出雲大社教
出雲大社教(いずもおおやしろきょう)は、1882年(明治15年)、当時の出雲大社前大宮司・第八十代出雲國造・千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団である。教派神道(神道十三派)の一つ。 概要島根県出雲市の出雲大社の境内に本部(教務本庁)があり、出雲大社の職員が出雲大社教の職員を兼務している。ただし、出雲大社が神社本庁(神社神道)に所属するのに対し、出雲大社教は神社本庁(神社神道)には所属していない。法的に言うと、宗教法人出雲大社が宗教法人神社本庁(神社神道)被包括宗教法人であるのに対し、宗教法人出雲大社教は宗教法人神社本庁の被包括宗教法人ではなく、教派神道に属する単立宗教法人となっている。 明治時代に、日本の神道諸派を糾合して国家(国家神道)における宗教行政を定めるために設立された神道事務局において、出雲大社系の神官(「出雲派」、または「大社派」)が伊勢神宮系の神官(「伊勢派」、または「神宮派」)と対立した結果、伊勢派が主流を占める国家神道から出雲派が独立する形で設立された物である。宗教としては教派神道に分類される。 明治13年に東京都日比谷の神道事務局に設けられた神宮遥拝所において、神造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)および天照大神の四柱を祀ると決定されたことに対して、出雲派は大国主神も祀るべきだと主張し、伊勢派との間で大きな論争になったが、伊勢派が明治天皇の支持を得たこともあって、出雲派は敗北し、大国主神は祀られないことになった(明治13年の祭神論争)。さらに、明治15年1月に明治政府が布告した「神官教導職分離令」によって、神社に奉仕する神官と布教を行う教導職が分離され、これによって出雲大社に勤務する神官が国家とは別に独自に出雲信仰の布教を行うことが禁止された。そのため、当時の出雲派(千家)のトップである千家尊福は、出雲大社大宮司を辞職して自らが教団の開祖となり、信仰組織を出雲大社本体および国家神道から分離させる形で明治15年に設立した。出雲大社教は昭和26年に出雲大社と統合されたが、その後も法人としては出雲大社教と出雲大社は別団体となっている。 大国主神を主神として祀っており、大国主への祭祀を担う出雲国造家の始祖である天穂日命を「教祖」としている。出雲大社教の事実上の創始者である千家尊福は「開祖」とされており、代々の出雲国造は天穂日命の子孫としてその霊魂を継承しているので、出雲国造家第80代の千家尊福もまた天穂日命であるとされる[1]。なお、伊勢派の神道(昭和21年に設立された宗教法人神社本庁を運営している)において祭祀を担っている天皇家は、瓊瓊杵尊を始祖としているが、この瓊瓊杵尊は天穂日命の兄(天忍穂耳尊)の息子と言う位置づけである。なので、天皇は「出雲大社教の教祖の兄の息子の子孫」と言う位置づけになる。 明治6年に千家尊福が全国各地の出雲講(出雲大社を宗祠とする組織)を結集して設立した「出雲大社敬神講」を母体とする。布教機関は全国に渡り設けられていて、特に中国地方を中心とした西日本に多くの分祠、教会等がある。これらは神社本庁にも出雲大社にも所属せず、あくまで「出雲大社教の布教機関」であるため、「神社」や「分社」などと名乗ることはない(法的に言うと、宗教法人神社本庁の被包括宗教法人であるところの「神社」でもなく、宗教法人神社本庁の被包括宗教法人である宗教法人出雲大社の被包括宗教法人であるところの「分社」でもなく、あくまで宗教法人出雲大社教の被包括宗教法人である)が、アメリカ占領時代の沖縄に設置された「出雲大社沖縄分社」のみは、当時「教会」の呼称が認められなかったため、例外的に「分社」を名乗っている。有名なところでは、出雲大社教の成立に伴って出雲派の神社であった神田明神から分離する形で設立された出雲大社東京分祠などがある。 また、全国に出雲大社を信仰する組織があり、「講」と呼ばれる。出雲大社教は教団としてこれらの講を包括する組織であるが、組織性はあまり強くない。 統理者にあたる管長職は千家家が代々世襲している。2014年現在の管長は六代・千家隆比古である[2]。 出雲大社附属の神職養成所である大社國學館では、卒業の際、神社本庁の神職の階位のほかに出雲大社教の教師資格も授与される。 なお、同じく出雲大社と大国主を祀る出雲教は、南北朝時代に出雲家から分かれた千家とともに出雲国造を担った北島家(北島国造家)が興した神道の一派。北島家は明治時代まで出雲大社の宮司職を千家と分担していたが、明治15年の「神官教導職分離令」に伴い千家が出雲大社教を起こしたのと同様に、北島家も出雲大社から分離して出雲教を結成した。第二次大戦後に出雲大社と出雲大社教が統合され、出雲大社の宮司職は千家が独占するようになったため、北島家は出雲大社の敷地に隣接する北島家の屋敷(北島国造館)にて出雲大神を祀っている。 常陸国出雲大社(旧・出雲大社常陸教会)は、出雲大社教からの分派である。2013年、出雲大社常陸教会が永谷園とタイアップしたことに対して、神社本庁の昭和54年通達「神符守札を一般商品の付加品としたり、宣伝の材料にしてはならない」という規定に反するとして出雲大社教が通告文を提出したが、本来なら神社本庁と対立する存在であるはずの出雲大社教が神社本庁の通達を名目に通告文を提出してきたことなどに、出雲大社常陸教会側が不満を募らせ、独立した[3]。なお、出雲大社が常陸教会にたいして千家尊祐(出雲大社宮司で、出雲大社教では「国造様」と呼ばれる)の名前を出して通告した、と週刊誌『フライデー』で報道されたことに対しては、出雲大社と出雲大社教は無関係であるのでそのようなことはない、と出雲大社教側ではしている[4](このように、戦後の出雲大社と出雲大社教は実質的に統合されているにもかかわらず、名目上は別団体であり、出雲大社は神社本庁に従属しているのに対して出雲大社教は神社本庁と対立しているという、微妙な関係にある)。 教義大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を奉斎し、「生死一つながらの幽顕一如の道[注 1]」を説く。また、人間は「霊止(ひと)」として霊的な存在であり、親神のムスヒ、幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)の恩頼(みたまのふゆ)[注 2]によって先祖からの一貫した霊を継承し、現身(うつしみ)の誕生があるとする。教書として「教旨大要」「大道要義」「出雲大神」「国の真柱」「大道問答」「風教百首講説」「幽顕分界話」「教会撮要」「氏子の心得」「道の一草」などがある[5]。 沿革1873年(明治6年)、千家尊福が布教のため創設した「出雲大社敬神講」を前身とする。1882年(明治15年)の「神官教導職分離令[6]」によって神職の布教活動が原則禁止されたため、出雲大社より独立し別組織「神道大社派」(のちに「神道大社教」へ改称)となる。1951年(昭和26年)、出雲大社は国家管理を離れ、1882年の分離令も失効したため、出雲大社に復帰合併し、出雲大社の職員が出雲大社教の職員を兼ねる。また教団名を「〜たいしゃきょう」から「〜おおやしろきょう」と改称する。 年表
施設
神語神語(しんご)とは出雲大社教や出雲大社などが神事などで用いる最も重要な唱え詞。神語は、すなわち「幸魂奇魂守給幸給」(さきみたま くしみたま まもりたまえ さきはえたまえ)である。 日本神話で、大国主大神は少彦名に去られてしまい、大変に困っていた。その時、海原を照らし寄ってくる神があった。それが「幸魂奇魂」であった。大国主大神は、自分の生命の中に潜む「幸魂・奇魂」という偉大な御霊力により「縁結びの大神」になられた。 「幸魂奇魂守給幸給」は、花が「咲く」、布を「裂く」という言葉のように、「増加」や「分裂」の意味と、「櫛」や「串」の言葉のように「整える」や「統一する」という意味を持つ。神語を唱えれば、分化繁殖したものを統一し、調和のとれたものとなり発展し、大国主大神の道に神習い、明るく和やかな日々が送れるという。この「神語」を「奉書」して出雲大社に奉納る神語奉書も大切な儀礼である[7]。 仏教では「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」…、またキリスト教では「アーメン」ともいう。出雲大社では「神語」すなわち「幸魂奇魂守給幸給」(「さきみたま くしみたま まもりたまえ さきはえたまえ」)である。神語を唱える事により、大国主大神から御霊力を頂く事ができ、大きな幸せの縁を結んで頂けるという。 なお葬儀や慰霊祭などでは幽冥神語(ゆうめいしんご)「幽世大神憐給恵給幸魂奇魂守給幸給」(かくりよのおおかみ あわれみたまえめぐみたまえ さきみたまくしみたま まもりたまえさきわえたまえ)を唱える。「神語」も「幽冥神語」も通常は三唱するが、非常にゆっくりと、また独特な節回しを用いる[8]。 教師の称号・等級
服制出雲大社教では服制を定め、身分別に規定がある。 正装斎服白袍(無紋)、白差袴(無紋)、冠(遠紋、二級以上繁紋)。 略服葬祭服白絹又は無紋鈍色衣冠。従者は布衣、笏または中啓、烏帽子、鈍か白袴。 女教師正服上着は固地織紫有紋、紅色、垂髪、檜扇かボンボリ、靴か草履、ただし三〜六級の上着は平絹濃色とし七級以下は平絹松葉色。 女教師略服有紋狩衣、烏帽子、紫有紋袴、笏又はボンボリ、靴又は草履。ただし三級以下は紫無紋袴、七級以下は浅黄無紋袴。 女教師礼服白生絹か白平絹無紐水干、額当、紅繁菱綾単、紫有紋袴、笏かボンボリ、靴か草履。ただし三級以下は浅黄無紋袴[10]。 専門用語
布教機関分社分祠
分院
教会
講社
その他
脚注注釈出典
関連項目外部リンクInformation related to 出雲大社教 |