保科善四郎
保科 善四郎(ほしな ぜんしろう、1891年(明治24年)3月8日 - 1991年(平成3年)12月24日[1])は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将。衆議院議員を4期務めた後、財団法人日本国防協会会長。 略歴宮城県伊具郡北郷村(現・角田市)出身。旧制宮城県角田中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第41期入校。席次は入校時120名中40番、卒業時118名中28番。海軍大学校卒業。 人物像1930年(昭和5年)5月から1932年(昭和7年)11月までアメリカ駐在であったが、海軍きってのアメリカ通として鳴らしアメリカ海軍の人物を調査するのが先決という持論を持っていた。アメリカに来る後輩士官たちに「情報が欲しいと言っても無暗に向こうを刺激するようなことをするな。大事なのはその国を知ること、人を知ること、友人をたくさん作ること」と言っている。アメリカ海軍が日本海軍の人物についてよく調べていることを知った保科は帰国後、軍令部第三班長の嶋田繁太郎少将に「アメリカ海軍の人事考査表を作らないといけません」と進言した。それは受け入れられることはなかったが後に第三艦隊先任参謀として上海に転勤、そこで後に大きな影響を受ける米内光政と出会う。保科はそれまで米内のことは全く知らず、名前さえも聞いたことがなかったという。 第三艦隊時代の保科は酒を全く飲まず、性格も潔癖で融通が利かなかった。第三艦隊の艦艇に芸者などが白昼堂々と訪問するような雰囲気に「たるんでる」と判断、風紀を改めるべく厳しい通達を発した。そのため上海の花柳界からは総すかんを食らっている。それを見た司令長官の米内が街角の一般食堂に連れ出し、焼きそばを食べながら「君は国際法規だの何だの、ずいぶん熱心に勉強しているようだが、たまにはこういう所に気晴らしに来るといいよ」「中佐にもなって酒も飲まないというのはどうかな。もう少し馬鹿になって人に隙を見せないと部下の統率はできない。今度酒でも飲まないか」と優しく諭され、保科は酒を飲もうと決意したという。40歳代になって初めて酒の味を知ることとなった。そして米内と酒を飲んでいるうちに意外にも自分が飲める体質だということを悟り[注釈 1]、この米内の薫陶はのちに艦長になった時の部下掌握に役に立った、と自身が回想している。その後は米内と書簡のやり取りをしていたようで、『米内光政の手紙』(高田万亀子著)に一部が掲載されている。その中には、人間的にかなり欠陥があったという第三艦隊時代の某参謀長に対して苦悩し、手紙で怒りをぶちまけた保科に対して、肋膜炎で第三艦隊司令長官を下りて療養中の米内が「彼は気の毒なくらいの人物なので君は誠心誠意やればよい。(第三艦隊で)君に全幅の信頼を置いていた」と激励したり、中国事情について「君の意見に同感である」と意見交換をしているやり取りもある。 終戦時は米内大臣、多田武雄次官の下で軍務局長の地位にあったが、その際米内から「連合国も永久に日本に軍備を撤廃させることはない。日露戦争の前のトン数を基準に海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」を委託されている。保科が戦後政界に入ったのはこの米内の「遺言」を一つでも達成するためと述べており、Y委員会を通して現在の海上自衛隊を創設する際に、その「遺志」を反映させたと言われている。また海軍嘱託記者だった吉川英治に海軍史の執筆も依頼している[注釈 2]。 米内からは信頼を得ていたのだが、米内と数々のコンビを組んだ井上成美は保科に批判的な態度を取っており、慰労会の最中井上は手相を見て「君は典型的な二重人格だ」と言っている。手相で二重人格ということがわかることはなく、これは太平洋戦争開戦時兵備局長で開戦を止められる立場にいた保科が何故止めなかったのか、という批判も込められていた。高木惣吉も「終戦派なのか本土決戦派なのかどっちつかずで腹の内がわからない人」と批判していた。しかし、陸軍は保科を戦争継続派とみなし本音を語り、終戦間際に陸軍による鈴木首相、米内海相暗殺計画も話してしまい、保科は米内の警護を厳重にするように秘書官・副官に命じ、本心を見せないことが海軍側にとっては逆にメリットに働いたとも言える。 日常の言葉にはかなりの東北訛りがあったと言う。国際法顧問として海軍に就職した杉田主馬が海軍省に出仕した初日に彼の案内役をしたのが保科だったが、「ズンズ(人事)局で文官のズンズを担当スているホスナゼンスロウだす」と東北訛りで挨拶したという。また同郷の井上成美とは愚痴などをわざと地元方言で話していたといい、二人の会話を聞いていた大西新蔵は、「何を話しているのかさっぱりわからなかった」と回想している。
年譜
栄典
脚注注釈主な著作GHQ歴史課陳述録
参考文献
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