた。政体書起草者たちは同じ連邦国家でもより中央集権的なアメリカ型を選択し、その際『万国公法』を参照したのである。結果的にはその後の紆余曲折を経て廃藩置県により連邦国家アメリカ以上の中央集権国家となったが、政体書作成当初はそこまでの展望は開けていなかった。そういう時に『万国公法』は国家体制のプランを練る上で指針とされたのである[16]。 さらに民衆向けに掲げられた五榜の掲示(第4札)にも「万国の公法」という字句が登場し、外交は朝廷が担い、条約を遵守するので、庶民は外国人に不法なことをしないようにと命じている[注釈 20]。 教育方面幕末、『万国公法』は日本各地の藩校や郷校で教科書もしくは参考書として取り上げられた。この傾向は明治になっても変わらず、1872年(明治5年)の学制公布時にやはり採用されている。小学校では『万国公法』の一部を抜き出し「読み方」の授業の教材としている。大学においては国立大・私立大を問わず学ぶべき学科として位置づけられ、『万国公法』や他の国際法解説書によって近代国際法が学ばれた。 『万国公法』の活用事例幕末・明治初期において『万国公法』はよく新たな権威の源として参照・利用された。当時攘夷思想によって欧米人を襲撃する事件が多発し、神戸事件や堺事件、京都事件がその代表例であるが、これらの事件は「万国公法」の名の下に外国人を殺傷した日本人を極刑としている。『万国公法』では個別の事件については特に触れておらず、その名の下に裁かれること自体、実は非常におかしいことであるが、注目すべきなのはそうした無理を「万国公法」という名によって正当化できた点であって、当時における「万国公法」の威名がいかほどであったかがこれらの事例からうかがえる。 以下、「万国公法」の威名が影響した事件・事象を一部列挙する(安岡1998)。
これまで見たように「万国公法」は対外折衝において、依拠すべき根拠として利用されてきた。しかし明治日本の最終目標は、個別の外交案件において他国よりも優位に立つことで事足りるものではなく、条約体制に順応することで、かえって西欧「文明国」クラブ間だけに平等を限定するという暗黙の国際法ルールを打破し、それらと同等の権利を勝ち取ること、単純に言い換えると不平等条約を解消して日本を「文明国」に格上げすることであった。日本の幾度にもわたる条約改訂交渉はそのために為されたものであった。 主要刊本日本は中国における西欧学術書翻訳に対し、国際情報源として非常な注意を払っていたが、『万国公法』が中国で刊行後すぐ日本にもたらされたのもそのためである。『万国公法』は開成所で刊行された後も諸藩で訓読本や和訳本など、様々なバージョンが翻刻されていった。このような「万国公法」ということばを冠する著作の多さは、近代国際法受容の早さとそれが広範囲にわたったことの傍証といえる。主要なものは以下のとおりである。 マーティン版『万国公法』系統
非マーティン版系統ここでいう「非マーティン版」とは、ヘンリー・ホイートン本を原著とするものの、直接翻訳するなどして、マーティン本を経由していないものを指す。
非ホイートン系統非ホイートン系統とは、「万国公法」の名をタイトルに冠していても、ホイートン本を原著としない、別の国際法学者の著作を訳したものである。マーティン本の成功により、「万国公法」ということばが一般化し、書名にこのことばが採用されるに至った。
『万国公法』受容の変化『万国公法』(と近代国際法)は、当初こそ守るべき国際信義・自然法的規范として理解・受容がなされたが、次第に国際社会における弱肉強食を正当化するものだという認識が広がっていった[注釈 22]。これは、国際法が存在してなお、拡大し続ける植民地分割競争が激化する矛盾が背景にあった。 朝鮮 ―周辺諸国への伝播 2―『万国公法』の伝来朝鮮半島に『万国公法』がもたらされたのが史料上で明確に確認できるのは、1877年12月17日である(田保橋1940)。この日花房義質が『万国公法』と『星軺指掌』を朝鮮側に寄贈し、同時に国際法の説明をしている。当時日朝修好条規締結で解決できなかった両国公使の相互派遣・駐在について、日朝間の見解が衝突していた。東アジアにおける伝統的な華夷秩序、朝鮮では事大体制というが、に留まることを望む朝鮮側と条約に基づく国際関係を求める日本側では公使派遣をめぐっても対立していたのである。朝鮮側の姿勢を少しでも和らげようと花房が持ち出したのが『万国公法』であった。公使交換が西欧の条約体制下では常識であることを説明するためである。 ただ「万国公法」ということばは、1876年12月の時点で使用されており、韓国の研究者の間では花房によってもたらされる以前に、すでに伝来していたと推測する論者もいる(李1982、金容九1999、金鳳珍2001)。 朝鮮にもたらされた『万国公法』は、日本経由であれ、直接中国からであれ、それは中国で刊行されたときのまま漢文で表記されたものであった。朝鮮において知識人は、日本でもそうであるが、漢文の読み書きに堪能であって文章として理解する上で困難といえるものはなかったのである。 受容とその反応初期朝鮮における国際法の受容は中国同様ゆるやかであった。1910年になるまで朝鮮語に翻訳されたものは刊行されなかったが、日本がすぐ反応して多くの読者を獲得し、同時に翻刻・和訳・注釈と様々なバージョンが生み出されていったのとは好対照といえる。仮に韓国人研究者たちが考えるように『万国公法』が中国で公刊されてすぐ伝来したのだとすると、1877年までの間表面的には国際法に対応しようとする積極的な動きがなかったことになり、その対応の緩慢さは一層際だつことになる(金容九1999)。その背景にはいくつかの理由がある。まず西欧の事物への拒絶があった。しかし単にそれだけでなく朝鮮側の取った外交戦略も一因であった。朝鮮は、対西欧外交では宗主国清朝を前面に立てることで直接列強と対峙しないですむようなスタンスを可能な限り取り続ける外交戦略を選択した。直接対峙による国力消耗を避けるためである。また中国同様、朝鮮でも列強の砲艦外交とほぼ同時に「万国公法」がもたらされたため、それへの不信の念がなかなか払拭されず、受容の遅れにつながったためでもある。 そうした姿勢が徐々に受容の方向へと変化しはじめたのは、国際情勢が緊迫の度を増した為である。先述したように朝鮮ははじめ華夷秩序に留まることを選択したが、しかしその中心に位置する清朝自体が近代国際法に対応した動きをし始めるようになる。琉球・台湾・ベトナムなど朝貢国(あるいは「属邦」・「藩属国」ともいう)と言われる地域が華夷秩序から離脱したことにより、清朝は遅まきながら国際法への対応を開始し、朝鮮を近代国際法下における従属国に位置づけ直そうとし始めたのである(岡本2004、並びに2008)。 これは明治日本の外交攻勢が大きな要因となっている。1876年に日朝修好条規が締結され、朝鮮は条約体制に参加することとなった。ただ朝鮮側としては、それまでの日本との交隣関係を明文化したとの捉え方で、華夷秩序から条約体制に乗り換えたつもりはなかった。朝鮮最初の条約が不平等条約であったのは、日本側の砲艦外交の結果でもあるが、国際法や条約体制に関し、朝鮮側が関心を払っていなかったことも要因である。一方日本は第一条に「朝鮮国は自主の邦」と挿入し、朝鮮を清朝の影響から切り離し独立国として認知しようとした。これが刺激となって、朝鮮を華夷秩序内にとどめようとする清朝と、条約体制の中に引き込み、その上で自らの勢力下に置こうとする日本の間に確執が生じたのである。清朝は最後の朝貢国朝鮮を失うことのないよう次第に朝鮮の内政外交に積極的に介入するようになった。当初、李鴻章が書簡を送った朝鮮政界の大物李裕元は頑なにその国際法受容を拒んでいる。しかし条約締結後に実施された日本への数度の視察団派遣、特に二回目に派遣された金弘集は、東京において何如璋・張斯桂・黄遵憲ら駐日清国公使たちと面会し、開国と西欧各国との条約締結、貿易を勧められ、大いにその影響を受けた。なお張斯桂は『万国公法』の序文の一つを書いた人物である。金弘集は何如璋らの説得に心を動かされ、その意向を朝鮮へ帰国した後に高宗や官僚たちに伝えた。同時に『万国公法』を含む西欧について書かれた著作(西学書)への関心が徐々に高まっていき、開化派と呼ばれる開明的な一派も形成されていった。 さらに清朝が朝鮮とアメリカとの条約締結を仲介・斡旋した結果、米朝修好通商条約が1882年に批准された。これは朝鮮が日本やロシアによって侵略されそうな場合、アメリカなどの介入を期待すると同時に、朝鮮が清朝の属国であること(宗属関係の確認)を条約によって明確化させる目的で為された。ただ後者はアメリカの拒否にあい、条約そのものではなく照会文で言及されることになった。 『万国公法』の影響が見られるのは、駐日清国公使と金弘集の会談においてである。何如璋らはアメリカと条約を締結することを、近代外交で主流だった「勢力均衡」 (Balance of Power) の側面から説得したが、その出所は『万国公法』第一巻の「均勢の法」に拠るとされる(徐2001)[21]。さきの米朝修好通商条約の第一条には「周旋条項」(朝鮮が他国との紛争が起こった場合、アメリカが仲裁することを定めた条項)が挿入されているが、これは勢力均衡を条文化したものといって良い。金弘集はこのとき朝鮮側副使として参与している。しかし『万国公法』とその「勢力均衡」思想が、朝鮮の開国方針と条約に影響を与えたことは明らかである。 このような開国への政策転換に対し「衛正斥邪」思想を持つ保守官僚から激しい反発が起こり、1882年には儒者たちによる反対運動も起きている。保守派の上奏文の中には『万国公法』をはじめとする西学書の廃棄・焚書を求めるものや、『万国公法』を異教の邪書と名指しするものもあった。もっともこのことから開国政策以後、『万国公法』が保守派の反感にもかかわらず、認知度を高めていったことがうかがえる。 両截体制(1882–1892)日朝修好条規締結以後、日本の朝鮮政治への介入が露骨さを増すと、それに比例して日本への反感が増加した。その一つの頂点が壬午事変(1882年)・甲申政変(1884年)である。事件そのものはすぐ鎮圧されたが、これ以後日本の影響力は減少し朝鮮の近代化は清朝の指導を仰ぎながら推進されることとなった。すなわち「東道西器」という中国の「中体西用」に似たスローガンを掲げ、新式軍隊や外交顧問を設置し、高宗は「公法」に依拠して国際社会に参加することを宣言した。儒者たち保守層の反対上奏文もなりを潜めるようになり、逆に国際法の受容を求めるものが上奏されるようになっていく。たとえば『万国公法』などの西学書を常備した図書館兼教育機関の設置、あるいは全国への配布が官僚たちから上奏されている。 ただこのような事態は、条約体制に朝鮮が主権国家として直ちに参入したことを意味するものではない。壬午・甲申両事変の後に日本に変わって大きな影響力をもつようになった清朝が朝鮮の背後にいて、華夷秩序の「属国」から条約体制の「属国」への転換を画策していたため、この時期の朝鮮には華夷秩序と条約体制が併存する状態に置かれていた。これを「両截体制」(りょうせつたいせい)という。「両截」とは二重を意味し、過渡的な性格を持っていたといえる。 近代国際法の受容を進めた朝鮮であったが、やがて開化派の中の急進分子は積極的に華夷秩序からの離脱を模索するようになっていった。たとえば 朴泳孝らは来日した折り、在日各国公使館を巡り、清朝が介在しない形での条約締結を呼び掛けている。それは国家主権を回復し、各国に独立国として認められるための行動であった。急進的な一派が形成されるためには、ある程度の国際法や世界情勢の知識の普及が不可欠であるが、その知識浸透に寄与したのが『漢城旬報』や『漢城周報』といった雑誌・新聞(近代メディア)であった。これらは国際法の知識や実態を紹介しているが、その情報は『万国公法』や同じくマーティン翻訳の『公法便覧』、中国の諸新聞に基づいている。記事は朝鮮と清朝の関係を国際法の知識から論ずるものが多く、「独立」・「自主」・「均勢」がキータームとなっていた。周辺に西欧列強が現れ、清朝や日本が近代化するという国際環境にあって、朝鮮はいかに生存を図るべきかということが、人々の主要な関心事として浮上しはじめていたため、国際法の知識は積極的に求められていた。「両截体制」下において、『万国公法』は普及し、政局にも影響を及ぼし始めたのである。 その広がりの中で兪吉濬(유길준)のように近代国際法に非常に深い見識をもった人も現れてきた。彼の著作『西遊見聞』(서유견문)は福沢諭吉の『西洋事情』から深い影響を受けて著された啓蒙書であって、「両截体制」ということばは、この著作に由来する。この中に「邦国の権利」という部分があり、これは『西洋事情』にはない部分であるが、ここに国際法についての詳しい知識がうかがえる。それによれば朝鮮は「両截体制」に置かれているが、それでも国際法に照らした場合、独立国に位置づけることができるとする。兪吉濬はその国際法に関する詳しいことを買われて、朝鮮の外交政策に対し意見を求められてもいる。(金鳳珍2004) 『万国公法』への失望朝鮮において『万国公法』が読まれたのは、国際法における局外中立が朝鮮を取り巻く国際環境に有効ではないかと考えられたためであった。ヨーロッパではブルガリアやベルギーといった小国が大国の狭間にあって、列強の相互利益が合致しているために亡国とならずに済んでいる。このような国際情勢は朝鮮にも当てはまり、局外中立によって朝鮮も生き残れるのではないかとの希望が国際法に寄せられた。 しかし朝鮮知識人たちの希望はすぐ失望に変わる。1895年の日清戦争は、局外中立を宣言したにもかかわらず、主戦場は朝鮮半島であった。アメリカと締結した条約には「周旋条項」があったがアメリカは容易に介入しなかった。さきの兪吉濬は、条約を締結しても、その有効性は平時に限られ、戦時には空文となると述べて失望の色を隠さない。 朝鮮において国際法への信頼性は下降線を辿ったものの、それを放棄する方向には向かわなかった。一部には国際法に対する根強い不信が生まれたが、他方ではむしろ国際法のダブルスタンダード的性格(「近代国際法の二重原理」)に眼が向けられ、国家が自力で自存・自立する努力をしなければ、国際法を利用することができないと考えられるようになり、以後改革に前向きな姿勢が導き出されるようになった。 ベトナム ―周辺諸国への伝播 3―東南アジアへの伝播ベトナムにもマーティン訳の『万国公法』はもたらされた。どういう経路でもたらされたかは不明である。貿易を通じて商人から得たのか、あるいはベトナムは朝貢使節を清朝に派遣していたので、そのときに買い求めたものかもしれないと考えられている。『万国公法』の普及はその輸入した『万国公法』を翻刻する形でなされた。それは1877年(嗣徳30年)という阮朝末期にほとんど正確に復刻されている。つまり漢文表記そのままであって、翻訳ではない。ベトナムは近代まで漢字文化圏に属し、漢字ばかりでなく、科挙といった中国の諸制度を導入していた。そのため知識人層にとって漢文の読み書きが標準的素養であり、政治指導者階層への普及という点で漢文表記が阻害要因となることはなかった。中国語版と異なるのは、ベトナム版の序文が付せられていることと巻数である。中国語版の一、二巻と三、四巻をそれぞれまとめて一巻としているためベトナム版は二分冊となっている。 受容の背景復刻したのは、范富庶や阮子高、武元二、阮進らベトナム科挙官僚であった[注釈 23]。序文を書いたのは范富庶であって、彼は海陽省総督兼総理商務大臣という肩書きをもっていた。当時海陽省に属していたハイフォンは第二サイゴン条約によって開港地に指定された港である。したがってフランスの進出著しく、地方官僚とフランス人との接触は頻繁であった地域といえる。加えてハイフォンをはじめ、ベトナム各地に設けられた税関ではヨーロッパ人がトップである税関長を占め、ベトナム人スタッフと共同運営していたが、ヨーロッパ・ベトナム間にはよく争いが生じていた。貿易に関する理解・文化が異なっていたためである。1876年には国民の海外渡航や外国人商人との貿易を解禁し、完全な開国政策を打ち出した。それに伴い、加速度的に外国人との折衝・トラブルが増加したことはいうまでもない。 開国の翌年に、海陽の官僚が『万国公法』を復刻しようとした動機は、自明であろう。それは日々発生する様々な対外案件に対し効果的な対応をするために他ならなかった(武山2003)。 影響について『万国公法』がベトナムにもたらした影響については、研究上のフロンティアといってよく、詳しい研究は未だ為されていない。しかしたとえ『万国公法』を非常に効果的に活用する場面があったとしても、次第にフランス帝国主義が浸透し、最後には天津条約によって清朝がベトナムに対する宗主権を放棄したことにより、完全にフランスの植民地となったという歴史の大勢に変わりはなく、それは後世のわれわれがよく知るところである。 モンゴル ―周辺諸国への伝播 4―ここまで取り上げた『万国公法』はいずれも漢字文化圏に伝播したものであるが、モンゴルにももたらされ翻訳された。モンゴル国立中央図書館に収められている“tümen uls-un yerüde čaγaĴa”は、マーティン本のモンゴル語訳である。ただ第一巻一章等ところどころ発見されておらず、必要な箇所のみ翻訳したのか、単に発見されていないのかは不明である。 不明な点はまだある。翻訳者及翻訳時期も判明しておらず、かろうじて1912年末までには翻訳されていることがわかっているのみである。 モンゴルが『万国公法』を導入したのも、国際政治の動向がからんでいる。1911年の辛亥革命によって清朝は倒壊し、それまで支配下におかれていたモンゴルは同年12月1日に独立宣言をし、ロシアなどの列強諸国と直接交渉をせねばならなくなった。大国の圧力に直接さらされるようになったボグド・ハーン政権は、少しでも外交交渉を有利に進めるために『万国公法』をモンゴル語訳したと思われる。そして1912年の露蒙協定交渉では、会談が設定されたペテルブルクにまでモンゴル語版『万国公法』を持参している。 モンゴルは露蒙協定締結以後も、ロシアや中国と外交交渉を重ねていくことになるが、国際法の知識はモンゴルの外交使節にとって早急に身につけねばならないものであった。モンゴルの人々にとっても『万国公法』は必要欠くべからざる書だったといえる(橘2006)。 近代東アジア国際社会の変容これまで『万国公法』と近代国際法が各国それぞれにおいてどのように受容されたのか、及びその国内的影響を中心に記述してきた。それはどちらかといえば東アジア諸国家対西欧(文明)に比重をおいて説明してきたが、以下では近代東アジア世界全体に及ぼした影響、あるいは東アジア諸国間に生じた問題について触れる。 条約体制への移行 ―東アジアにおける影響―『万国公法』の普及と、上記のような様々な事件・問題の際の近代国際法の強制的な適用と受容が、東アジア国際社会に大きな影響を与えたことは改めて強調するまでもない。具体的には以下のような影響があった。 東アジア国際秩序の再編東アジア国際秩序は、アヘン戦争以降それまであった華夷秩序から条約体制へのシフトが起こったが、清朝と欧米諸国との新たな関係がすぐに他の東アジア諸国との関係に直接的に波及したわけではない。東アジア国際秩序の再編の第二幕は、日本が条約体制に順応し、それを周囲の国に及ぼそうとしたことから開始されたのである(川島2007)。 『万国公法』などの近代国際法は、世界中の主権国家が互いに平等であり(「諸国平行の権」)、それは国家間の様々な権利と義務に基づくのだという「理念」を東アジアに伝えたが、それは華夷秩序における中国の圧倒的な優位を当然とする秩序観とは異質なものであった。しかし『万国公法』の「理念」は、西欧列強の強制という現実を伴いつつ東アジアに受容されていき、徐々に華夷秩序を覆すこととなった。 このような国際秩序変容に東アジアで最も早く順応したのは明治日本であった。倒幕時は攘夷鎖国を旗印にしながら、明治維新政府が成立すると対外的態度を一変させて開国を国是とし、条約体制に積極的に参加する姿勢を打ち出した。条約体制の到来を、華夷秩序を覆す好機として捉えたためである(川島1999)。そのために『万国公法』等の翻訳普及と、お雇い外国人からの近代国際法の知識吸収を積極的に図り、転じて「万国公法」を周辺諸国に積極的に適用していった。このことは清朝や朝鮮に対し、西欧列強による近代化・開国要求とは異なる影響を及ぼしていった。 清朝や朝鮮では、『万国公法』への不信からその「理念」に素早く共鳴することはなく、条約体制へのシフトは緩やかであった。当初は華夷秩序の堅持に努め、国際法を単なる道具としてのみ活用し、条約体制そのものには極力拒絶しようとする受容から、次第に国際法の理念をも受容する方向へと進んだ。そして緩やかなシフトは、華夷秩序と条約体制が並存する状態を東アジア国際社会にもたらしたのである。清朝は対西欧列強においては条約を締結する一方で、中国と周辺諸国の関係はこれまで同様華夷秩序における宗主国と藩属国の関係であり続けようとしたが、度重なる西欧列強との戦争によって、次々と朝貢国を喪失していき華夷秩序を維持することは事実上困難となっていった。最後に残った朝貢国朝鮮に対し、清朝は当初華夷秩序下の「属国」と近代国際法における「属国」とは異なるという主張をしたが、その説得力がないと判断するや、近代国際法的な「属国」へと朝鮮を改変しようと試み、馬建忠や袁世凱を朝鮮に派遣し、直接朝鮮国政に関与しようとした。その朝鮮も日清戦争後に締結された下関条約によって、清朝との宗主国―藩属国関係を完全否定され、華夷秩序は終焉を迎えることとなった(茂木1997、岡本2004)。 国内改革の推進『万国公法』などが説く近代国際法は、単に国際関係の変化を迫っただけではなく、国内改革の推進剤ともなった。近代国際法の完全な適用を受けるためには「文明国」と認められねばならないためである。「文明国」と認められるためには以下の条件を満たす必要があった(広瀬1978、小林2002)。
1及び2の二つとも満たさない場合、「未開国」と見なされ、その行き着く先は列強の植民地であった。前者だけを満たす場合、「半文明国」とされて国家として承認されるものの、西欧諸国と同等の扱いを受けることはできず、不平等条約(関税自主権喪失・領事裁判権及び広範な治外法権の設定等)によって著しく劣等な立場に置かれた。近代国際法は「理念」として万国平等を謳いながら、現実では非西欧諸国を差別する国際秩序を支えており、このような「理念」と現実との落差に対し、やがて失望とシニカルな感想、そして理念よりも国力を重視する姿勢が出てくることは自然であった。これまで挙げた薛福成や西周、兪吉濬といった『万国公法』に肯定的な意見を持つ人々ですら、国際法の適用を受けるためには富国強兵という裏打ちが必要不可欠であることは強く意識していたのである(金鳳珍2004)。それは非西欧諸国が主権国家となるための国内改革を推進していく強い動機となった[注釈 24]。 さらに3の条件は、具体的には不平等条約の撤廃・平等な条約の再締結によって達成されるが、それは既存の「文明国」、つまり西欧国家にどれほど近似しているかという主観的な点から判断された。したがって国内改革の方向は必然的に西欧化の方向を取らざるを得なくなる。中国の洋務運動や戊戌変法、日本の明治維新における一連の改革、朝鮮の甲午改革・光武改革といった諸改革が、その変革に当たる。 だが、国内改革を行い主権国家としての体制を確立することと伝統的な国家観を維持しようとする既存の政治体制の努力との間には矛盾を含んでおり、それが国家体制の根幹に関わる改革を阻むこととなった。これに対して国家主権の危機をより深刻に受け止めた若い知識層を中心に発生したナショナリズムは既存の体制を根幹から否定して徹底した改革を断行する体制の確立を求めるようになる。それが日本では朝廷を擁して江戸幕府を倒幕する一方で既存の朝廷組織を解体して全く新たな明治政府を樹立した明治維新へと向かい、中国においては王朝体制の存在そのものを否定する辛亥革命へと向かうようになる。 日本・中国・朝鮮間の「万国公法」近代国際法や国際情勢の要請によって、主権国家として生まれ変わるべく国内改革が進められたが、その影響は国内に留まるものではなく、同じ東アジアに位置する周辺諸国(近代国際法への順応速度は異なる)との関係に摩擦を呼び起こした。具体的には国境線画定や外交儀礼、藩属国の地位が争点となった。以下に挙げる諸事件はその代表例である。 国境線の画定問題国際法の認める主権国家となるということは、その主権がどこまで及ぶのかを確定する作業を経なくてはならない。たとえば清朝とロシアの間で結ばれた璦琿条約(1858年)や、日本と同じくロシア間で締結された樺太・千島交換条約(1875年)などは、清朝・日本両国の北方の国境線を画定するものであった。これは東アジア諸国とロシアとの間に結ばれた国境条約であるが、やがて東アジア諸国内においても国境確定の動きが現れてくることは不可避であった。従来からの華夷秩序に基づく統治範囲は、対象とする人や物資の移動によって伸縮するものであって固定的ではなく、国家の辺境に対する領有意識は周辺諸国と重複することが常態であった。そのため近代国際法に基づく固定した国境線の画定を行うとするならば、それは周辺諸国との紛争の種として浮上せざるをえなかった。
外交儀礼の問題
宗主権―主権問題「宗主権―主権問題」とは、華夷秩序から条約体制へと国際秩序が移行する際に生じたある二国家間関係をめぐって持ち上がった問題である。前述したように華夷秩序では、中国王朝から冊封から受け、あるいは朝貢を行うことで、周辺諸国は宗主国―藩属国の関係となった。それは中国王朝の皇帝と周辺諸国の君主とが君臣関係を結ぶことを意味するが、それにより中国王朝の支配が周辺諸国全域に貫徹するということではない。むしろ概ね中国側は周辺諸国の内政・外交に干渉することはない。この状態を清朝は「属国であるが自主でもある」と西欧諸国に説明したため、歴史学では「属国自主」という表現を用いる。このような関係は『万国公法』の説く主権の概念から判断すると、曖昧で割り切れないものであった。 もっともこの問題がクローズアップされたのが、最後の朝貢国朝鮮をどう捉えるかという清朝と西欧・明治日本の意見衝突の時であった(岡本2004)。 「万国公法」自体の変容これまで『万国公法』をはじめとする近代国際法を受容した東アジア諸国が、外圧もしくは自発的努力によって変革を迫られた過程を述べてきたが、東アジア諸国との遭遇は近代国際法自体にも変容をもたらし、現代の国際法へと脱皮する契機となった。 はじめに書いたように、西欧起源の近代国際法は、キリスト教国家どうしの取り決めというローカルな性格をもつものであった。しかし西欧列強の海外進出と共に、キリスト教的価値観を共有しない諸国家との関係を探るうち、「文明国」という国際法的な意味での国家概念を捻出し、キリスト教的か否かよりも「文明国」か否かが国家承認の要件と見なされるようになり、次第にキリスト教色を薄め、国際法被適用資格は抽象化・一般化していった。その結果として、前述の国家承認条件「主権国家であること」「条約遵守能力があること」が打ち立てられたのである。 これは国際法適用を受けるかどうかの前提条件が大きく変化したためである。キリスト教国家かどうかという国家の特質的なものから、国家制度という具体的・技術的な条件へと国家容認の条件が変化を意味するからである。すなわち地理的・宗教的・文化的な違いがあっても、西欧の国家制度を導入・模倣することで国際法が適用される道が開けることとなった(広瀬1978)。明治日本の諸改革や鹿鳴館建設、西欧風俗(衣服・食事・暦他)受容は、このような国際法の変容を敏感に察知した上で為されたもので、国際法適用を受け、西欧諸国に肩を並べるための努力だったのである。 脚注注釈
出典
主要参考文献脚注で触れたものは省略した。 史料
研究書
論文
関連項目外部リンク
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