太田 浩兒(おおた こうじ、1928年8月8日 - 1988年10月13日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14]。
人物・来歴
1928年(昭和3年)8月8日、神奈川県横浜市に生まれる[1][2][3][4]。
東京市大森区調布嶺町(現在の東京都大田区鵜の木)の旧制・東京中学校(現在の東京高等学校)を卒業して旧制・東京高等師範学校に進学、同校は1949年(昭和24年)5月に設立された新制・東京教育大学(現在の筑波大学の母体)に包括されたため、同学哲学科に在籍、1953年(昭和28年)3月に同学を卒業した[1][2][3][4]。「好きな映画で生活していこう」と考え、同年4月2日、定期採用第2期生として東映に入社した[1][2][3][4]。企画本部に配属され、東京撮影所演出部に配転された[1]。同年1月29日に第1作が公開された小石栄一監督の『魚河岸の石松』シリーズ(1953年 - 1958年)や、内田吐夢監督の『どたんば』(1957年)、『森と湖のまつり』(1958年)、家城巳代治監督の『素晴らしき娘たち』(1959年)、あるいは伊賀山正光、1959年(昭和34年)2月11日公開の『黒い指の男』で監督に昇進した先輩の飯塚増一[15]らの作品に助監督として参加している[1]。
満33歳の誕生日を目前とした1961年(昭和36年)7月19日、ニュー東映ラインで公開された千葉真一の主演作『宇宙快速船』をもって、監督に昇進した[1][8][9][10][11][12][13]。翌1962年(昭和37年)には東映商事(現在の東映エージエンシー)が製作した住友銀行(現在の三井住友銀行)のPR映画『ある日のバス通り裏』を監督、同作は1958年(昭和33年)4月7日 - 1963年(昭和38年)3月30日にNHK総合テレビジョンで生放送されたテレビドラマ『バス通り裏』のスピンアウト作品である[16]。1963年3月31日公開の『特別機動捜査隊』、同年5月12日公開の『特別機動捜査隊 東京駅に張り込め』をそれぞれ監督した後、恩師・家城巳代治の監督作『路傍の石』(1964年6月14日公開)ではチーフ助監督を、同じく内田吐夢の監督作『飢餓海峡』(1965年1月15日公開)ではセカンド助監督を務めている[7][8][9][10][11][12][13]。1965年(昭和40年)1月15日に公開された『あの雲に歌おう』を最後に監督作はなく、1966年(昭和41年)6月4日に公開された深作欣二の監督作『カミカゼ野郎 真昼の決斗』の共同脚本に参加して以降は、プロデューサーに転向した[1][8][9][10][11][12][13][14]。
プロデューサー転向第1作は、同年10月25日に公開された『北海の暴れ竜』(監督深作欣二、主演梅宮辰夫)で、植木照男に次いで企画としてクレジットされた[1][8][9][10][11][12][13]。以降、深作欣二、鷹森立一、山口和彦らの作品を多く手掛けた[1][8][9][10][11][12][13]。1969年(昭和44年)4月8日 - 同年6月17日に放映された『笑ってよいしょ』で初めて連続テレビ映画を手がける[14]。1970年(昭和45年)5月23日に公開された『やくざ刑事』(監督野田幸男)はシリーズ化し、計4作を手がけた[1][8][9][10][11][12][13]。1977年(昭和52年)には、水島新司の『ドカベン』(監督鈴木則文)、梶原一騎・影丸譲也の『空手バカ一代』(監督山口和彦)といった当時の人気少年マンガを実写映画化した[8][9][10][11][12][13]。
1980年(昭和55年)以降は、『二百三高地』(監督舛田利雄、1980年8月2日公開)とテレビ映画『二百三高地 愛は死にますか』、『大日本帝国』(監督舛田利雄、1982年8月7日公開)、『日本海大海戦 海ゆかば』(監督舛田利雄、1983年6月4日公開)といった大作戦争映画を立て続けに手がけた[8][9][10][11][12][13]。『日本海大海戦 海ゆかば』公開直後の1983年(昭和58年)8月7日、東映を定年退職する。1年半後の1985年(昭和60年)3月には、内田吐夢の評伝『夢を吐く 人間内田吐夢』を上梓する[5][6]。同書に記された当時の肩書は「東映東京撮影所チーフプロデューサー」であった[2]。1986年(昭和61年)5月24日に公開された『白い野望』(監督出目昌伸、主演草刈正雄)を発表、同作が生前最後の作品となった[7][8][9][10][11][12][13][14]。生前は埼玉県志木市に居を構えていた[1][3]。
1988年(昭和63年)10月13日、死去した[4]。満60歳没。
フィルモグラフィ
特筆以外すべてのクレジットは「企画」である[1][7][8][9][10][11][12][13][14]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵・現存状況についても記す[8]。
ビブリオグラフィ
国立国会図書館蔵書等にみる単著・論文等の書誌である[5][6]。
単著
論文・記事
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク