小川隆 (俳優)
小川 隆(おがわ たかし、1891年10月21日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。本名小川 義照(おがわ よしてる)[1][4][8]、戦後の一時期、老川 健(おいかわ けん)とも名乗った[1][2][4][5][6][7][8][10]。 人物・来歴1891年(明治24年)10月21日、東京府東京市日本橋区馬喰町(現在の東京都中央区日本橋馬喰町)に生まれる[1][2][3][4][8]。 獣医学校に進学、同学を卒業したが、琵琶の教師になる[3]。島村抱月による芸術演劇学校に入学、抱月らが1913年(大正2年)に設立した「第一次芸術座」に入団して創立メンバーとなり、同年、帝国劇場で上演された『サロメ』で初舞台を踏んだ[3]。1917年(大正6年)に同劇団を脱退した澤田正二郎らが結成した「新国劇」、中田正造の「新声劇」を経て、自らの名を冠した「小川隆一座」を結成した[1][2][3][4]。その後も明石潮の一座、伊川八郎らの「新潮座」といった劇団を転々としたという[1][2]。新たに「国劇第一線座」を主宰、1929年(昭和4年)に日活と提携する[2]。この時期に前後して、6歳年下の新劇俳優・常盤操子(本名 粟津ゆき、1897年 - 1959年)と結婚しており、妻の常盤は、その前年、先に日活太秦撮影所に入社していた[11]。同年3月25日に公開されたサイレント映画『雲井龍雄』(監督清瀬英次郎)に主演して、映画界にデビューした[1][2][4][5][6][9]。このときに、小川の「国劇第一線座」から日活に入社した俳優に、小林重雄(のちの小林重四郎)がいる[2]。1930年(昭和5年)2月7日に公開された『貝殻一平 第一篇』(監督清瀬英次郎・岡田敬)に始まる4部作で主演、同年3月28日に公開された『高瀬舟』(監督仏生寺弥作)、1931年(昭和6年)1月30日に公開された『恩愛五十両』(監督稲垣浩)に主演したほか、多くの作品に主演、大作では脇に回って好演した[1][2][4][5][6][9]。1933年(昭和8年)からは、フリーランスとなった[5][6][9]。 1936年(昭和11年)2月18日付の京都日出新聞(現在の京都新聞)では、「剣劇と映画で活躍した小川隆が廃業し、大阪で電気マッサージ、太陽燈治療所を開設」と報じられている[3]。1934年(昭和9年) - 1939年(昭和14年)の時期には、映画への出演記録は見当たらない[5][6][9]。 1940年(昭和15年)以降、フリーランスとして[2]、日活京都撮影所のトーキー作品に出演し、脇を固めた[1][2][4][5][6][9]。1942年(昭和17年)1月10日、戦時統制により、日活の製作部門が新興キネマなどと合併して大映が設立された後も、引き続いて日活京都撮影所改め大映京都撮影所の映画に出演した[5][6]。 第二次世界大戦終結後は、大映京都撮影所の所属俳優となった[1][2][4][5][6][8]。1949年(昭和24年)に一時的に「老川 健」と改名したが、のちにもとに戻している[1][2][4][5][6][8]。妻の常盤は1951年に引退したが[11]、小川は、満62歳になった1953年(昭和28年)11月12日に公開された『魔剣』(監督安達伸生)で太閤秀吉を演じ、1954年(昭和29年)3月3日に公開された『番町皿屋敷 お菊と播磨』(監督伊藤大輔)に青山左近将監の役で出演したのを最後に引退した[5][6][8]。 晩年は、歯科医の資格を取得し、京都府京都市右京区太秦多藪町にあった大映京都撮影所の同町内で、歯科医院を開業していたという[1][4]。1959年(昭和34年)9月、妻の常盤操子を病気によって亡くした(満61歳没)[11]。その後、時期は不明であるが、『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)が発行された1979年(昭和54年)10月23日の時点では、すでに死去したものとされている[1]。没年不詳。 フィルモグラフィすべてクレジットは「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵などの上映用プリントの現存状況についても記す[10][12]。同センターなどに所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。 日活太秦撮影所すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[5][6][9]。
日活京都撮影所すべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」、以降すべてトーキーである[5][6][9]。
大映京都撮影所特筆以外すべて製作は「大映京都撮影所」、特筆以外すべて配給は「大映」である[5][6][7][8]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |