豊ノ島大樹
豊ノ島 大樹(とよのしま だいき、1983年6月26日[1] - )は、高知県宿毛市出身で時津風部屋に所属した元大相撲力士、タレント、YouTuber[2]。本名は梶原 大樹(かじわら だいき)、愛称はカジ、いきちゃん。身長168cm、体重154kg、血液型はA型、星座は蟹座。得意技は左四つ・下手投げ。嫌いなものはグリーンピース、レーズン、溶けていないチーズ[3]。趣味は音楽鑑賞、カラオケ、釣り、ボウリングなどと多種多様である。最高位は東関脇(2012年5月場所)。 座右の銘は「三年先の稽古」。小学生のときに相撲を教わった恩師の言葉だという。その言葉は自身のブログのタイトルにもなっている。また、自身と同じブログ力士である、雅山、普天王らとも仲が良い。下戸であり酒は飲めない。持病としててんかんを持っている。妻は元歌手の竹内沙帆[4][注 2]。はとこに女子サッカークラブAC長野パルセイロ・レディースの國澤志乃[5]、元純烈の小田井涼平は三従兄弟[6]。 来歴出生~アマチュア時代豆腐店の長男として生まれる。小学校時代、毎朝特大のおにぎり6個(米6合分)を食べて登校するなどして力士としての素養を磨いていた。小学校1〜3年生まではサッカーをやっていた。宿毛市立片島中学校2年時に全国中学校相撲選手権大会の団体決勝戦の先鋒戦で、後のライバルとなる菊次一弘(琴奨菊)と初対戦となり、下手投げで下している[7]。3年時に全国都道府県中学生相撲選手権大会で個人・団体優勝を果たし、高知県立宿毛高等学校へ進学後、2001年に行われた宮城国体では県少年選抜チームの1人として相撲競技の団体優勝に貢献した。因みに、宿毛高校相撲部時代の恩師は土佐ノ海の弟であった。 大相撲入門後高校卒業直前の2002年1月場所に初土俵、父親の知人が時津風部屋の後援会長をしていた縁もあり、時津風部屋に入門。新弟子検査では身長が足りず第二検査に回るも120kgの身体ながら50m走を7秒台後半で走った[8]。同期入門に中学時代からのライバルであり親友でもある菊次一弘(のちの大関・琴奨菊。現・秀ノ山)がいて、序ノ口、序二段では琴菊次との優勝争いを制している[9]。 なお、入門から1年頃に稽古や雑用が辛くて脱走を考えたこともあるが、まず追っ手から逃げながら本州から四国に帰るのが困難だと諦め、結果的に脱走せずに済んだ。 2004年5月場所に新十両へ昇進し(西十両13枚目)、第二検査受検合格者としては初の関取となった。十両は2場所で通過し、同年9月場所に新入幕(西前頭15枚目)。その場所では6勝9敗と負け越し、翌11月場所は十両へ陥落(東十両筆頭)するも、翌2005年1月場所で再入幕(東前頭17枚目)。同年7月場所は東前頭16枚目で6勝9敗と負け越し、翌9月場所には再び十両へ陥落(西十両筆頭)。その場所では14勝1敗の成績を挙げて初の十両優勝を果たし、翌11月場所において2度目の再入幕を果たして以降は幕内に定着した[9]。 2007年1月場所では優勝争いに絡む活躍を見せて、12勝3敗の好成績を挙げて初の敢闘賞と技能賞を受賞した。自己最高位となる西前頭筆頭にまで躍進した翌3月場所でも2大関を破る活躍を見せて8勝7敗と勝ち越しを決め、翌5月場所では新三役となる小結への昇進を果たした。これも第二検査合格者としては初の快挙である[9]。 しかし、2007年4月30日に時津風部屋へ出稽古に出向いてきた横綱・朝青龍との稽古中に、右膝と足首の靱帯を負傷した[10]。豊ノ島は全治2週間と診断され、朝青龍には大きな批判が寄せられたが、豊ノ島自身は自身のブログで「稽古中の事故」としている。同年5月9日には時津風親方(元小結・双津竜)が休場の可能性を示唆したが、10日には怪我が完治していないものの強行出場することを明らかにした。その初日に朝青龍と対戦したものの、立合いからすぐに豊ノ島が腰から落ちて敗れてしまった。結局、この5月場所では豊ノ島は4勝11敗と大きく負け越してしまった[9]。翌7月場所でも怪我が完治していない中で出場したが、結果的には7勝8敗と負け越した。 続く同年9月場所では、11日目に横綱・白鵬から自身初となる金星を挙げ(白鵬が初めて配給した金星でもあった)、さらに琴欧洲・琴光喜の2大関を破る活躍を見せて8勝7敗と勝ち越し、初の殊勲賞を受賞した。しかし、この9月場所の直後に時津風部屋力士暴行死事件が発覚し、それ以降、自身のブログの更新を自粛していた。 2008年1月場所と続く3月場所ではいずれも6勝9敗の成績に終わった。一時期は147kgまで体重が増加し、さすがに廻しが取れなかったりする弊害が出てきたため、体重を142kgまで絞った同年5月場所では11勝4敗の好成績を挙げた。それでもまだ腰にかかる負担が多かったのか、西小結の位置で迎えた翌7月場所では腰にM字型のテーピングをしながらの出場となったが、初日に土俵際の捨て身の投げで朝青龍を破り、3日目には前場所に優勝した琴欧洲を破り、10勝5敗という好成績で三役では初となる勝ち越しを果たし、翌9月場所では関脇へ昇進した。時津風部屋からの関脇は蔵間以来30年ぶりのこととなった。その9月場所では6勝9敗と負け越し、翌11月場所では平幕へ陥落した。9月場所では負け越したが2場所連続で朝青龍に勝ち、11月場所では4大関に勝利した。 2009年1月場所では西小結へ復帰したが、7日目の魁皇戦で小手投げで敗れた際に左肘を負傷してしまい、翌8日目からは休場した。休場は自身初のこととなった。その後の数場所は幕内中位であまり芳しい成績は収められなかったが、2009年11月場所において11勝4敗の好成績を挙げて2回目の技能賞を受賞した。 2010年1月場所では東前頭筆頭の位置で8勝7敗と勝ち越しを決め、翌3月場所では関脇へ復帰した。しかし、同年6月に発覚した大相撲野球賭博問題に関与したという理由により、謹慎処分を受けて同年7月場所を全休し、翌9月場所では十両へと陥落してしまった。なお、大相撲野球賭博問題に関しては、本人は2011年3月3日に賭博開帳図利容疑で書類送検されている[11][12]。 西十両筆頭の位置まで番付を落す2010年9月場所では、幕内経験を生かした圧倒的な強さを見せ付けて、14勝1敗の成績を挙げて2回目の十両優勝を果たした。再入幕となった翌11月場所では3日目に旭天鵬に敗れた以外は連勝を続け、把瑠都・魁皇の2大関も破る活躍で千秋楽まで優勝を争い、14勝1敗の好成績を挙げて優勝決定戦まで進出した。千秋楽では稀勢の里を破ったが、その取組は、左四つから稀勢の里が先手を取って寄り詰めるが、豊ノ島は土俵際で左にうまく体を開き、体勢の崩れた相手を押し倒した、という内容であった[13]。優勝決定戦では横綱・白鵬に敗れて優勝は逃したものの、3回目の敢闘賞と3回目の技能賞を同時に受賞した[9]。 しかし、2010年11月場所における関脇・栃煌山と鶴竜が揃って7勝8敗で小結に下がり、また小結・栃ノ心と阿覧が平幕に陥落したものの、東前頭筆頭の稀勢の里と西前頭筆頭の琴奨菊が関脇に上がったため、2011年1月場所では三役への昇進を果たせずに東前頭筆頭の位置に留められた。平幕で14勝以上しながら翌場所でも平幕に留められるのは史上初のこととなった。その1月場所では初日に大関・把瑠都を破った後、2日目から7連敗を喫したが、その後は一転して7連勝を果たして8勝7敗と勝ち越しを決めた。小結へ復帰した同年5月技量審査場所では5勝10敗と振るわなかったものの、大相撲八百長問題により多数の力士が引退した影響もあり、翌7月場所では西前頭2枚目とわずかな番付の降下に留まった。その7月場所では9勝6敗と勝ち越し、小結へ復帰した翌9月場所では9日目まで1勝7敗と振るわなかったものの、またもそこから一転して7連勝を果たして8勝7敗と勝ち越しを決めた。前場所と同じ東小結の位置に留め置かれた翌11月場所でも9勝6敗と勝ち越しを果たした。 関脇へ復帰した2012年1月場所では5勝10敗と大敗してしまい、翌3月場所では平幕へと陥落してしまったが、その場所で11勝4敗の好成績を挙げて4回目の技能賞を受賞し、翌5月場所に関脇へ復帰した。その5月場所では9日目に久々に白鵬を破ったものの、取組が組まれなかった琴欧洲以外の5大関には全く勝利できず、最終的には7勝8敗と負け越した。西小結の位置で迎えた翌7月場所では鶴竜・琴欧洲の2大関を破ったものの5勝10敗と大敗した。 2011年4月に同じ時津風部屋の霜鳳が大相撲八百長問題に関与したという理由により引退勧告を受けて引退したため、それまで霜鳳が所有していた年寄・錦島の年寄名跡を譲られた[注 3]。 2013年に入ってからは稽古不足の影響[注 4]で7月場所まで4場所連続負け越しを喫するが、9月場所は初日から4連敗しながらも8勝7敗と5場所ぶりに勝ち越した。翌11月場所は3日目に琴奨菊から不戦勝を得る幸運も手伝って14日目に勝ち越しを手にする[注 5]。 2014年3月場所で小結に復帰(東小結)。小結は2012年7月場所以来10場所ぶり。 2014年5月場所では西前頭4枚目で相撲をとっていたが、13日目に腰を痛め、休場した。本人曰く「同日朝に腰を突然痛め、相撲を取れる状態ではなくなった。ぎっくり腰のような感じ。背筋を伸ばして歩くことができない」とコメントしている。この場所は前日の12日目で負け越しが決まっていた。なお、この場所では6日目に横綱・日馬富士に押し出しで勝ち、3つ目の金星を得ている。休場明けとなった7月場所では12日目に勝ち越しを決め、14日目の隠岐の海戦で不戦勝を得る幸運もあって2012年11月場所以来の2ケタ勝利となる10勝5敗の好成績。翌9月場所は西前頭2枚目まで番付を戻したものの初日の稀勢の里戦で敗れた際に左膝の靭帯を痛め、2週間の治療と安静が必要と診断されて2日目から途中休場。なおこれにより、2日目の対戦相手であった豪栄道は不戦勝の形で大関として初めての白星を得る結果となった[15]。それでも「番付の枚数をあまり落としたくない」[16]という理由で6日目から再出場を果たし、中日に休場を含めての負け越しが確定したものの初日の出た9日目から千秋楽までに6勝するなど終盤に大きく追い上げた。2015年11月場所は5日目の琴奨菊戦で肩透かしを決めたように見えたが行司差し違えで黒星を喫する[注 6]。結局この場所は13日目に負け越しが確定したばかりか14日目から左足底筋断裂により途中休場の憂き目にあった。 東前頭7枚目で迎えた2016年1月場所は、10日目に勝ち越しを決め好調であった。13日目には3横綱を破り無敗だった琴奨菊にとったりを決め勝利し、平幕で唯一終盤まで優勝争いに加わり続けた。14日目の嘉風戦に勝利した際に左膝を痛めた影響で、千秋楽は栃煌山に突き出しで敗れて3敗目を喫し、優勝争いから脱落[17][18](この取組の後、琴奨菊は14勝1敗でこの場所初優勝)。それでも12勝3敗の好成績で場所を終え、優勝した琴奨菊に唯一の土を付けた事が評価されて3度目の殊勲賞を受賞した。 2016年3月場所は、最高位である2012年5月場所の東関脇以来23場所(約4年)ぶりの関脇復帰(西関脇)となった。初日にいきなり横綱の鶴竜を破る最高のスタートを切ったが、2日目から8連敗。9日目にして平幕落ちが確定する。10日目には横綱・日馬富士を破り、意地を見せたが結局3勝12敗と大きく負け越した。7月場所は東前頭11枚目の地位となったが、場所前の稽古中に左足のアキレス腱を断裂したため、休場を発表した[19]。このため、続く9月場所では2010年9月場所以来6年ぶりとなる十両へ陥落した。その9月場所も全休に甘んじ、これにより74場所連続で務めた関取の地位から離れることとなった。三役から4場所後に幕下に陥落したのは史上初の記録であり、三賞受賞から1年以内に幕下に陥落したのも高見盛以来2例目[20]。 稽古中の7月1日、巨漢の逸ノ城の攻めに、豊ノ島が左に回り込んだ時に「バン!」という大きな音と同時に豊ノ島は崩れ落ちた。「誰かに足を引っ張られたようだった。腱が切れた音や感覚は、今も残っている」と豊ノ島は話した。知人がスマートフォンで撮影した動画には、怪我の瞬間が残っている。怪我をした豊ノ島の元へ駆けつけた妻や後援者には当初強がっていたが、その晩に家族だけになると不安に襲われて号泣した。妻は「家のことは心配せず、きちんと直して後悔のないよう相撲を取ってください」と伝えるのが精一杯であった[21]。手術で患部を13針も縫合し、歩くまで1カ月半を要した[22]。熊本市内でのリハビリ中から、土俵に戻ることだけを考えてきた。「最後の一番が稽古場なんて嫌だ」。幕下陥落後は取的と一緒に大部屋で生活している。特別待遇を断り、食事も風呂も若い衆と同じ順番である。「全ては自分自身を奮い立たせるため」と現実を受け入れた[22]。常々より「十両から落ちた力士は1回大部屋に落とすことで『もう1回個室に戻りたい!』という気持ちさせなきゃって考え」を主張していたため、当時32歳のベテランとはいえ自分だけ特別扱いを受ける訳にはいかなかったという事情もあり、既婚者なので東京場所は自宅で妻子と共に過ごしたとして、地方場所の宿舎では若手と一緒に大部屋で過ごしたと、協会退職後に里崎智也との対談で明かしている。大部屋で若手と話していると「そういう面白い事があるのか」「そういうことがあるんだ」と却って刺激を受けたが、2年も幕下暮らしが続くとは思っていなかったため本人も「早く戻りたいなぁ…」と焦った。因みに関取時代は関取が部屋でちゃんこの世話になることについて、自分の金で食事をしなければならないと良くないことと思っていた[23]。 負傷から3ヶ月半の療養を経て、10月22日の大相撲秋巡業高知場所で復帰。この時点では、三段目の当たりを受けて左足で踏ん張れるようになったが、相撲を取れる状態には戻っていない。復帰に際して「もう一度相撲と向き合えるいい経験になった。時天空関は相撲をやりたくてもできなくなった。それを考えたらまだまだできる」と言っている[24]。迎えた11月場所は幕内優勝決定戦進出力士としては北勝力以来、史上2人目の幕下陥落となったが、場所入りに際して「もう一度復活して幕内優勝を狙ってやろうという気持ち。歴史に残るようなドラマチックな力士になろうと思っている」と言い切った[25]。西幕下7枚目の地位で土俵に上がった11月場所は妻からこの場所に際して冗談で「これで勝ち越せなかったら別居だね」と伝えられた中、6番相撲で勝ち越しを果たし、4勝3敗で場所を終えた。勝ち越しを決めた6番相撲の行われた11月24日のちょうど7年前である2009年11月場所10日目の旭天鵬戦では、妻から「勝ち越したら付き合う」と言われて掬い投げで旭天鵬を破り、この日が“交際確約記念日”になったというトリビアがある[26]。 西幕下6枚目で迎えた2017年1月場所では、6日目(3番目)に同7枚目でその後同場所7戦全勝優勝した石橋(十両昇進後朝乃山に改名)に敗れるも、それ以外全勝で6勝1敗の好成績で終えた。1月31日に間垣(元小結・時天空)が死去した際、告別式で「4歳上の弟弟子が『年下のチビには負けられない』とケンカみたいな稽古をしたから、関取にまでなれた。しこ名の通り、天から空から見守って下さい。またいつか一緒に相撲を取りましょう」とコメント[27]。2017年3月8日の稽古中、右ふくらはぎを痛め、3月場所は1番相撲が不戦敗で2番相撲が休場扱いになった。この場所は4番相撲で負け越しを確定させ、7番相撲で1勝したことで場所成績は1勝5敗1休。場所を終え、記者に「来場所につながる白星にしたいか」と問われると、豊ノ島は「もうちょっと白星が欲しかったけど、まだあきらめてないし。時間がかかった方が(関取に)戻ったときに話題性があるでしょ。そう思うしかない」と来場所以降も現役を続ける考えを示した[28]。翌5月場所も3勝4敗と負け越し、7月場所は東幕下28枚目まで番付を落としたが、ここから3場所続けての勝ち越しを決めて番付を戻した。怪我による幕下陥落以降、怪我の影響によるけいこ不足で立合いの鋭さは今一つ[29]。 2018年3月場所は幕内で対戦経験のある琴ノ若の長男である琴鎌谷と5番相撲で対戦して勝利し、勝ち越しを確定させた。この場所は2016年11月場所で幕下に陥落して以降では最高成績タイとなる6勝1敗。7月場所には連続勝ち越しを3場所まで伸ばし、相撲雑誌にも7月場所の相撲について「相撲に重みが戻ってきた。勝った5番は安定感があり、2年ぶりの関取復帰がいよいよ現実となりそうだ」と期待を寄せる声があった[30]。9月場所では幕下西の筆頭で6勝1敗の成績を残し、見事13場所ぶりの関取復帰を果たした。4連勝を決めた6日目には妻と娘への感謝を語りながら大粒の涙を流した。十両復帰報告は家族3人が写った写真をInstagramに掲載して行った[31]。豊ノ島は場所6日目の常幸龍戦が取り直しになった後、「花道の方を見ながら、時天空のことを思い出した」という。取り直しの一番を制して勝ち越しを決め、十両復帰に大きく前進し、思わず涙を流した。「つくり話みたいで言うのが嫌だったけど。自分の形ではない右四つで寄っていったし、時天空が後押ししてくれたのかな」と感慨に浸った[32]。2018年11月場所、2019年1月場所は共に十両の地位で2桁白星であり、3月場所は再入幕を果たして16場所ぶりとなる幕内の地位となった。3月場所番付発表の際、幕内最高優勝を目標に掲げた[33]。その3月場所は11日目の輝戦で負け越しが決定[34]。さらに13日目の佐田の海戦で敗れて10敗となり、下に2枚半番付を残している幕内残留が絶望的になり、翌場所は東十両筆頭に番付を落とした[35]。5月場所6日目の旭秀鵬戦では最初は黒星を喫したかに見えたが、令和初となる十両以上の取り組みにおける物言いが付き、同体ではないかと物言いが付いた中、豊ノ島が尻から落ちるより先に旭秀鵬の右手が着いたと行司差し違えにより白星を得た。行司差し違えも十両の取り組みにおいては令和初[36]。11月場所は場所前に満足な稽古ができず、体重も自己最高の167kgまで増えて太り過ぎてしまった[37]が7日目まで5勝2敗と前半は良好な成績であった。ところが中日から4連敗し、その中で右腕を痛めたこともあって最終的には6勝9敗の負け越し。本人は途中でけがをしたことについて「このケガが前半だったら危なかった。終盤だったことを良しとして前に進んでいかないとね」と捉えている[38][39]。 2020年1月場所、東十両11枚目の地位で4勝11敗の負け越して幕下陥落が決定的となった。去就については千秋楽の大翔丸との取組後に「場所が終わったから、しっかり考えたい。どうなるか分からない」と明言を避けた一方、「今日が最後になるかもしれないと思って」と位置付けていた千秋楽の取組で電車道の相撲を取られたことには心底動揺しており、引退する方向に気持ちが傾いていることを匂わせた[40]。だがこの時点で7歳となる長女に「お相撲さんでいてほしい。普通のお父さんになってほしくない」と言われて翻意し、現役続投を明示。3月場所は幕下で取ることが確定的だが「出てマイナスになることはない。少しも悔いが残らない状態で終わりたい」と話した[41]。 引退2020年3月場所は6番相撲の千代鳳戦で4敗目を喫して負け越しを確定させたが、報道では現役引退せずに翌場所以降に関取復帰を懸けることが示唆された[42]。しかし場所後の4月17日に現役を引退して年寄・井筒を襲名することが発表された[43]。豊ノ島は引退発表後、マスコミの電話取材に応じて「(春場所で)負け越したら辞めると決めていた」「もう一回琴奨菊と当たりたかった」などと語った[44]。最終場所は2019新型コロナウイルス感染拡大の影響で無観客場所となった上に引退会見も行われず、元三役としては寂しい幕引きとなった[45]。家族は引退に抵抗があったが、豊ノ島が妻に「体壊れたらどうするの?」と話すと妻は泣きながら引退の意向を受け入れた[46]。引退に際して師匠の時津風は「ここまでよくケガを乗り越えて頑張ったと思う」と労い「教え方もうまいし、経験したことを親方として指導してもらいたい」と指導者として歩む今後に期待を寄せた[47]。一部報道からは、新型コロナウイルス流行の影響で気力を保てず引退に至ったのではないか、とする考察が見られた[48]。 引退後7月場所5日目の幕内取り組みでNHK大相撲中継解説デビューを果たす。相撲の技術にも話術にも長けており、的確に取組を分析していく解説は好評であった[37]。また、親方として、最後の本場所となった2022年11月場所では、新型コロナウイルス感染の後遺症で休場していた部屋付の枝川親方に代わり、初日だけとは言え、勝負審判を務めていたが、借株の親方が勝負審判を務めたのは立川親方時代に、短期間担当していた元前頭蔵玉錦以来である。 引退相撲および断髪式は2022年5月28日に行われ、合計約400人が参加。芸能界からは浜田雅功、東山紀之らが参加。14代武隈、21代間垣、13代二所ノ関が鋏を入れ、止め鋏は17代時津風が入れた。参列者1人1人が鋏を入れたことに対して「いろいろな方々のおかげで今がある。本当に幸せ者だった」と感想を述べ、今後の抱負を「自分が関脇だったので、豊ノ島以上の力士を育てたいですね」と語った[49]。 2023年1月4日に日本相撲協会に退職届を提出し、同日中に相撲協会より退職が発表された[50]。 退職に対しては自身のInstagramを通じて手書きの文書で「現役を引退した際に相撲界の外の方から何度かお声がけをいただき、親方としてではなく、タレントとして相撲を応援する方法もあるんじゃないか? 豊ノ島ならそれができる」といった後押しと「40歳を契機に相撲協会を離れて外から相撲協会を応援したい」と発表している[51]。 現役時代の実績に優れ、解説者としても優秀な上に相撲普及に熱心な豊ノ島であっただけに、引退後早期に協会を離れたことを惜しむ声もあった[52]。 2023年8月3日、高知県スポーツ応援大使に就任し委嘱された[53]。 2024年12月20日、X(旧ツイッター)を更新し、相撲に特化したYouTubeチャンネルを開設したと発表した[54][55]。
略歴取り口相手の懐に潜り込み、鋭い左差しやもろ差しを決めての速攻相撲を得意とする。小さい体であるにもかかわらずまともに胸を出すような立合いをするのが弱点であるが裏を返せば169cmの小兵でありながら胸から当たっても幕内で通用するという意味であり、元和歌乃山は「176cmの僕より小さいのに胸から行く立合いをするので、それを考えれば器用だ」と評していた[56]。豊ノ島の体質について尾崎勇気(元関脇・隆乃若)は「腰が強く柔らかいので土俵際でよく残された」と現役時代の取組の感触に基づき証言している[56]。浦風は「内容的にはケガをしてもおかしくない相撲だね。見ていてヒヤッとするからね。土俵際であんなにエビ反って大丈夫か」と心配しつつ「そこが余裕になってしまっているから。残れるというね。そこがこの男の持ち味と言えばそうなんだけど」と反り腰・残り腰の強さを評している。[57]朝日山(元関脇・琴錦)は2016年3月場所前の記事で、二本に入った時に肘を曲げているので小手投げを食いにくい点、腹を使って圧力をかけることが上手い点、中に入れない時に安易に組まずに間合いを取る点などが特徴として挙げられている[58]。同じ記事では、下半身は硬いがどんな状況でも足が揃わず腹にためを作って必ず前に足を出していることにも触れている[58]。怪我で幕下に落ちた際に「どうせなら最後ぐらい前に出る相撲で悔いなく終わろう」と意識が変わり、自ら突進して攻める相撲に変わった[59]。 エピソード取組関連
取組以外の相撲関連
メディア出演
趣味・嗜好・交友
その他
てんかん患者として本人は入門当初から既にてんかん患者であることを公表していた。以下、特に断らない限り2022年5月場所後の日刊スポーツのインタビューに準拠して述べる[90]。 最初に発作が起こったのは小学2年生の時。朝、眠っているときに発作が起きたので本人の記憶にはない。病院で丸一日眠り続け、目を覚ますと周囲の者が泣いていたのでびっくりした[91]。 その時に、(頭部に衝撃を受ける)相撲を続けるべきか決断を迫られた。小学校当時の相撲部監督は頭から当たらないという条件付きで梶原少年に相撲を続けさせるように梶原の母を説得していた。頭部への負担を考えて胸から当たる立合いをするようになり、大相撲時代の取り口の起源となった。溺死の危険性があるため体育のプールの授業は母親の立ち合いが無いと学校から許可が下りず、授業中も他の子と見分けがつくように1人だけ白ではなく赤い水泳帽をかぶった。1人で入浴する時は母親が適宜安否確認を行った。その他、遊園地のジェットコースターや川遊びも禁止された。こっそり遊ぶこともできたが、もしもの場合を考えてあきらめた[91]。入門までの間、発作が起きたのは小2、小3、中2の時の計3回。定期的な検査とともに、薬の服用も続けた。 時津風部屋に入門する際には、父に持病のことを隠してはいけないと言い聞かせられた[92]こともあって、師匠はもちろん、部屋の兄弟子たちにもすべて説明した。2022年12月時点では、入門後の21歳の時に1回だけ発作を起こして以来約18年間起こしていない[92]。酒はてんかんへの悪影響があるため飲まない。2020年3月場所限りで引退したが、万が一のことを考えて、車の普通免許は2022年5月時点でも取得していない。 本人は「てんかんだからといって、就職や結婚に影響するケースもあると聞きます。自分は比較的軽度なんですが、(てんかん患者の)親御さんから、大相撲で活躍したことが希望だといってもらえるとありがたいですよね」と言っている。日本てんかん協会ともつながりができ、いくつかの病院では引退相撲のポスターを貼って相互理解に努める動きが生まれた。 元豊ノ島にとって断髪式は鬢付け油の付いた髷を切って再び脳波の検査を受けるのに支障が出ないようにするための意味もある。 また、2023年2月初頭の日刊ゲンダイヘルスケアの取材では「痙攣して泡を吹いて白目をむく……なんて聞くと怖いんですけど、自分はその自分の姿を見たことがないのでいまだに怖さをわかっていないんです。だから、てんかんに対する抵抗感もありません(中略)相撲をやめる発想にならなかったのも、発作時の自分を見ていなかったからだと思います」と自身の気持ちを語っている[93]。とはいえてんかんが発覚したばかりの小学校低学年の頃はいつ症状が起こるかという不安があったという。2023年2月時点では病院から運転免許取得の許可が下りており、時間があればいずれ免許を取得したいとのこと[94]。 豊ノ島のお相撲ちゃん豊ノ島が相撲の魅力や奥深さを伝える番組で、豊ノ島のお相撲ちゃん - YouTubeチャンネルで放送されている。親方・力士・相撲関係者などのゲストを豊ノ島自身でキャスティングしている。
主な成績通算成績
各段優勝三賞・金星
場所別成績
合い口(以下は最高位が横綱・大関の現役力士) (以下は最高位が横綱・大関の引退力士)
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
出演テレビ
ドラマラジオ
Web配信
改名歴
年寄変遷
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
Information related to 豊ノ島大樹 |