石浦鹿介
石浦 鹿介(いしうら しかのすけ、1990年1月10日 - )は、鳥取県鳥取市出身で宮城野部屋に所属した元大相撲力士。本名および旧四股名は石浦 将勝(いしうら まさかつ)。身長172.5cm、体重98.8kg。最高位は西前頭5枚目(2022年3月場所)。憧れの力士は体格の近い元関脇・鷲羽山[4]。好物はステーキ[5]、ワタリガニのトマトクリームパスタ[6]。 現在は年寄・間垣として、伊勢ケ濱部屋で後進の指導に当たっている。 来歴高校卒業まで鳥取城北高校相撲部・石浦外喜義(いしうら・ときよし、石川県出身[7])監督の長男として生まれ、幼少期から相撲をしていた。母も同校で養護教員を行っている[8]。『暴れん坊将軍』のワンシーンで力士たちが褌を締めて戦う様子を見てかっこいいと思っていた所を父に「相撲をやってみるか」と提案され、「やりたい」と返答したことが相撲を始めたきっかけとされる。この経緯について石浦自身が「騙されたような気もする」とも語っていたとする父の証言も残されている[9]。鳥取市立富桑小学校2年生の頃からは因幡相撲道場で本格的に稽古を始め、週2回の稽古の合間には野球や水泳にも打ち込んだ。幼少期は相撲より野球の方が好きであり、阪神タイガースに入団することを夢見ていた[8]。当初は小柄であったため相撲でなかなか勝てず、道場まで送迎してもらっていた母には「絶対に稽古を見るなよ」と言っていた[8]。一方でまだ相撲を本格的に始める前であった1年生の頃に6年生に噛みついて歯形を付けるなど負けん気の強さを見せていた[8][9]。野球では左腕のエースとして活躍していた[9]が、素質を見抜いた道場の倉本慎太郎監督に「お前は毎日稽古場に来い」と口説かれ、小学校高学年からは相撲一本に絞った[9]。4年生の頃には体重が30㎏もなく、中国ブロック上位に入り全日本小学生相撲大会に出場した際には、90㎏もある北海道代表の選手に初戦で敗れた[8]。中学校は鳥取城北高校と一貫練習を行っている鳥取市立西中学校に進学し、後に同じ宮城野部屋に入門することとなる山口雅弘(大喜鵬)とは、ここで面識を持ち始めた[10]。中学時代は学校が近隣ではあったが寮生活を行っており、父からは「これからお父さんとお前はライバルだ。お父さんを超えられるようになれ。そのために外に出るんだぞ」と伝えられた[8]。中学2年生の頃は相撲部の準レギュラーであった高校生に敗れ、厳しい顧問の教員に「気合が入ってない」と怒鳴られたこともあるという。石浦はその度に悔しがって稽古場の鉄砲柱に頭突きを加えた[8]という。負けん気を活かして石浦は強くなり、2年時の全国中学相撲選手権大会で団体準優勝を果たし、3年次には全国都道府県相撲大会で個人3位に入賞[8]。だが中学時代には鳥取城北高校から日本大学に進学するアマチュア相撲の既定路線を疑問視し、商業高校への進学を考えて簿記の勉強をしていた時期もあったが「相撲を辞めたら自分に何が残るか」と自問自答し、思い留まったという[10]。高校は父親が相撲部監督を務めている鳥取城北高校に山口と共に進学。石浦家の2階(自宅は3階)ではあるが、寮暮らしをしていた[8]。1学年下にはアディヤギーン・バーサンドルジ(貴ノ岩)がいた。高校在学中は入学直後のインターハイ予選で1位を獲得(2位は山口)し、小・中学時代のような破天荒なエピソードではなく相撲の実力で父を驚かせた[8]。団体戦でレギュラーメンバー入りして団体優勝に導き、個人戦では2・3年次で全日本ジュニア体重別相撲選手権大会の軽量級で2連覇を達成(2年生の時がこの大会の第1回大会)。3年生の時には世界ジュニア選手権の軽量級で優勝し、この時に横綱の白鵬と知り合った。 大学時代の挫折から大相撲入門に至るまで高校卒業後は日本大学文理学部に進み、引き続き相撲部に所属した。大学の1学年上には佐久間貴之(常幸龍)が、同学年には山口と岩崎拓也(英乃海)が、1学年下には遠藤聖大がいた。1年次に東日本学生個人体重別選手権の無差別級準優勝、2年次に全日本大学選抜十和田大会3位入賞などの実績を残した[11]が、大学時代は体重別以外のタイトルとは無縁であり、団体戦にも出場できなかった[12]。3年次途中から食べ過ぎに因る腸の病気を患い自信を喪失し、稽古にも身が入らなくなった[8]。腸の病気によって100㎏あった体重は70㎏にまで落ち、手術するとまず相撲は取れなくなる状況ではあったが、手術は回避できた[13]。しかし医者からはもう太ってはいけないと忠告され、太る必要のない競技しか選べなくなった[14]。暫しの療養を経て、元から好きであった格闘技にも活路を見出そうとしていたが道場に通う15歳の少年や40代の男性に歯が立たなかったことを理由にわずか3か月で挫折した経験もある[10][14]。父が語るには、負けはしないが打撃がさっぱり当たらなかったという[14]。母は殴る蹴るを伴う格闘技には反対した上で、大相撲入りを提案したという[8]。 2012年に大学を卒業した後は進路に悩み、一時オーストラリアに語学留学したり、格闘家を目指したりしていたが、同年7月に相撲のオーストラリア国内選手権で優勝した[15]。 同時期に山口(改め大喜鵬)と貴ノ岩が関取昇進したこともあり、両者に刺激される形でプロ入りするを決意した[15]。現地では予てより相撲を教えていたがこれに触発されて留学時代終盤には熱を帯びて指導をするようになったといい、帰国までに四股・腕立て・腹筋を毎日300回ずつこなした上で80kgを切った体重を大量の白米で100kg近くまで増やすことで大相撲に耐え得る肉体を取り戻した[10]。翌月に日本へ帰国し、プロ入りに反対していた父親を「一度きりの人生だから」と言って説得。父の勧めにより帰国後は一旦国体選手になり、鳥取県代表として試合に出場。成績は団体でベスト8、個人でベスト16であった[16]。同年12月24日に、山口に次ぐ白鵬の内弟子第2号として宮城野部屋へ入門することが発表され、「もう一度相撲を力いっぱい頑張ろうと思った」と語った[17][18][19]。2013年1月場所、四股名を本名と同じ「石浦」として23歳で初土俵[注 1]を踏んだ。元序ノ口の大田中(中村部屋)以来、実に17年ぶりの鳥取県出身力士だった。同期生は阿武咲、爆羅騎ら[20]。父は貴乃花と親しかったことと鳥取城北の1学年下である貴ノ岩がいることから貴乃花部屋に頼もうかと思ったが、石浦自身は「どうせ行くなら一番強い人がいる所」という考えで宮城野部屋を選んだという[21]。父は後に「小さい時は、1月生まれで損させてるなってお母さんとよく言ってたんです。4月生まれなら(同じ学年でも)もうちょっと大きな体でやれたのになって。でも、1月生まれだったから、大相撲に行けた」と振り返った[8]。 入門から関取昇進まで初めて番付に名前が載った2012年3月場所は序ノ口で7戦全勝優勝[22][23]、5月場所も序二段で7戦全勝優勝と、2場所続けて各段優勝[22]。本割での連勝記録も伸びていたが、三段目に昇進した7月場所の6番目の相撲で能登櫻に敗れて連勝記録は19でストップした。当場所7番相撲では阿武咲に勝ち、最終的に6勝1敗の成績を修め、翌9月場所は幕下に昇進した。幕下に昇進した後も快進撃を続け、わずか2場所で幕下15枚目以内に昇格した。東幕下5枚目まで昇進した2014年3月場所は3番相撲まで黒星続きであったがそれ以降7番相撲まで4連勝し、最終的に場所を4勝3敗と勝ち越しで終えた。翌5月場所は関取目前の西幕下2枚目で迎え、11日目には十両の魁と対戦したが、2勝5敗で初土俵以来の連続勝ち越しが止まった[22]。以降も内規上十両昇進が見込める幕下15枚目以内に定着した。西幕下6枚目で迎えた2015年1月場所は1番相撲から土付かずの6連勝と好調で13日目の7番相撲で正代と全勝同士(勝者が当場所の幕下優勝)の対戦に敗れて優勝を逃した。7番相撲を終えた翌日の報道では「関取昇進は持ち越し」と伝えられた[24]が、十両下位に成績不振者が多かったこともあり、場所後の番付編成会議で新十両昇進が決定。鳥取県出身の関取は第53代横綱・琴櫻以来、53年ぶりとなった[25]。2016年11月場所後のインタビューで本人は「この場所で十両昇進を逃していたら、今も昇進できないままだったかもしれない」という趣旨のコメントを述べて振り返っていた[26]。 関取昇進以降新十両となった3月場所では、10日目の里山戦で足首を痛めたことで勝ち越しを危ぶまれたが、宮城野から「楽しんで来い」と言われ、10日目の4勝6敗から5連勝して最終的に勝ち越した[27]。当場所の足首の怪我をきっかけに相撲が速くなったという[28]。十両在位中は10勝以上の大勝ちをした場所は無かったが10敗以上の大負けをした場所も無いコンスタントな成績を続け、十両10場所目の2016年9月場所では東十両6枚目で9勝6敗の成績を修め、従来ならば十両に据え置かれる成績だったが、当場所は幕内下位に成績不振者が多かったこともあり、翌11月場所で新入幕となった。本名での新入幕は遠藤以来。石浦は福岡県篠栗町の宮城野部屋の宿舎で会見し「幕内は夢のまた夢だったので、まさかこんな日が来るとは思わなかった。変な感じです」と謙虚に喜びを語った。石浦はその上で「小さくても、どんどん前に出て相手が嫌がる相撲を取って、自分らしさを出したい」と抱負を述べた。鳥取県出身力士としては1963年の元横綱・琴櫻以来、53年ぶりの新入幕となったことについて石浦は、「先輩が偉大なので少しでも近づけるよう努力したいです。いま鳥取は地震で大変な時で避難している方もいます。一番でも多く勝って鳥取の皆さんを元気づけたいです」と話していた[29]。 新入幕の場所では初日に黒星の後で2日目から10連勝と星を積み重ね、幕内の優勝争いにも絡んだ。12日目から4連敗となり10勝5敗で終わったが、石浦はこの好成績により初めての三賞となる敢闘賞を受賞した。この場所の活躍により石浦は生まれて初めて父親に褒められたという[30]。同時期には筋力トレーニングに励んだりステーキを食べて良質なたんぱく質を摂取したりして体作りを試みた結果、[5]2017年5月2日の力士会における体重測定で自己最高の118kgを計測した。2017年1月場所からは4場所続けて白星も黒星も二桁に乗らない波の少ない成績を残していたが、東の10枚目で迎えた9月場所は他の力士に慣れられたのか持ち味である中に潜り込む相撲を取らせてもらえず、何もできずに圧倒される相撲が多く見られた。結局3勝12敗と入門以来初めての二桁の負け越しとなり十両陥落。 1場所の十両暮らしを経て2018年1月場所に再入幕。この場所は中日まで4勝4敗であったものの後半に星が伸びて14日目に勝ち越しを果たし、最終的に9勝6敗。5月場所は11日目までに9敗を喫するが、12日目から千秋楽までを4連勝して6勝9敗と踏みとどまった。7月31日の夏巡業勝山場所では申し合いを11番行った[31]。 2018年11月場所に2度目の十両陥落を喫し、この場所と翌2019年1月場所の十両暮らしを経て3月場所に3度目の入幕。その3月場所は6勝9敗と負け越し、幕内の番付が自分より下に2枚しかない状況であり番付運次第では十両陥落も有り得たが、1枚半下降の西前頭16枚目に踏み留まる形で翌5月場所の土俵を幕内で迎えられた。5月場所直前には3月場所の不調が胃腸炎によって8㎏体重が落ちてしまったことによるものだと本人の口から明かされ[32]、当場所も場所を通して不調で、5勝10敗に終わって3回目の十両陥落。東十両2枚目で迎えた7月場所は9勝6敗と勝ち越しを決め、1場所で幕内に返り咲いた。 再入幕の9月場所は初日に敗れたあと6連勝。7日目の豊山戦では豊山の突きを辛抱強くあてがってしのぎ、気を見て懐に入って押し出して動きの良さを見せた。しかし、翌日から一転して5連敗で星が五分に戻ってしまう。13日目の照強戦は立ち合いの変化で勝利したが、14日目は十両の若隆景にもろ差しを許して一気に寄り切られ、7勝7敗で千秋楽を迎えることとなった。千秋楽は玉鷲との7勝7敗対決を寄り切りで制し、幕内では2018年初場所以来となる勝ち越しを決めた。しかし、本人はその後の支度部屋で「6勝1敗から勝ちを意識して硬くなってしまった。(そういう)弱い自分をなくさないと」とさらなる成長を誓っていた。 東前頭11枚目に番付を上げた11月場所は、序盤は一気に押し出される相撲が目立ち、5日目まで1勝4敗と不振。しかし、6日目から締め込みをそれまで締めていた金色から新十両時の深緑色に戻してから徐々に星が上がり、14日目に佐田の海を土俵際で突き落として自身初めての幕内で2場所連続の勝ち越しを決めた。千秋楽も大翔鵬に鮮やかな下手投げを決め、9勝6敗で締め括った。 2020年1月場所直前に不祥事(後述)を起こし、当場所の出場停止処分は免れたが6勝9敗で4場所ぶりに負け越した。翌3月場所は9勝6敗と勝ち越したが、7月場所は4勝11敗と大きく負け越した。当場所では、終盤に右足を負傷しており、翌9月場所は右距骨骨折の診断書を提出して初日から休場した[33]。「約3週間の加療を要する見込み」と診断されていたが中日から途中出場し[34]、4勝4敗7休と、負け越し扱いにはなったが中日以降の8日間に限れば五分の成績だった。 2021年1月場所より四股名の下の名前を「鹿介(しかのすけ)」と改めたが、当場所前に同部屋の力士が新型コロナウイルスに感染したことに伴い、濃厚接触者に該当する可能性があるとして同場所を全休した[35]。翌3月場所の番付は事情が考慮されて、全休ながら1枚降下に留まった[36]。 頸椎負傷による長期休場・引退自己最高位の西前頭5枚目で迎えた2022年3月場所は、3日目の琴ノ若戦で土俵下に吹っ飛ばされた後に数十秒うずくまって立ち上がれないアクシデントが起こった。最終的には自力で立ち上がり、付け人の肩を借りることなく、顔を少しゆがめたまま花道を引き揚げた[37]。この時の負傷により、協会に「頸椎症性神経根症の増悪により2週間程度の安静加療を要する」との診断書を提出して4日目から休場した[38]。この時点で1勝のため残りを全休すると十両陥落が懸念されたが、11日目から再出場し[39]最終的に2勝7敗6休の成績で翌5月場所は東前頭16枚目に残留した。しかし治療が長引き、当5月場所以降は休場を続け、翌年2023年5月場所では幕内在位経験者としては史上18人目となる序二段陥落となった。 5月場所終了後の2023年6月1日、日本相撲協会に引退届を提出し受理され、年寄「間垣」の襲名承認が発表された[40][注 2]。白鵬の内弟子として入門したものの、白鵬(13代宮城野)と正式な師弟関係を持った期間は引退直前の10か月程度に過ぎず、「白鵬の弟子」として本場所の土俵に上がったことは1度も無いままだった。 同年6月7日に両国国技館内で行った引退会見では、相撲を続けると下半身不随になる危険性がある旨を主治医に告げられたため手術を受けて引退する道を選んだこと、三役の夢もあったが健康な体で子供の成長・家族を見守りたいと2022年の夏頃から考え始めていたことを語った[41]。最高で130kg程度あった体重が引退直前の段階で100kg程度まで落ちたことも現役復帰が難しいと判断した理由とされる。思い出の取組として2021年7月場所8日目の宇良戦を挙げた。会見に同席した師匠には「石浦がいなかったら14年間、綱を張ることはできなかった」と称賛のコメントを受けた。会見において、引退相撲及び断髪式は翌2024年6月1日に予定されていることも明かされた[42]。引退届の提出が番付編成会議の後だった関係上、翌7月場所の番付にも四股名が残り、西序ノ口15枚目に在位した。昭和以降で関取在位後に序ノ口に陥落した力士は15人いるが、最高位前頭から序ノ口以下まで陥落したのは琉鵬・舛ノ山・鏡桜・旭大星に次いで5人目であった。 宮城野部屋の北青鵬の暴行問題に伴う師匠問題において、自身は師匠代行に指名されることはなかった。因みに師匠代行として指名された玉垣は「宮城野部屋がない状態として指導するようにと言われている」と回答している[43]。2024年3月28日、日本相撲協会の理事会で宮城野部屋は同年4月以降無期限で伊勢ヶ濱一門預かりとなり、宮城野部屋に所属する全員が同一門の伊勢ヶ濱部屋に転籍することを決定した[44]。自身が年寄として所属していた部屋の閉鎖処分という特殊事情があるとはいえ、引退相撲開催前に部屋を転籍するのは異例。 2024年6月1日、両国国技館で引退相撲が行われた。2023年に引退相撲を開催した隠岐の海が隠岐古典相撲を披露したことに着想を得たという、伊勢ヶ濱部屋所属力士と母校・鳥取城北高校相撲部レギュラーメンバーの対抗戦(結果は伊勢ヶ濱部屋の4勝1敗)などを開催[45]。弓取りは弟弟子の炎鵬が担当[46]。断髪式では、引退時の師匠だった13代宮城野ら約300人が鋏を入れ、最後の止め鋏は9代伊勢ヶ濱(元横綱・旭富士)が入れた[47][48]。引退相撲は部屋閉鎖騒動の影響で一時期開催が危ぶまれたが、伊勢ヶ濱の厚意で開催が実現したとのこと。鋏を入れた1人の13代宮城野親方へは「声をかけられなかったら、プロに入っていない。宮城野親方がいなかったらと想像したら、考えるだけで怖いです」と感謝した[49]。 取り口
エピソード学生・アマチュア時代
相撲・取組関連
巡業関連
身体的特徴
懸賞金・タニマチ・ファンクラブ関連
趣味・嗜好・験担ぎなど
食生活
妻子
稽古中の喧嘩騒動2020年1月4日、宮城野部屋で三番稽古の最中に幕下の宝香鵬にダメ押しをされたと立腹した石浦が膝蹴りをしたことから殴り合いの喧嘩になり、白鵬が両者の間に入って仲裁した様子を撮影した写真がスポーツ各紙に掲載された。激しい稽古で感情が剥き出しになったなど考慮される点もあった[89]が、師匠の宮城野は高島理事に報告しており、この時点では稽古中のことで不問に付す旨を伝えられた。石浦は「熱くなってしまった。冷静にならないといけない」と話した[90][91]。 同月6日、日本相撲協会はこの件について八角理事長が協会コンプライアンス委員会(青沼隆之委員長=元名古屋高検検事長)に事実関係の調査と処分意見の答申を委嘱したと発表した。同委員会の答申を受けて理事会で処分について審議されるという[92][93]。7日には都内で同委員会の聴取を受け、同日に行われた明治神宮の奉納土俵入りには迷惑をかけたという理由で参加せず、代理で伊勢ヶ濱部屋の照強が白鵬の露払いを務めた[94]。 相撲協会は8日、9日に行われる緊急理事会で処分の決定を行うことを発表。「握り拳で殴ること」は大相撲の禁じ手で稽古中のそれも暴力禁止規定に違反しており、芝田山広報部長は「このまま場所をまたがせていいのかというのはあった。(初場所で)相撲を取らせていいのか、ダメなのか、そういう問題もある」と話した[95][96][97]。9日に行われた緊急理事会で、石浦は1ヵ月20%の減俸とけん責、宝香鵬はけん責、師匠の宮城野は3ヵ月20%の減俸処分が言い渡された[98]。処分通知のときは、八角理事長が「こういう処分にするけれど次やったらありえない」と厳しく注意したという[99]。処分通知の後、宮城野部屋に帰ってきた石浦は取材に応じ、「真摯に受け止めて。自分の自覚が足りませんでした」と反省の弁を述べた。 関取の暴力事案は一場所出場停止が処分基準とされるが、白熱した稽古の途中で突発的に起こった事案で、両者が過去に暴力事案を起こしたことはなく両者の間にトラブルは無かったことや、両者に怪我はなく深く反省していたことなどをコンプライアンス委員会は考慮し、理事会でも処分案通りの決定となった[100][101][102][103]。 協会の暴力禁止規定に違反していながら軽微な処分で済んだことに対して相撲ファンと自称する者の間からは「貴ノ富士や拓郎と比べても明らかに不公平な処分」と処分が甘いとする声もあった[104]。 主な成績
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
改名歴
年寄変遷
ギャラリー
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンクInformation related to 石浦鹿介 |