北太樹明義
北太樹 明義(きたたいき あけよし、1982年10月5日 - )は、東京都町田市出身の山響部屋(入門時は北の湖部屋)に所属していた元大相撲力士。本名は讃岐 明義(さぬき あけよし)。現役時代の体格は身長184cm、体重150kg、血液型はB型、星座は天秤座。得意手は左四つ、寄り、うっちゃり。最高位は東前頭2枚目(2013年5月場所)。締め込みの色は緑。現在は年寄・小野川。YouTuber。 来歴少年時代東京都町田市出身。町田市立原小学校(現・町田市立本町田小学校)、町田市立町田第三中学校卒業[1]。 小学校1年から4年まで水泳、3年から5年までサッカー(ポジションはGK、通っていたクラブの先輩に北澤豪がいる)、3年から6年まで柔道を経験。相撲の経験は全く無かったが、小学校5年時にはわんぱく相撲全国大会に出場した事がある。 小学校4年生の時に父の知人に紹介されて横浜巡業で北の湖と会い、そのとき北の湖のことを知らなかった讃岐は「こんなにオーラがある人を初めて見た」と感じた[2]。以後も何度か北の湖が家を訪ねて来たが、正式にスカウトする際に「相撲は私が教えるから、習わなくていい。走るスポーツをやりなさい」と言い残した[2]。高校に進学するより普通でない道を行こうと考え、入門を決意。 大相撲入門・現役時代相撲教習所時代は同期生曰く「誰も関取になるとは予想しなかった。」ようであり[3]、教習所の稽古ではB土俵(主に相撲以外のスポーツの経験者が上がる土俵)とC土俵(特にスポーツ経験のない新弟子が上がる土俵)を行ったり来たりしていた[2]。同じ15歳ながら中学横綱のタイトルを引っ提げて各界入りした玉飛鳥にはどう考えても勝てる気がしなかったといい、本人も「博多帯(幕下)は無理だな。雪駄が履ければ(三段目)いいや」とまったく自信を持っていなかった[2]。北の湖部屋付きの21代小野川(元幕内・蜂矢)から厳しく指導され「小さいやつはとにかくおっつけを覚えろ」と教え込まれた[2]。ある日21代小野川に焼肉店に連れて行ってもらった際にも肉を焼こうとすると「俺が焼くから、お前はずっと食べていろ」と限界まで食べさせられた[2]。 後に厳しく指導してくれた21代小野川が死去すると張り合いが無くなり、序二段と三段目を往復する場所が続き苦労したが、2002年11月場所に幕下に昇進。三段目と幕下を往復する場所もあったが、2004年頃から幕下に定着した。幕下時代は「右のおっつけは幕下で一番うまい」とめったに弟子をほめることがない北の湖に褒められるようになった。2006年5月場所では最高位の東幕下5枚目まで番付を上げて関取目前までいったものの、2勝5敗と負け越してしまった。 2007年5月場所では自己最高位を更新して東幕下3枚目まで上昇。そこで5勝2敗と勝ち越し、5月30日の番付編成会議で7月場所での十両昇進を決め、晴れて関取となった。同じ7月場所で新十両になったのは境澤、保志光。北の湖部屋から関取が誕生するのは1998年の北桜以来9年ぶりのことであった(2006年に師匠が逝去し閉鎖となった二十山部屋から移籍してきた白露山は、すでに関取であった)。町田市からの関取昇進は史上初。 なお、幕下にいる間、2007年3月場所に四股名を父の勧めで北大樹から北太樹にかえている。四股名の意味は「地に根を張り、上に向かって大きく育つように」との思いを込めて父が命名した。十両に昇進したら「大」を「太」に変えようと父は考えていたが、なかなか昇進できなかったので昇進前に変えた。 新十両の場所から8勝7敗、9勝6敗と2場所連続で勝ち越した。その後、十両10枚目で迎えた2008年3月場所では肋骨を折りながら11勝を挙げた。5月場所では十両筆頭まで番付を上げて新入幕を目指したが、6勝9敗と負け越した。十両4枚目で再び新入幕を目指した7月場所では左膝半月板を損傷しながらも11勝を挙げ、翌9月場所で玉鷲と共に新入幕を果たした。 しかし、新入幕から2場所連続で負け越したため2009年1月場所で十両に落ち、1年間は十両での土俵が続いた。東十両5枚目だった同年11月場所で10勝5敗とし、徳瀬川・光龍との優勝決定巴戦で連勝して十両優勝すると、翌2010年1月場所で帰り入幕となり、13日目の土佐豊との取組に勝って勝ち越し。それ以降は幕内の地位に定着している。続く3月場所で自身初となる幕内での二桁勝利(10勝5敗)とすると、5月場所では東前頭4枚目まで躍進。上位との取組も組まれたため7勝8敗と負け越したが、この場所では大関・琴光喜を破っている。 その後は、2011年5月技量審査場所で大関の琴欧洲から白星を挙げている。2011年9月場所では10日目に勝ち越しを決め、終盤3連敗したものの場所を10勝5敗の好成績で終えた。その後しばらく幕内中位で過ごした後、2013年3月場所には西前頭6枚目の地位で10勝5敗の好成績を果たしたことで新三役も期待できる状況に立ったがこの場所の三役が西小結の安美錦以外全員勝ち越したことで昇進枠が思うように空かず、結果的に翌5月場所の新三役の座はこの場所を東前頭7枚目の地位での11勝4敗で終えた隠岐の海に譲られる格好となった。 2013年6月には元フリーリポーターの女性と入籍し、同年8月31日に都内で披露宴を行った[4]。その後はあまり調子が上がらず幕内中位での土俵が常となり、東前頭12枚目の地位で迎えた2014年11月場所は、股関節の状態が良くなかったためか、3勝12敗の大敗。これにより、再入幕だった2010年1月場所から5年間(29場所)連続で在位した幕内の座を離れることとなった。 しかし十両に下がった2015年1月場所は東十両3枚目で13勝2敗の十両優勝と格の違いを見せて幕内復帰を濃厚にした。2015年3月場所はわかさ生活から5本の懸賞が懸かるなど8本の指定懸賞が確定、地元力士の大関豪栄道(5本)をも上回り、場所も9勝6敗の勝ち越しに終わった[5]。同年9月29日には第一子となる長男が誕生。出産に立ち会った北太樹は「初めての感覚ですが、感動しました。今までも頑張ろうと思ってやってきましたが、子供の顔をみたら、そういう思いがより強くなりました」と喜びを口にした[6]。 2016年9月場所は西十両14枚目と幕下陥落まで後が無い地位を与えられ、この場所はし2日目から4連敗と出遅れたが、6日目から7連勝して12日目に勝ち越しを確定、最終的に9勝6敗で1年半ぶりの勝ち越しと共に関取維持を果たした。11月場所は10勝5敗と11場所ぶりの2ケタ白星に終わるが、2017年1月場所を4勝11敗で終えると3月場所は東十両11枚目まで番付を落とす。この場所は13日目に8敗目を喫して負け越しを確定させ、14日目にはこの場所東幕下筆頭の阿夢露と対戦。これに負ければ番付運次第で翌5月場所の幕下陥落も有り得たが白星を収めて入れ替え戦は制した。千秋楽も勝って、この場所は7勝8敗と幕下陥落を逃れた。しかし、同年7月場所では東十両12枚目の地位で5勝10敗と負け越し、新十両以来61場所連続で維持した関取の座を手放すことになった。9月場所は西幕下筆頭の地位で4勝3敗と勝ち越すも、この場所は十両から幕下に落ちる星の力士が2人しかいなかったため、場所後の関取復帰を逃す不運に見舞われた。 現役引退2017年11月場所は東幕下筆頭で3勝4敗と負け越し、これが現役最後の土俵となった。翌2018年1月場所初日前日の1月13日に現役を引退[7]し、年寄「小野川」を襲名した[8]。 引退に際して「子どもの記憶の残る3、4歳まではやりたい」と希望していたことを明かし、力士としての相撲人生に悔いはないがそれでも「もう1年ぐらいは相撲を取って(息子に)土俵での記憶が残るぐらいは。残念です」と父親としての悔いは残ったと思いの丈を明かしている[9]。現役末期は股関節の負傷に悩まされ、満足に稽古ができない状況が続いていた。入門時の師匠である北の湖からは、四股、すり足、鉄砲など基本の大切さを叩き込まれ、土俵の外では温かい言葉をかけられたという。「先代には感謝しかない。たくさん教えていただいたので35歳まで相撲が取れたと思う。上半身は(現在の師匠の)山響親方に、下半身は北の湖親方に鍛えてもらった」と話した。現役時代の一番の思い出は、2015年11月場所14日目の正代戦、同場所千秋楽の佐田の海。前者の取り組みで黒星を喫して負け越しが確定したが、後者の取り組みで幕内残留を決めた[10]。引退届提出が取組編成会議後となったため1月場所2日目の割には名前が残っており、同日の志摩ノ海戦は不戦敗扱いとなる。
素質・取り口均整のとれた体格をしており、足腰が強かった。また前述の通り様々なスポーツを経験しているため、高い運動神経を持ち、師匠によると入門当初から目立っていたという。 左四つ得意となっているが、差し身にはこだわらず、左右からのおっつけを生かした押し相撲を見せることが多い。立合いでのかち上げやのど輪も強く、若手時代はむしろ突き押し中心であった。また勝負勘にも長け、速攻相撲を見せる事もしばしば。うっちゃりも得意で、相手は右の上手を掴まれたら土俵際に気をつけなければいけなかった。ただし膝を痛めていることからうっちゃりの頻度は減り、本場所の土俵では2011年7月場所を最後にうっちゃりでの白星が無くなった。 玉ノ井親方は相撲が大き過ぎるのが弱点で、もう少し緻密な攻めが出来れば十分幕内で定着できると評していた。 左膝の怪我が慢性化していた時期があり、2012年7月場所にサポーターを外して本場所の土俵に上がったことが確認されるまで4年もの間において取組中に装着されていた。[11] 年齢を重ねてからも立合いの威力は目立った低下を見せておらず、2016年5月場所7日目の対戦相手である宇良はその取組後に「今日は自分の作戦というよりも(相手の)かちあげに気をつけた感じ。若干かすったけど。かちあげを食らうか、食らわないかの勝負。食らったら死んでましたよ」とコメントしている[12]。 立合いについては2014年1月場所14日目の大砂嵐戦で不成立が3度あったことで相手と共に注意を受け、その時の様子を審判部長の伊勢ケ濱が「北太樹はもともと合わせづらい」と評している[13]。その後も立合いできちんと手を付かないことから、2016年10月28日に行われた土俵祭りの後に師匠の山響が友綱審判副部長から注意を受けた[14]。 エピソード
主な成績通算成績
各段優勝
場所別成績
合い口(以下、最高位が横綱・大関の現役力士) (以下は最高位が横綱・大関の引退力士)
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
改名歴力士
年寄
脚注
関連項目外部リンク
|