栃煌山雄一郎
栃煌山 雄一郎(とちおうざん ゆういちろう、1987年3月9日 - )は、高知県安芸市出身[2][注釈 1]で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は影山 雄一郎(かげやま ゆういちろう)、愛称はカゲ。身長188cm、体重155kg[4]、血液型はA型。得意手は右四つ・寄り・もろ差し・押し。最高位は東関脇(2010年11月場所、2015年7月 - 2016年1月場所)。好物は豚カツ。[5]趣味は読書、寝ること。いわゆる「花のロクイチ組」の1人[6]。現在は年寄・清見潟[7]。 人物入門前影山が相撲を始めたのは小学2年生の時であり、父親に頼んで地元の安芸少年相撲クラブに入団した。小さい頃から体が大きく同級生たちと比べても頭ひとつふたつ抜きん出ていたが性格はおっとりとしていた。父方の祖父が相撲好きということもありテレビの大相撲中継をよく観ていた。また安芸市は相撲が盛んな町だったため自然と角界への憧れは育まれていった。だが虫を怖がるなど臆病な面を持ち合わせていた影山は相撲の稽古でも弱音を吐いてばかりいた。「はじめは稽古がきつくて、休みが1日もなかった。それで相撲が嫌いになって、逃げてばかりいました」と本人が当時の様子を証言しており、上級生に引き戻されては「やめたい」と嘆くことを繰り返していた時期もあったという。母親はそんな影山を「いつまで続くやろうね」というぐらいの気持ちで見守っていた。相撲を習い始めた頃は相当期待薄であったようであり、両親が初めて稽古を見に行った時の影山は自分よりも小さい子と組み合っては「痛い」「触るな」「あっちいけ」と叫びながら相撲を取っており、当時これを見た両親は「ダメだ、これは」と落胆してその場を後にしたという。それでも影山は負けず嫌いの性格で相撲をやめず、日々の稽古を積んでいくうちに精神的にも逞しく成長していき、4年生になると「やめたい」と漏らすこともなくなった。4年次からわんぱく相撲の全国大会に出場するようになり、6年時にはわんぱく相撲大会でベスト16、全日本小学校相撲優勝大会ではベスト8に入るなど実績を挙げるようになった。わんぱく相撲の全国大会に出場した際には相撲部屋に宿泊した経験もあり、4年時は鏡山部屋、5年時は北の湖部屋。そして6年時には後の所属先である春日野部屋に泊まった [8]。 その後当時相撲部の監督を務めていた吉田道彦を「稽古の鬼」と仰ぎその吉田の指導を受ければ自分は強くなれると信じて安芸市立安芸中学校に進学する。吉田は入学前から影山に光るものを感じていたが差し身が自然にできていたことに関して「差したり、まわしをとることで楽を覚えたら、雄一郎の伸びが止まると思った。」と感じ、投げや相手を崩す技は全く教えずひたすらぶつかり稽古を課して出足を鍛えた。中学2年時に全国中学校体育大会(以下、全中)の団体戦決勝で1-2と惜敗したことをきっかけに吉田は影山の母親や学校にも協力を仰ぎ増量を敢行し、1日5食の食事稽古をこなした結果として2年夏の時点で75kgしかなかった体重を1年後に120kgまで伸ばした。こうした努力が実り、準々決勝で宿敵・澤井豪太郎(現・年寄「武隈」、元大関・豪栄道)を寄り切るなどの活躍を果たしたことで3年時の全中団体戦を制し、個人戦でも中学横綱のタイトルを得る[9]。 明徳義塾高進学後も、小学校時代からのライバル埼玉栄高の澤井と切磋琢磨して、良き関係を築いた。高校時代は浜村敏之監督(当時)の指示の下にあっても稽古には難なくついて行き、自身が「一番きつかった」と語る腕立て伏せによって肩関節が鍛えられ、それまで脱臼しやすかった肩が負傷することもなくなった[10]。1年生の時には既に春日野部屋に勧誘され、最初は1学年下の立野(のちの十両・千代桜)をスカウトしに来たのかと思っていたが親方から「今のお前じゃ幕下にも勝てないな。でも、鍛えれば強くなるよ」と本音で誘ってくれたと思って気持ちが傾いた。3年生の秋に春日野部屋に体験入門したが、本当に部屋の幕下には勝てなかった[11]。 入門から新入幕まで大学進学も検討していたが、高校卒業直前には2005年1月場所に澤井と同時に初土俵を踏む。入門当初はおっつけや摺り足に課題があり、稽古で改善を重ねていった。[10]そうして初土俵から勝ち越しを続け、同年11月場所では7戦全勝で三段目優勝を果たし、翌2006年1月場所に幕下へ昇進し、西幕下3枚目の位置まで番付を上げた同年5月場所では5勝2敗という好成績を挙げたものの、幕下に陥落する力士が少なかったために場所後の十両昇進はならなかった。翌7月場所でも東幕下筆頭の位置で6勝1敗という好成績を挙げて、初土俵から1回も負け越すことなく、翌9月場所において新十両へ昇進した。初土俵から所要10場所での十両昇進は貴花田・朝青龍・露鵬・時天空と並ぶ史上9位タイのスピード記録となった。また、十両昇進と同時に四股名を本名の「影山」から「栃煌山」へと改めた。「栃煌山」という四股名は、春日野親方と母親が相談して決めた。春日野部屋の多くの力士がつける「栃」、そこから煌めいて欲しいとの思いを込めて「煌」、そして本名の影山から「山」をとり、「栃煌山」となったま。また当初は「とちおうやま」と読ませる予定だったが、実母の「濁点を含んだほうが力強く聞こえる」と言う提案を踏まえ「とちおうざん」となった。実は栃煌山自身は、記者会見当日まで四股名を知らされておらず、「記者の人たちに“四股名、どう思いますか?”“どういう由来ですか?”と言われたのですが、その時に初めて聞いたので返答に困りました」という[12]。 新十両の昇進会見では、色紙に「横綱になる」と記している。十両昇進当時は将来の横綱昇進は確実とまでその才能を評価され「和製朝青龍」とその才能を表現する向きもあった。 新十両となった2006年9月場所では9勝6敗と勝ち越し、西十両2枚目の位置まで大きく番付を上げた翌2007年1月場所では10勝5敗の好成績を挙げ、霜鳥と豊響との優勝決定戦に進出した。優勝決定戦は豊響が制して十両優勝はならなかったものの、翌3月場所において新入幕を果たした。初土俵から13場所での新入幕は旭富士・貴花田・武蔵丸・豊真将に続き史上9位タイのスピード記録となった。 入幕から三役昇進まで新入幕の場所に際して栃煌山は幕内の勝ち越しを目標に掲げていたが、師匠の春日野親方(元関脇・栃乃和歌)は期待を込めて10勝と敢闘賞獲得を命じた。その2007年3月場所では前に出る相撲が冴えて、終盤まで優勝争いに参加する活躍を見せ、11勝4敗の好成績を挙げて初の敢闘賞を受賞した。西前頭4枚目の位置へ昇進した翌5月場所では6勝9敗と自身初となる負け越しを経験した。続く7月場所では左肩関節を脱臼して11日目から休場し、翌9月場所では10日目の時点で7勝3敗という成績を挙げていながら、11日目から5連敗を喫して7勝8敗と負け越してしまった。のちにこの不振を栃煌山が「その頃は(顔を)張られたら、すぐに横向いてしまって、当たり削がれちゃうことがあったんです。ひとりがそれをやったら、それを見た他の力士も張ってくるようになった。“幕内は研究してくるんだな”と思いましたね」と振り返った様子が伝えられている。[12] 翌2008年1月場所では8勝7敗と新入幕の場所以来となる勝ち越しを果たし、続く3月場所では初日から7連勝して11勝4敗という好成績を挙げて初の技能賞を獲得した。2009年1月場所では初日から8連勝して10勝5敗の好成績を挙げ、自己最高位となる西前頭2枚目まで番付を上げた翌3月場所でも序盤に3大関を破る活躍で8勝7敗と勝ち越しを決め、翌5月場所に新三役となる西小結へと昇進した。その5月場所では6勝9敗と負け越し、平幕へ陥落した翌7月場所では場所の中盤に風邪を引いて体調を崩してしまい、初日から13連敗して2勝13敗という惨敗を喫してしまった。 大関候補へ2010年5月場所で6場所ぶりに西小結へ復帰し、その5月場所では7勝8敗と負け越したものの、東前頭筆頭の位置で迎えた翌7月場所では9勝6敗と勝ち越し、翌9月場所で西関脇へ昇進した。その9月場所では魁皇・日馬富士・琴欧洲という3大関を破る活躍で、11勝4敗と自身初となる三役での二桁勝利を挙げて2回目の技能賞を獲得した[注釈 2]。東関脇となり、大関昇進への足固めが注目された翌11月場所では5日目までは4勝1敗と順調な成績だったものの、6日目から7連敗して結果的に7勝8敗と負け越してしまい、東小結となった翌2011年1月場所でも6勝9敗と負け越して三役から陥落した。 2011年1月場所後に定年退職した清見潟親方(元前頭・大竜川)に代わり年寄名跡・清見潟を取得した。同年11月場所は4日目の安美錦戦で踝付近を痛め、10日目の若荒雄戦で悪化させてしまい、11日目から右足関節捻挫(外側靭帯損傷)のために休場した。 2012年5月場所では、東前頭4枚目の位置で9日目に早々に勝ち越しを決め、10日目に旭天鵬と11日目に豊ノ島に敗れたものの、12日目には単独で優勝争いの先頭を走る大関・稀勢の里を破り、14日目には新大関の鶴竜を破る活躍を見せ、千秋楽まで優勝争いに絡んだ。千秋楽では対戦相手の琴欧洲が休場したために不戦勝で、同じ3敗で並ぶ稀勢の里と旭天鵬のそれぞれの本割の勝敗を待つ形となり、その結果、千秋楽に勝利した旭天鵬との12勝3敗での史上初の平幕同士の優勝決定戦となった。優勝決定戦では旭天鵬に敗れて優勝はならなかったが、2回目の敢闘賞を受賞。2010年11月場所以来となる関脇へ復帰した翌7月場所では4勝11敗という大敗に終わったものの、翌9月場所では10日目に白鵬を破り自身初となる金星を獲得し、9勝6敗と勝ち越しを決めて初の殊勲賞を受賞。11月場所では3大関に勝ち10勝。三役に復帰した2013年1月場所でも3大関(鶴竜・稀勢の里・琴奨菊)を破るなど8勝7敗と勝ち越し、新関脇だった2010年9月場所以来となる三役での勝ち越しを果たすと翌3月場所は4大関(琴欧洲・琴奨菊・稀勢の里・鶴竜)を総なめにする活躍で10勝5敗と2010年9月場所以来の三役での二桁勝利を挙げた。7月場所でも3大関に勝ち10勝。栃煌山はこの年に、年6場所中5場所で三役を務めるなど安定感を増した一年となった。 小結で迎えた2014年1月場所では11勝4敗の好成績を収め、3月場所では2場所ぶり関脇に復帰したが豪栄道と琴欧洲の両関脇も勝ち越していたため、2011年9月場所以来の3関脇となった[13]。5月場所は横綱・鶴竜と大関・琴奨菊を破り、10勝5敗と新関脇だった2010年9月場所以来となる関脇での二桁勝利を挙げた。7月場所は場所前の稽古で痛めた左肩に苦しめられ7日目まで2勝5敗と振るわず、相撲協会に「反復性左肩関節亜脱臼で1カ月間の休養を要する」との診断書を提出して中日以降を休場した。[14]東前頭8枚目まで後退した9月場所は怪我の影響でぶっつけ本番で挑んだものの、千秋楽までの6連勝もあって11勝4敗と復調ぶりを見せた。[15]次の11月場所は東前頭筆頭まで番付を回復し、この場所では6日目まで1勝5敗と足踏みしたものの、そこから追い上げて千秋楽に勝ち越しを果たした。栃煌山は場所を終えて「(今年は)けがのない場所がなかった。壊れない体にしたい」と2014年の総括と今後に対する意気込みを語っていた。[16]翌2015年1月場所は小結に復帰(西小結)。その場所は千秋楽に負け越しが決定したが、大関・琴奨菊と横綱・鶴竜を破った。東前頭1枚目で迎えた3月場所で10勝を挙げ、一場所で三役に返り咲く。東小結として迎えた5月場所は8勝7敗と勝ち越し、7月場所は東関脇として10勝を挙げ、殊勲賞を獲得。その後も関脇の地位を守っていたが、2016年1月場所で7勝8敗と負け越し、平幕落ちの危機となるも他の力士の成績の関係上小結として3月場所を迎えた。しかし3月場所も大関以上には全敗を喫するなど調子が上がらず4勝に留まった。2016年7月場所では前頭筆頭で土俵に上がり、3日目に横綱・鶴竜に勝利し金星を記録。[注釈 3]優勝争いをしていた綱取りの稀勢の里を破るなど3大関を倒し8勝7敗で三役復帰への勝ち越しとした。12月8日に行われた冬巡業大牟田場所では稀勢の里と三番稽古をして2勝8敗と圧倒される様子が報じられた[18]。2017年1月場所は足の故障の影響もあり、3勝12敗と本来の姿からは程遠かった。3月場所で大阪入りする前は治療に専念。中国針を5cm以上も体内に刺し「声が出るほど痛かったけど、やったあとは楽になった」としっかり戦える体になって場所を迎えた[19]。およそ6年ぶりの二桁番付となる東前頭10枚目まで番付を落とした3月場所は、本来の調子ではないもの下位力士との地力の違いを見せつけ9日目にこの場所の平幕で第一号となる勝ち越しを果たした[19]。11日目の時点で10勝1敗と好調だったが、12日目に妙義龍に敗れて優勝争いから後退すると、残りも全て敗れて結局10勝5敗だった。因みにこの場所ではまわしを締める位置も、3cmほど高くした。「先場所までは腹がまわしの上に乗って、背中が反って腰に負担があった」という[20]。5月場所は9日目の稀勢の里戦で金星を獲得。「(稀勢の里は)けがはしていますが、本当に強い。そういう相手に力の限りを出して勝ったのは良かったし、満足」と金星獲得についての感想を取組後に述べている[21]。稀勢の里戦終了時点で5勝4敗であったがこの取組以外では三役以上には勝てず、終盤失速して6勝9敗の負け越し。7月場所はその辺りの地位に上がってくる星の力士が少なかったため、幸運にも1枚半下降の西前頭5枚目の地位で踏みとどまった。その7月場所は14日目に白鵬が13勝目を挙げて3敗であった自身の優勝の可能性が無くなるまで優勝争いに加わり、最終的に12勝3敗の好成績。技能賞候補に名前が挙げられたが、受賞はならなかった[22]。8月20日の大相撲秋巡業旭川場所では高安と三番稽古を13番行い、7勝6敗と勝ち越し。1年ぶりの三役復帰の可能性が高かった状況で「そんなに時間もない。しっかりやらなければ」と栃煌山は話した[23]。8月27日、6月19日に滋賀県大津市出身の会社員の女性と婚姻届を提出したことが分かった[24]。9月場所は1年ぶりの三役となる西小結の地位で迎えた。場所2日目の11日に長女が誕生したが、この日を白星で飾ることはできなかった。初日からの4連敗が響く形となり、6勝9敗の負け越しに終わった。[25][26]。11月場所は西前頭2枚目の地位で迎えた。初日からの上位陣との取組に1つも勝てず、中日負け越しを喫した。9日目の荒鷲戦に勝って初日を出し、4勝11敗で場所を終えた。2018年1月場所は序盤から白星を先行させたものの、11日目の阿炎戦で左肩を負傷。「左大胸筋肉離れで全治1カ月」と診断され、翌12日目より休場した[27]。場所成績は6勝6敗3休。翌3月場所は1年ぶりに幕内の二桁の番付となったが、先場所の怪我の影響から場所前に殆ど稽古が出来ず、関取衆との稽古は場所当日にようやくできるという状態であったことが伝えられた。序盤5日間は不戦勝もあって白星を先行させたものの、調整不足は顕著であり6日目から失速。結局5勝10敗と二桁の負け越しとなった。幕内の二桁番付で負け越すのは自身初めてとなる。5月場所は東前頭15枚目まで番付を落としたが、8勝7敗と5場所ぶりの勝ち越し。7月場所前の稽古では、部屋の大関である栃ノ心に対して5分の相撲を取るなど好調が伝えられた。迎えた7月場所は稽古場での好調そのままに序盤から星を伸ばし、11日目を終えた時点で9勝2敗と優勝次点の位置に付けた。しかし12日目、13日目と連敗し、優勝争いから脱落。14日目にはここまで1敗の御嶽海と割が組まれたが、これに敗れて目の前で優勝を決められることになった。それでも千秋楽は小結の玉鷲を破っておよそ1年ぶりの二桁となる10勝を挙げた。東前頭2枚目で迎えた11月場所は、初日からの5日間で1横綱、2大関、2関脇を破る快進撃を見せて序盤戦における主役となった。以降は調子を落として8勝7敗の成績に留まったものの、久しぶりに幕内上位の地位での勝ち越しと金星獲得を達成した。 2019年初場所3日目に稀勢の里に勝利し、横綱から通算6個目の金星を獲得。この敗戦で稀勢の里は、横綱として単独ワーストの8連敗(不戦敗を除く)となり翌日に引退を表明、最後の対戦相手となった。しかし、この場所は13日目に正代に押し出されて負け越しが決まり、結局は6勝9敗に終わった。 場所後の2月11日には自身の結婚披露宴を東京都内で開催。師匠、一門の大関・豪栄道、出羽海一門の親方衆などを始めとして約500人が披露宴に出席。結婚から1年8ヶ月経っての披露宴は、2004年に死去した夫人の父の命日に行われた。弟弟子の栃ノ心からは記念品としてジョージア特産のワインを贈呈され、歌手の藤井フミヤがヒット曲『TRUE LOVE』などを熱唱した[28]。挙式直後の3月場所は東前頭4枚目で迎えたが、初日白星の後8連敗で早くも負け越しが決まってしまう。その後も4連敗を喫するなど絶不調で、3勝12敗と大敗を喫した。翌5月場所は西前頭11枚目に大きく番付を下げたが、6勝4敗で迎えた11日目から5連敗。6勝9敗に終わった。7月場所は東前頭12枚目とした4枚半の地位で場所を通して波に乗れず、5勝10敗と大きく負け越し。9月場所は幕内には下に1枚しかない西前頭16枚目の地位で土俵に上がり、6勝5敗の12日目から4連敗。6勝9敗と負け越し。これにより、新入幕以来74場所守り抜いた幕内の地位を手放すこととなった。11月場所は東十両2枚目で10勝5敗と1場所での幕内復帰を確定させた。12月6日、インフルエンザ感染により冬巡業を離脱。4日の宿舎で同部屋だった碧山は「(栃)煌山関はつらそうだった。寝てるようで寝てない状態だったと思う。熱も40度近く出ていたから」と心配した。このインフルエンザは栃煌山に限らず協会員10人がこの冬巡業で感染を確認されるなど流行している模様であった。約2週間後の18日に両国国技館の診療所で行われる予定の予防接種を待たずして角界がインフルエンザ渦に見舞われる形となった[29]。返り入幕の2020年1月場所は東前頭16枚目で迎え、この場所は中盤に星を稼いで9勝6敗と勝ち越しを決めた。翌春場所は西前頭10枚目で迎えるも、初日から10連敗するなどの不振で3勝12敗で取り終えた。翌7月場所は番付を十両に下げていたが、場所前の7月15日に現役を引退した[7]。 引退後2020年7月15日、現役引退後と年寄・清見潟襲名が発表された[7]。師匠の春日野とともにリモート会見に出席し「一つの区切りがついたと思う。子どもの頃からずっと相撲しかやってきてなかったので、寂しい気持ちはある」と話した[30]。「次に十両に落ちた時は、もう自分の区切りをつけようと思っていたので」と引退した理由について語っており、妻には「やめることになった」と引退を決めたことを簡単に説明したという。部屋の栃ノ心、碧山は最初は寂しそうに「まだまだやれますよ」と惜しんだが次第に引退を受け入れてくれた。指導者としての抱負は「相撲に対して真面目で、我慢強く粘り強さをもった、そういう力士になれるように育てていきたい」と語っていた[31]。 2021年11月10日、2022年1月30日に予定している引退相撲の升席観覧券が、春日野部屋がある墨田区のふるさと納税の返礼品となっていることを明らかにした。報道陣の代表取材に「(返礼品は)相撲に興味を持ってもらう一つのきっかけになればと思った。自分としても縁が深い墨田区の力に少しでもなれれば」と話した[32]。 2022年1月30日に両国国技館で引退相撲が行われた。同学年の13代二所ノ関や前日、29日に断髪式をした14代武隈ら出羽海一門の親方衆はじめ、横綱・照ノ富士、大関・御嶽海、部屋の平幕・栃ノ心らが、はさみを入れた後、最後に師匠の春日野親方が止め鋏を入れた。整髪後、来場したファンに「皆さんが納得するような成績を残せませんでしたが、たくさんの応援のおかげで栃煌山らしい相撲を取ることが出来ました。自分がなし得なかった横綱、大関、優勝できる子を育てるように頑張ります」と決意を語った[33]。 2月4日、協会は清見潟が新型コロナウイルスに感染したと発表[34]。 取り口もろ差し・右四つ・押しが得意である。来歴にあるように、差し身は中学時代には既に自然と身についていた天性のものである。2012年頃までは押し相撲を基調としていたが2013年に入ってからはもろ差しが主体の四つ相撲を取るようになっていった。現役終盤ではほとんど押し相撲を見せることがなくなり、差せなければ相撲にならない[35]ほどで、それだけ四つ相撲を徹底していた。栃煌山の場合は体を左右にぶらして右や左を差すのではなく頭で当たってから下から掬い上げるような方法でもろ差しを行う[36]。おっつけも使用するが、これは入門前にはなかった武器で入門後に夜稽古で鍛えたものである。栃煌山はおっつけについて「高校時代までは、当たって体を活かして前に出るだけ。おっつけなんてできませんでした。でも、高校3年生の体験入門の時、ケガで幕下に落ちていた栃乃花関と稽古して、右から強烈におっつけられたんですよ。左肩が外れるかと思ったくらい。驚きましたね」「入門して間もない頃、電話番をしていたら、ケガで十両から序二段に落ちていた栃不動関が、復帰を目指して幕下の棟方さんとおっつけの稽古をしていたんですよ。それを見ていたら、『お前もやるか』と誘われて、教えてもらいました。廻しは締めないで、上半身裸になってでしたけど、あれが今の自分のおっつけの基礎になっていると思います」と後に話している。[11]元隆乃若の尾崎勇気は差し身のうまさについて概して「押す力と最初に差した腕を返すことで相手の上体を起こして差し手争いを制する」と評している[37]。 立合いが決まれば速攻相撲で勝利するが、相手十分の体勢を許すと全く抵抗できずに敗れることが多い。以前は相手の引き技や叩き込みに弱くバッタリと前から落ちることが目立っていた(琴錦はもろ差しに拘りすぎて攻め方がわからなくなるからと指摘している)[36]がその後はそれが多少減り、逆に引きや叩きで勝つこともある(2012年9月場所の白鵬戦での金星など)。同じく2012年頃から差し身のよさを生かした肩透かしも新たな取り口として加わっている。 2013年から2014年頃は白鵬にとったりで負けるパターンが多かったが、裏を返せば横綱にとったりを行わせるほどの当たりの強さを持っていた。同時期の栃煌山は185cmの身長が数値ほど高く見えなくなるようなしっかりとした腰の割り方をしていた[38]。それ以降も、白鵬はなにかと意識があるようであり、2015年11月場所では立ち合いに際して猫騙しを仕掛けたり、翌2016年1月場所から4場所続けて、横綱が変化したり手を出すような、他の力士相手ではあまり見せない立ち合いを見せることもあった。栃煌山は白鵬のかち上げを怖がっている節があった[39]。星取表に現れる特徴としては、序盤の出遅れが目立つ[40]。 ベテランの域に入ってからは立合いから自然と変化する相撲も増えた[41]。2018年から2019年ごろには怪我や馬力の低下が伝えられ、相撲に重みが出なくなったため、四股、すり足、鉄砲、股割りなどの基礎運動を見直して体を作るようにした。同年7月場所では「1歩目はよくなってきたんですけど、まだ2歩目以降でなかなか力が(相手に)伝わらない」とこぼしていた[42]。[43]。 現役時代は師匠から「やりすぎだ」と怒られるほど稽古をしていた。そこまで熱心に稽古していた理由として、運動音痴な自分だからこそ好きで始めた相撲は強くなりたかったという気持ちがある。また、引退後に相撲の幅の狭さ、取り口の柔軟性の低さを自覚するところを語っていた[44]。 合い口(以下は最高位が横綱・大関の現役力士)
(以下は最高位が横綱・大関の引退力士)
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
略歴
エピソード取組関連
懸賞金関連
その他
主な成績通算成績
各段優勝
三賞・金星
場所別成績
改名歴
出演脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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