四股名(しこな)とは、相撲における力士の名前である。
もともとは醜名と書いた。この場合の「醜」とは「みにくい」という意味ではなく、「逞しい」という意味である。いつからか四股と相まって「四股名」と当て字で書かれるようになった[1]。しこ名と書かれることも多い。
大相撲の制度上は初めて番付に載る前の段階から四股名を名乗ることができる。
日本相撲協会に所属する力士が改名するときは、各場所の千秋楽から番付編成会議までの間に改名届を提出し、編成会議において承認される。
四股名の誕生は江戸時代、興行としての勧進相撲が始まった頃からと考えられている。例えば『信長公記』など戦国時代の歴史書にあらわれる相撲取りは、本名かそれに準ずる通り名などで相撲を取っていた。文献上の醜名の初見は、17世紀前半成立の『大友興廃記』とされる[2]。
職業として相撲を取る者が現れたことで、四股名が用いられる様になったが、当初は古典に登場する豪傑の名を取ったような、荒々しいものが多かった。
由井正雪の謀反事件の後、江戸幕府によって一時期四股名の使用が禁じられた。叛意を持った浪人が来歴を偽って相撲取りの巡業の中に潜伏するようなことを、取り締まるためだった。やがて幕政が安定するとこれも解禁され、谷風梶之助、小野川喜三郎らの活躍する寛政期になると、現在に通ずるような勇ましさだけでなく優雅さを強調した、「山」「川」「花」「海」といった文字を盛り込んだ四股名が使われ始めた。
現在では、「千代の富士貢」の「千代の富士」のように、一般で言う「姓」の部分が四股名だと認識されることが多いが、本来は「姓+名」までが四股名である[注 1]。例えば、現存する最古の相撲部屋の一つである高砂部屋では、師匠が代々「高砂浦五郎」を襲名しているのを始め、部屋ゆかりの四股名にも「小錦八十吉」「朝潮太郎」など姓名がひとくくりになったものがあり、その名残を残している。他の部屋でも、横綱二代目若乃花は本名[注 2]にかかわらず初代と同じ「若乃花幹士」[注 3]を名乗っている。花田虎上は「三代目の若乃花」として報道されることが一般的であるが、花田は現役時代に「若乃花勝」を名乗っており、「若乃花」だけなら確かに三代目であるが、「姓+名=四股名」という本来の法則から考えれば厳密的には三代目には当たらない。 また前相撲を除き、現役力士の四股名や年寄名跡、行司家名(木村・式守)と重複する表記・読みの四股名を名乗ることはできない。呼出と重複する四股名は可能である[注 4]。なお、横綱土俵入りには雲龍型と不知火型があり、不知火型は年寄名跡と被ることもあるため「不知火」を四股名として名乗ることは認められていないことが判っているが、年寄名跡に指定されていない「雲龍」を四股名として名乗ることが許されているかどうかは不明である[3]。また、伝説上の横綱とされる初代から3代までのうち、初代横綱・明石志賀之助と2代横綱・綾川五郎次と同じ「明石」「綾川」の四股名も名乗ることが避けられる傾向にある。「明石」は昭和30年代に2人、「綾川」は明治および大正期に1人、昭和前期に1人の計2人が名乗っていた記録があるが、現在は全く存在していない。
近年の傾向として、かつてほど「山」や「海」が用いられなくなっている。日本人の郷土意識の希薄化と、自然破壊の進行でかつての名勝地でも荒廃が進み、避けられるようになったことが、要因として挙げられる[4]。「川」は、山や海よりも前に若瀬川あたりからあまり使われなくなった(2009年に入りモンゴル出身の德瀬川が十両昇進するも2011年に大相撲八百長問題により引退)。2024年1月場所終了時の番付編成会議後現在、「『川』で終わる」「本名に由来しない」四股名を名乗る現役力士は、泉川・都川の引退により0人となった。川は流れるので星も流れる、足が流れるというので好まれなくなったという[1]。ただし、追手風部屋の遠藤や大栄翔が部屋の由緒ある四股名「清水川」の襲名構想が取りざたされたりと全くの忌み字ではないようである。「○ヶ嶽」の形の四股名も昭和戦前までは多かったが、戦後の関取では、琴ヶ嶽と階ヶ嶽の2人しかいない。駒ヶ嶽が横綱昇進を期待されながら現役で亡くなったり出羽ヶ嶽が悲劇的な土俵人生を過ごしたことから避けられるようになったという。一方、琴欧洲、把瑠都のように郷土を遠く離れた外国出身力士に郷土ゆかりの四股名が目立つが、欧州、東欧などの漠然とした地名[注 5]や「把瑠都」など強引とも取れる当て字の使用に関しては批判もある。現に横綱審議委員を務めていた頃の内館牧子は、安直な名付けであるとして名付け親である親方の責任を問う論調のコラムを寄せていた[注 6]。また、南ノ島勇(南乃島勇の父)はトンガ王国出身ということで「南ノ島」と四股名を付けられたが、勝ち名乗りの際に行司が四股名を忘れてしまい「トンガ〜」と呼ばれたことがある。貴乃花が一時代を築いた頃には「ノ」や「の」よりも「乃」の使用が多くなったり、大鵬の影響で白鵬、旭天鵬等大鵬部屋以外でも「鵬」の付く四股名が増える、他にも朝青龍の影響で、妙義龍、德勝龍など「龍」の使用が増えるなど、大横綱の四股名にあやかった流れが起きた[1]。日本のシンボルである富士山にあやかって「富士」の字を付ける力士も多く、2019年5月場所終了時点で戦後の横綱だけでも5人が「富士」で終わる四股名を名乗った[1]。
音読みの四股名がかなり目立つのも最近の傾向である。現役力士の中に鶴竜、豪栄道、大栄翔などのような音読みだけで構成された四股名の力士がおり、中でも慶天海孔晴などは下の名前も含めて全て音読みというかなり珍しいケースと言える。同じく、1980年代には鶴嶺山宝一という下の名前も合わせてすべて音読みの力士がおり、「鶴嶺山」を「かくれいざん」と読むことに対しては違和感があったとされる。ただし「鶴嶺山」は師匠であり父親でもある鶴ヶ嶺昭男が十両まで名乗っていた四股名である。これ以前にも修羅王政勝が1973年から74年にかけて「修羅王道心(しゅらおう どうしん)」を名乗っていた。なお、留め字の「山」を「さん」もしくは「ざん」と音読みにする四股名は、昭和時代の相撲界においては「散々な敗北」を連想することから出世しないとして好まれていなかった。具体例としては、歴代の横綱の中で四股名の「山」を音読みにしている力士は12代横綱・鬼面山谷五郎のみで、1968年5月場所に新十両となった高橋貞次こと三山貞次は、当該四股名を当初「さんざん」と読ませていたが、上述の考えから間もなく「みやま」と読みを変えた。その一方で、栃煌山は新十両の際に改名する当初「とちおうやま」と読ませる予定を、濁点を含む方が力強く聞こえるとする実母の提案を踏まえ、「とちおうざん」という読みに決定した[7]。
また、垣添、片山のように学生相撲出身力士が十両、幕内に昇進しても本名で取り続けることが多くなってきている。幕内力士が最初に本名で土俵に上がった例は1947年6月場所で入幕した岩平貞雄だが、これは幼少のときに生き別れた母親に健在を知らせ、名乗り出てほしいという希望をこめたものと言われている(しかし母親は現れず、一場所で若葉山貞雄と改名した)。かつては明文化されてはいなかったが関取が本名で土俵に上がることは認められない風潮があった。しかし昭和30年代から及川、宇田川、成山、明歩谷などあたりから増え[1]、34代式守伊之助によると輪島大士の頃から本名で土俵に上がることができない風潮がうやむやになっている[8]。出島武春は初土俵から引退まで、幕内75場所(うち大関12場所)を含む81場所にわたって下の名も含め本名のまま取り続けた。本名のまま幕内を長く務めた力士には幕下以下で改名を経験していたり(成山→小野若→成山、蜂矢→栃ノ矢→蜂矢など)、部分的に改名する場合(長谷川勝利→勝敏→勝廣→戡洋、輪島博→大士、霜鳥→霜鳳など)が多い中では極めて異例である。また、出島と同部屋の垣添も幕内40場所以上を経験しながら初土俵から下の名を含め1度も改名しないまま2012年に引退している。曙太郎、武蔵丸光洋、白鵬翔など、外国出身力士が日本国籍取得に際して、四股名をそのまま本名にした例もある[注 7]。2017年には「各力士が四股名についての考えを持っているため、十両昇進を機に無条件に四股名を名乗らせることには諸手を上げて賛同できない」という趣旨の投書が相撲雑誌によせられており、時代的に如何に本名四股名が定着しつつあるかという事実がうかがえる[9]。本名四股名の中でも自然に関する漢字が含まれている場合は一般に違和感がないとされる[1]。近年では髙安[10](高安氏)、石浦[11]のように「一族の代表」としての側面も見られる。特に高安は学生相撲出身者以外では北尾以来2人目の本名大関となったが、横綱昇進を機に「双羽黒」に改名した北尾とは異なり横綱昇進後も改名しないことを公言している[10]。下の名も含めて本名のまま横綱に昇進すれば史上初(外国出身者が帰化時に四股名をそのまま本名とした例を除く)となる。本名ではないが木﨑海伸之助の場合は相撲一族で知られる「木﨑」の苗字を四股名に含んでおり、やはり「一族の代表」としての側面が見られる。
本名の下の名をそのまま四股名とする例は2000年代まで「二朗(現・世話人荒ノ浪)」や「福太郎」など数えるほどであったが、2010年代以降は急増しており、表記・読みとも同一の力士のみで2017年5月場所時点では13人にのぼる。こうした四股名を名乗った力士としては大輝(現・北勝富士)、明生、竜虎が関取に昇進している(読みのみが同じ力士では阿覧がいる)。この際四股名における下の名は本名と別のものにするのが一般的であるが、「竜虎 川上」(本名:川上竜虎)のように姓名を逆転させて名字を下の名にする事例や、「海波 海波」(現・瑞光海波)のように下の名を変えず結果的に四股名と下の名が一致する例もある。2010年代以降は四股名顔負けの特徴的な本名を持っている力士も少なくなく、それを四股名の上の部分にしているために目立つ例もある。
他に、四股名として使うことが忌み嫌われている字も存在する。一般社会での「名前に付けるのが相応しくない字」に含まれるものは当然であるが、北勝海が大関昇進時に本名の「保志」から改名するに当たって出身地十勝からとって「北十海(ほくとうみ)」とする予定のところ親方に「十勝止まりのようで縁起が悪い」と言われて、ほくとうみの読みはそのままで「北勝海」と名乗ることになった例のように縁起を担ぐ場合がある。また、一般には武器の名称である剣の字も「剣は折れるもの」という意に通じる事から長年四股名に使われる事が避けられてきた経緯があったが、剣晃敏志は本人の強い希望で四股名に剣の字を入れた。しかし「けんこう=健康」に通じるとされながらも、本人は現役のまま30歳で病没するという悲劇的な結末となってしまい、その後は以前にも増して「剣」の字は使用が避けられるようになったという。剣晃が没した当時、「剣」の字を使用した四股名を名乗っていた力士は関取経験者の五剣山博之らがいたが、没後も「剣」の字を入れた四股名の関取には剣武輝希と剣翔桃太郎がいる。その他、変わった例では、「土左衛門」の語源になった成瀬川土左衛門という四股名があるが、成瀬川土左衛門はもちろん成瀬川だけですらここ100年以上に亘って名乗った関取はいない[12]。"双"という字は、双葉山本人を含む事件を起こした双葉山系列の力士3人に付いていたため近年では決して縁起の良いものとはされていない。双葉山が璽光尊事件で警察と乱闘事件を起こして逮捕されたことを皮切りに、双羽黒廃業事件と続き、双津竜順一は時津風部屋を継承して所属力士の多くを"双"のつく四股名に改名したが時津風部屋力士暴行死事件を起こし解雇され、より一層"双"の字は印象を悪くし、"双"の字のつく力士は双大竜亮三を除いて元の四股名に戻す、もしくは新たな四股名に改名した[注 8]。この際本人の希望により唯一"双"の字を残した双大竜は後に幕内まで昇進したが、2018年1月場所の初日直前に引退したことにより時津風部屋で"双"の字のつく力士は皆無となった。
無病息災を願った四股名もいくつか存在しており、上記の剣晃のほか増健がいる。三保ヶ関(元大関・二代目増位山)は学生時代より左膝の怪我を抱えていた柳川信行に「膝が悪いので怪我をしないように」という願いを込めて命名したのであった。しかし2003年7月場所4日目の北桜戦で立合い直後につきひざを喫した例のように、柳川は下半身の脆さが現役生活全体において目立ち、さらに2000年代前半から糖尿病にも悩まされるなど決して健康とは言えない力士であり、元学生横綱の経歴の持ち主としては物足りない十両在位14場所、最高位西十両6枚目に留まった。この2人は直接字面から無病息災の意図が読み取れるが、栃ノ巌、春日錦孝嘉(2004年11月場所で下の名を「孝洋」から「孝嘉」に改名)など、それぞれ頑強そうな印象の字や字画のバランスに無事な土俵生活を祈る意図が込められるといった間接的に表現するケースもあり、どちらかと言うと健康・安全を願った四股名は間接的表現のケースが多い。
2000年代以降、一般の新生児の名付けにおいて極めて個性的で難読な名前(いわゆるキラキラネーム)が命名されることが増え、マスメディアなどでも取沙汰されつつあるが、角界でも2010年頃から極めて個性的な四股名で土俵に上がる力士も多々見受けられ、「キラキラ四股名」と揶揄されたこともある。(後述)
ちなみに力士養成員の四股名の下の名前は公的には番付表や一部の公的アプリ以外では基本的に非公表のため、部屋公式や関係者、果ては本人ですら外部サイトを引用して間違えることがある。
1996年第41回衆議院議員総選挙・比例近畿ブロック単独候補(新進党公認)で小結経験者旭道山和泰が史上唯一の現役力士として公選法に基づく被選挙権の行使、選挙運動の際や当選[注 9]、後の国会議員としての活動における通称、議員引退後の実業家や芸能活動における芸名にも相撲協会の承諾を得て「旭道山和泰」を用いている。
明治時代までは場所中に改名する力士もいたが、現在では前述のように改名届を提出できるのは各場所の千秋楽から番付編成会議までの間であり、その上で翌場所の番付に反映されるため、場所中に改名することはできない。
下の四股名は清・清之輔・巌・力伸・憲尚・皇毅・保彦と6回改名した
2013年に元・前頭の北桜が9代目式秀を襲名し、8代目式秀(元小結)・大潮より式秀部屋を継承して以来、前述の宇瑠虎太郎などをはじめ同部屋の所属力士の多くが極めて個性的な四股名を名乗った。詳細は式秀部屋#所属力士の珍四股名を参照。
横綱の阿武松緑之助や稲妻雷五郎なども一種の掛け言葉になった四股名である。大鵬幸喜も漢語由来の四股名ということで最初は違和感を覚えるむきもあった。北の湖敏満も「湖」を「うみ」と読ませる当て字が、千代の富士貢も5文字の四股名は珍しいと話題になった。平成の横綱では武蔵丸光洋なども、「丸」の文字がやや異色で、これは本名のフィヤマル・ペニタニから来ている。いずれ大関、横綱になったら別の四股名を名乗るものと思われていたが、結局この名で現役を通した。これらの力士は四股名より土俵上の実績で名が残った。