|
この項目では、キリスト教の事跡の最後の晩餐について説明しています。
|
最後の晩餐(さいごのばんさん)は、キリスト教の新約聖書に記述されているキリストの事跡の一つ。イエス・キリストが処刑される前夜、十二使徒と共に摂った夕食、またその夕食の席で起こったことをいう。
正教会では最後の晩餐とは呼ばず、機密制定の晩餐(きみつせいていのばんさん)と呼ぶ。「晩餐」はイエスの復活後にも弟子達とともに行われていたほか、現在に至るまで聖体礼儀として教会に継承されており、本項で述べる晩餐は「最後の」ものではなかったからだとする。また、正教会では「機密制定の晩餐」のイコンをイコノスタシスの王門の上におく規定がある[1]。
日本聖書協会による新共同訳聖書では、該当する聖書の記述箇所に「主の晩餐」との見出しがつけられている。
この場面に関して、数々のイコンが描かれて来たが、芸術作品としては、レオナルド・ダ・ヴィンチが絵画で描いた『最後の晩餐』が有名である。
新約聖書の記述に基づいた伝承
この夕食の場で、使徒の一人がイエスを裏切ることが告げられ(イスカリオテのユダの裏切りの予告)、また、使徒達が自分の苦難に際して逃げ散る事を予告する(マルコによる福音書14章27節)。弟子達はこれを聞いて動揺する。ペトロは鶏が鳴く前に三度キリストを否むと告げられ、これを強く否定する。
共観福音書では、イエスが賛美の祈りののち、パンと葡萄酒をそれぞれ「自分の体」「自分の血」として弟子たちに与え、『ルカによる福音書』は「これをわたしの記念として行え」と命じたと記す。
共観福音書では、この夕食はユダヤ教の行事「過越の食事」であるが、『ヨハネによる福音書』ではその前日の出来事とされる。そのため東西教会で、このときのパンが(過越の)種入れぬパン(無発酵パン)であったか、(過越前の)種入りパン(発酵パン)であったかについて、議論がある。この議論は現代における聖餐式に、どのようなパンを用いるかに影響する。
西方教会(カトリック教会、聖公会、ほか一部プロテスタント)はこの晩餐を過越の食事と捉え、ミサ・聖餐式においてパンは種入れぬもの(無発酵パン)を用いる。カトリック教会の教えでは、晩餐の中で最も驚くべきことはエウカリスチア(聖体)の秘跡が制定されたとされる[2]。他方、東方教会(正教会など)ではこの晩餐を過越前の食事であると解釈し、かつギリシャ語聖書原文にある「άρτος」(アルトス)は発酵パンを表す事を根拠とし、聖体礼儀で種入りパン(発酵パン)を用いている[3]。
ヨハネによる福音書には、パンと葡萄酒についての言及はない。その代わりにヨハネ福音書では夕食の時、弟子たちの足をイエスが洗う。聖木曜日夕方に、一部の教会で行われる洗足式は、これにちなんでいる。
死海文書
死海文書の研究から、この場面は、クムラン教団(またはエッセネ派)の、聖宴に関する規定に由来するという指摘がある。その規定によれば、パンと葡萄酒が祭司のもとに集められ祝福の祈祷を終えた後、祭司が最初に手をつけてから他の信者に配られたとされている[4]。
最後の晩餐の場所
最後の晩餐が行われた場所ははっきりしないが、西方教会では伝統的にエルサレムのシオンの丘の「ダビデの墓」(David's Tomb)にある建物の「上の部屋」(The Cenacle)であるとして保存している。「ルカによる福音書」22章9 - 12節には
- (弟子の)二人が「どこに(過ぎ越しの食事を)準備いたしましょうか」と言うと、イエスは言われた。「(前略)、すると(家の主人が)席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備しておきなさい。」二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過ぎ越しの食事を用意した。
とある。この「上の部屋」は「使徒言行録」1章13 - 14節にも登場して、聖霊降臨が起こった場所ともされる。
- 彼ら(使徒たち)は都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。
東方教会のコプト正教会では聖マトフェイ修道院(アラビア語版)で最後の晩餐が行われたとしている。
芸術作品
この場景を描いた作品は多く、特に題材に因んで教会の食堂の壁画として描かれる事が多いが、その中でもレオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』がもっともよく知られている。
脚注
出典
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
最後の晩餐に関連するメディアがあります。