太田博太郎
太田 博太郎(おおた ひろたろう、1912年11月5日[1] - 2007年1月19日[1][2])は、日本の建築史家。東京大学名誉教授。日本学士院会員。九州芸術工科大学学長等をつとめた。 経歴1912年、東京生まれ。誠之小学校を経て、1932年武蔵高校(旧制)を卒業[2]。この頃から建築史に関心を深め、奈良・京都の古建築に親しんだ[1]。1935年、卒業論文「東大寺南大門の研究」を提出して、東京帝国大学工学部建築学科を卒業した[2]。 1937年、妙成寺国宝建造物修理事務所助手となり、1939年、法隆寺国宝保存工事事務所助手となる[2]。1943年、東京帝国大学助教授に就任[2]。1960年、東京大学教授[2]。1957年、学位論文『中世建築の基礎的研究』を東京大学に提出して工学博士の学位を取得[2][3]。1973年、東京大学定年退官、同大学名誉教授[2]、武蔵野美術大学教授[2]。 1974年、九州芸術工科大学学長となった[2]。1978年から1990年3月まで、第2代武蔵学園長を務めた[2][4]。1997年日本学士院会員に選出された[2][5]。学界では文化財建造物保存技術協会理事長などを歴任した。 2007年、老衰のため東京都内で死去。 受賞・栄典研究内容中世の寺院建築や民家の調査を進め、第二次世界大戦後の研究をリードした。『日本建築史序説』は戦後建築史に残る名著として評価が高い[1]。また「天竺様」「唐様」という言葉を「大仏様」「禅宗様」に改めた[1]。 文化財の修理・保存事業にも尽力し、法隆寺の修復、薬師寺・平城宮の復元のほか、長野県妻籠宿の町並み保存にも関わった[1]。寺社仏閣だけでなく、戦後は庶民住宅である民家にも着目し、民家調査方法を確立した[1]。教育者としても多くの後進を育てた[1]。 著作
出典注釈出典 |