山口舞
山口 舞(やまぐち まい、1983年7月3日 - )は、日本の元女子バレーボール選手[1]。 来歴三重県志摩郡志摩町(現志摩市)出身[2]。小学校入学から3年間は地元志摩町にあるブルーシー・アンド・グリーンランド財団(B&G財団)が建設した志摩B&G海洋センターで水泳を習っていたが、小学4年次より友人に誘われてバレーボールを始める[3]。山口の才能を大阪国際滝井高校の才崎哲次監督が見いだし、同校へ進学。1年生の後半からレギュラーに抜擢されると、私学ウィンターバレー優勝やインターハイ(ベスト8)などで活躍した。山口は「個人の能力にあわせた指導してくれ、成長するのが早かった」と述懐している。 2002年にシーガルズ(現岡山シーガルズ)に入団。国体5連覇などの好成績に貢献した。 2009年4月、全日本女子代表メンバーに登録され、同年8月のワールドグランプリで代表デビューを果たす。その後一度は代表を外れるが、同年11月のグラチャン2009に負傷した狩野舞子に代わって緊急招集され、大活躍を見せた。2010年11月、世界選手権で銅メダル獲得に貢献した。この世界選手権3位の栄誉を讃えられ、出身地である三重県並びに所属チームの地元である岡山市からスポーツ栄誉表彰を受けた。 2011年9月のアジア選手権では急遽、ミドルブロッカー(センター)として出場した。同年11月のワールドカップは当初、センターで出場予定であり、初戦のイタリア戦はスタメンで出場した。その後、ライトポジションへ戻ると、ブラジル戦とアメリカ戦では勝利に大きく貢献し、同大会で4位へ導いた[4]。 2011年3月5日のトヨタ車体戦で、Vリーグ出場試合数が230試合となり、Vリーグ栄誉賞[5]の受賞が確定した[6]。 Vプレミアリーグ2011/12シーズンにおいてチーム2度目の4強入りに貢献し、自身初のベスト6賞を受賞した[7]。 2012年5月のロンドン五輪世界最終予選では体調が万全ではなかったが、出場権獲得に貢献。「自分らしさを磨いて、メダルを獲得したい」と抱負を語った[8]。 2012年6月、ロンドンオリンピックの代表メンバーに選出された[9]。本大会では全日本女子28年ぶりの銅メダルを獲得。山口自身、本調子とは言えない中、決して落とせない予選プールAの強豪ドミニカ共和国(ロンドン五輪終了時点のFIVB世界ランキング8位)戦で先発、チームトップのスパイク効果率35%と持ち前の安定感で勝利に貢献、メダル獲得を牽引した。 2012-13プレミアリーグではアキレス腱を痛めた影響で8試合欠場したが、刈谷大会から復帰し2年連続の四強進出に貢献した。セミファイナル以降はチームを牽引する活躍でチーム歴代最高の3位に大きく貢献した。 2013年度よりチームの主将を務め、プレミアリーグにおいてチーム史上最高位となる2位獲得に導き、ベスト6に輝いた[10]。 2019年4月、5月に開催される第68回黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会を最後に現役を引退[11]。 2019年6月に岡山シーガルズを退団し、同年7月22日付にて学校法人中国学園に籍を移して中国学園大学・中国短期大学の広報担当(主任)に就任した[12]。 人物・エピソードVプレミアリーグの岡山シーガルズではミドルブロッカーのポジションだが、全日本ではウイングスパイカーで登録され、レセプション(サーブレシーブ)も一部担当するセッター対角として起用されてきた[13][14][15]。2014年からは全日本の新戦術「ハイブリッド6」が導入されたこともあり、(従来の)ミドルブロッカーの位置に入ることが多くなった。 ニックネーム「ユメ」は、夢をかなえられるようにと高校時代に先輩がつけてくれた[16]。「パール」は、出身地が真珠で名高い志摩市の出身に因む。 試合中の変幻自在で予測不能な動作により、山口は国際試合の対戦相手国から「忍者」と呼ばれ嫌がられている[17][18][19]。 2016年6月のワールドグランプリ予選ラウンドのロングビーチ大会と京都大会では、木村沙織も荒木絵里香[20]も不参加で、山口が主将を務めた[21][22][23][24][25]。 FIVB(国際バレーボール連盟)のトップページ[26]の上部バナーSWFに数年間[27]、各国のトップ選手のシーンと共に、山口がスパイクする画像が用いられ続けている[28](2016年現在も)。 球歴
所属チーム
受賞歴
個人成績Vプレミアリーグレギュラーラウンドにおける個人成績は下記の通り[38]。
CM参考文献
脚注
外部リンクInformation related to 山口舞 |