炎鵬友哉
炎鵬 友哉(えんほう ゆうや、1994年10月18日 - )は、石川県金沢市出身で、伊勢ヶ濱部屋(入門時は宮城野部屋)所属の現役大相撲力士。令和6年1月場所までの四股名は炎鵬 晃(えんほう あきら)。本名は中村 友哉(なかむら ゆうや)。身長167.0cm、体重101.0kg、血液型はAB型[3]。最高位は東前頭4枚目(2020年3月場所)[1]。目標とする力士は兄弟子の石浦。好きな色は緑色[1]。 来歴角界入り前北國新聞社に勤務する父親を持つ。相撲を始めたのは5歳の時で、兄の影響によるものだった[4]。最初は「カッコ悪いと思っていた」「なんで人前でケツを出さないといけないんだ」と相撲を取ることに抵抗があった[5]がある日、体の大きい友達と相撲を取って小さな体で勝ったことから自信を付けて相撲にのめり込んだ[6]。小学生時代に舞の海の相撲を見て[注 1]「大きい相手にこんな勝ち方ができるんだって、自分もいつかこういう相撲を取りたいな」と思った[7]。小学生の時は6年生辺りで精々30kg台と身体が小さく、相撲道場に視察に訪れた貴闘力もまさか幕内力士になるようには見えなかったと当時の印象を振り返っている[8]。 金沢市立大徳小学校2年から6年まで水球のキーパーも行っていた[1]。金沢市立西南部中学校時代は達綾哉(後の幕内・輝)と同期で、3年次には全国都道府県中学生相撲選手権大会で同じ石川県代表として団体優勝をした[9]。中学時代は厳しい稽古、洗濯、雑用をこなし、食事もちゃんこ3杯、米3杯を毎日食べさせられて体を作った[6]。中学卒業後は金沢学院附属高校に進み、3年次に世界ジュニア相撲選手権大会の軽量級で優勝した。同じく3年次に高等学校相撲金沢大会で個人3位に輝くも、当時は軽量過ぎたが故に角界からの勧誘が来ることはなかった[7]。 金沢学院大学人間健康学部に進学すると、1年次に西日本学生相撲新人選手権大会で優勝したことに始まり、2年次と3年次には世界相撲選手権大会の軽量級を2連覇するなど全部で10個のタイトルを獲得した[10]。 角界入り就職活動中、応募先からも面接で角界入りを勧められており[11]、そのようなこともあってか大学卒業後は横綱・白鵬の内弟子として宮城野部屋へ入門した[12]。入門の決め手となったのは白鵬からの「相撲は今しかできないぞ、人生かけてみろ」という言葉であった[7]。四股名の炎鵬は、「炎のような相撲を取れ」と白鵬が命名した[13]。角界入りした理由としては、他にやりたいことが見つからなかったという面もあった[6]。また「俺も石浦さんみたく強くなりたい」と石浦に憧れていたのも入門の理由であった。 初土俵となった2017年3月場所は、前相撲を取って一番出世とした。初土俵の同期に若隆景らがいる。5日目に新序出世披露を受ける時には、この日から白鵬が付ける予定だった化粧廻しを借り受けて使用した(白鵬は、この日から途中休場した。)[14]。 初めて番付に載った5月場所は、7戦全勝で序ノ口優勝とした[15]。7月場所は序二段に上がり、また7戦全勝とし、優勝決定戦では幕内経験者の舛乃山を下手投げで下した。この場所から四股名の下の名前を本名の友哉から「晃」に変更した。当初は初土俵から名乗る予定であったが、手続きがうまく出来ていなかったため、この場所から改名した扱いになったものである。この名前は、道場の5年先輩で大相撲入門の9年前にオートバイ事故で死亡した道場時代に慕っていた人の名前を貰ったものである[16][17]。三段目に上がった9月場所も7戦全勝で満津田との優勝決定戦を制して三段目優勝とした[18]。 11月場所は西幕下14枚目に上がり、全勝なら関取昇進の可能性もある番付となったが1番目の相撲で三役経験者の常幸龍に敗れ、連勝も「21」でストップした。常幸龍は序ノ口デビューからの連勝記録「27」を持つ力士であり、記録保持者に更新を阻止される形となった[19]。2番目以降は立て直して、この場所は5勝2敗で勝ち越した。 翌2018年1月場所は東幕下6枚目の番付で4勝3敗。通常なら関取に昇進できる成績ではないが、十両からの陥落力士が多いという事情もあり、場所後の番付編成会議で炎鵬の3月場所での新十両昇進が決定した。幕下付出入門者を除けば、所要6場所での十両昇進は史上最速タイのスピード出世となった[20]。「上がりました」と十両昇進の知らせを聞いたとき、炎鵬は丁度風呂から上がる時であったので「風呂のことかと思った」という冗談が残っている[1]。 関取での活躍新十両の場所は西十両14枚目の番付となり、十両の一番下の地位で3月場所に臨んだが十両の壁に跳ね返され、4勝11敗と大きく負け越した。幕下に落ちた5月場所からは2場所連続で5勝2敗と勝ち越し、7月場所後の番付編成会議で、9月場所での再十両昇進が決定した[21]。西十両13枚目で迎えた9月場所は9勝6敗の成績で関取として初の勝ち越しを決めた。2019年3月場所は自己最高体重の100kgで場所を迎えるなど好調が伝えられた[22]。その場所の9日目の德勝龍戦は尻が土に10cmまで近付くピンチから蛙飛びのように体勢を整え、相手の左足を両腕で取って足取りで白星[23]。この場所は8勝7敗と勝ち越し、5月場所は新入幕を果たした。金沢市からの新入幕は出島武春以来22年ぶり。 5月場所4日目の大翔鵬戦では180kgの巨体を下手投げで転がして白星を奪い[24]、9日目終了時点で7勝2敗で勝ち越しに王手をかけたが、その後6連敗を喫し7勝8敗で負け越した。翌7月場所も10日目までに7勝目を挙げたが、給金相撲に3連敗。しかし、14日目に白星を挙げ、初土俵から自身10回目の給金相撲にして、幕内でようやく勝ち越した。体重100kg未満の力士が幕内で勝ち越したのは1997年9月場所の舞の海以来22年ぶり[25]。千秋楽も勝って最終成績は9勝6敗とし、技能賞を獲得した。 9月場所は11日目に勝ち越し王手となったが12日目から2連敗。しかし14日目に白星を挙げて勝ち越し、千秋楽も勝って9勝6敗とした。NHK大相撲解説者の北の富士は「9番勝って前半戦を1人で盛り上げた。そういうのは星数じゃなくて、十分に敢闘賞に値する。普通のお相撲さんの11勝、12勝にも匹敵すると思う」と三賞を逃しながらも小さい体で場所を戦い抜いた炎鵬を称えた[26]。 凱旋巡業となる10月6日の秋巡業金沢場所では4200人の観客に見守られた中で相撲を取った[27]。12月1日の冬巡業直方場所では、自身1年ぶりとなる巡業での実践稽古を行った。かつて巡業中の稽古で足を負傷して救急搬送されたトラウマや本場所での怪我などから中々巡業で実践稽古を行えない日々が続いていたという。松鳳山らと相撲を4番取ったが、久しぶりに巡業で相撲を取ったので兄弟子の白鵬からは「大丈夫? どうした?」と驚かれたという[28]。3日の下関場所ではこの時点で幕内で0勝4敗と相性の悪い松鳳山と対戦し、右からいなしての突き落としで本場所以外を含めた初めての白星を獲得。仕上げのぶつかりげいこでは199kgの巨漢である碧山の胸を借りたが、その様子を報道機関は「まるで"ちびっこ相撲"のような光景」と表現していた[29]。 1月場所は西前頭5枚目の地位で8勝7敗の勝ち越し。三賞選考委員会は千秋楽の輝戦で勝てばと言う条件付きで技能賞の授賞を検討していた[30]が、敗れて受賞を逃した。 2月9日の第44回日本大相撲トーナメントでは3回戦で部屋の兄弟子の白鵬と対戦し、下手投げで白星。トーナメント自体は続く4回戦で敗退[31]。 続く3月場所では新型コロナウイルスの感染拡大による無観客という状況もあってか、6勝9敗と負け越してしまった。8敗目を喫して負け越しとなった12日目には「これが今の自分の実力。まだ終わったわけじゃない。残り3日間で自分の相撲を取りたいです」とコメントを残した[32]。新型コロナウイルス感染拡大を受けて5月場所が中止になった際は「楽しみにしてくださっていた方もいますし、僕らもやると思って稽古をしてきました。それでも仕方がない。7月に向けてしっかり準備をしていくつもりです」とコメントした[33]。 11月場所は西前頭11枚目の地位で3勝12敗の大敗を喫し、9場所守り抜いた幕内の座を手放すこととなった。2021年1月場所は場所前に同部屋の力士に新型コロナウイルス感染が確認されたことに伴い、濃厚接触者に該当する可能性があるとして全休した[34]。翌3月場所の番付は事情が考慮されて、全休ながら1枚降下に留まった[35]。 3月場所は初日から6連勝し、関取として自己最多となる初日からの連勝記録を作った。7日目の東龍戦では上手出し投げで敗れ、炎鵬の初日からの連勝も6でストップした[36]。 7月場所は、2日目の貴源治戦で同体取り直しとなりながら取り直しの相撲を取れずに不戦敗となった[37]。取り直しになる前の取組では貴源治の張り手を複数回顔面に受けており、取り直しの土俵に上がろうとした時にふらついた様子を見せていたため審判部長の9代高田川が「脳震盪を起こしている」と判断して貴源治の不戦勝とする決定をしたものである[37]。炎鵬は「負ける以上に悔しかった。(中略)ルールなので仕方ないです」[38]と述べ、病院で検査を受けて異常が見られなかったため3日目以降も出場したが[39]最終的に4勝11敗と大きく負け越す結果に終わった[40]。 2022年3月場所は幕下への陥落も見え始める西十両11枚目の地位を与えられたが、この場所は好調で11日目に勝ち越しを決める。勝ち越しを決めただけでなく、この時点で十両の優勝争いトップを1差で追う展開となった[41]。この場所は10勝5敗で終えて十両優勝こそ逃したが、自身初の2桁白星[42]。その後3場所連続で負け越し、東十両11枚目で迎えた11月場所で2度目の2桁勝利となる10勝5敗。 2023年、1月場所11日目の千代栄との取組で右目の眼窩底骨折を負い、1月27日に手術を受けた。翌28日には両国国技館にて元兄弟子で現師匠宮城野(元横綱白鵬)の断髪式が挙行されたが、十両土俵入りに参加したものの取組は不参加となった[43]。 長期休場5月場所では初日から9連敗し、「頚部椎間板ヘルニアにより、約3カ月の加療を要す」との診断書を提出し10日目から休場した。この為、炎鵬の場所後の幕下への陥落が濃厚となった[44]。7月場所、28場所連続で守り抜いた関取の座から正式に陥落し西幕下筆頭に番付を下げたが同場所も全休した。西幕下41枚目に番付を落とした9月場所前の8月29日、5月場所の休場前以来となるまわしを締めての稽古をようやく再開、「どこまで落ちても土俵に必ず戻りたい。その一心でやっている」「首のけがの後遺症で筋力が落ちている。体調が100%になるまでは出場しない」と述べ、翌年1月場所での復帰を目標に掲げた[45]。 2023年11月30日、炎鵬は北國新聞社を訪れ、炎鵬関石川県後援会長でもある飛田秀一会長と懇談した。そこで「引退は1ミリも考えていない。3月の春場所での復帰が見えてきた」と言い切った。2024年3月場所は序二段での再出発となるも、「入門した頃に戻るだけ」と悲壮感はなかった[46]。 12月の冬巡業中の記事によると、炎鵬の休場理由は当初の頸部椎間板ヘルニアに加え脊髄損傷であった。医師からは「すぐ手術するしかないですね。日常生活に戻るため相撲はあきらめてください」と宣告を受け、師匠・宮城野親方からも「今までよくやった」と声をかけられた。2週間の入院中は寝たきりだった。だが、「無理と言われるとやりたくなる性格」と複数の病院を訪ね、経過観察に臨んだところ回復の兆候が現れたため手術は回避された。その後、出会ったのが首の負傷で一時引退危機にあったラグビー日本代表の堀江翔太をラグビーワールドカップ4大会連続出場に導いた佐藤義人トレーナーだった。リハビリは1本の紐を結ぶところから始め、首、背中の筋肉を鍛えることで徐々に痛みは消えていった[47]。 2024年1月場所は場所直前の時点で能登半島地震に被災した故郷を想い、炎鵬も出場に意欲を見せたことで出場の可能性もあったが[48]、結局1月場所も休場を選択し、翌3月場所での復帰を目指すこととした[49]。 2024年3月場所では番付が東序二段54枚目まで下がってしまったが、この場所からの復帰を目指し、心機一転するべく四股名を「炎鵬友哉」と初土俵時に名乗っていた名前に戻したことを明らかにした[50]。しかし、故障箇所の回復が捗らず、主治医と相談した結果を踏まえて3月場所も休場することになった。元同僚力士の不祥事発覚により本来の師匠である宮城野親方に代わり3月場所で師匠代行を務めている玉垣親方(元小結・智乃花)は、「力士生命はもちろん、自身の人生にも影響するけがの箇所。とにかく治すことを優先してもらいたい」と話した[51]。 2024年3月28日、日本相撲協会の理事会で宮城野部屋は同年4月以降無期限で伊勢ヶ濱一門預かりとなり、宮城野部屋に所属する全員が同一門の伊勢ヶ濱部屋に転籍することを決定した[52]。 2024年5月場所の番付は、番付運次第では序ノ口陥落の可能性もあったが、当場所の序二段の下から2番目に当たる東序二段100枚目に踏みとどまった。転籍後も伊勢ヶ濱部屋で申し合い稽古に参加していたが、番付発表後は大事を取って軽めの調整が続いており、5月場所も初日からの休場が決まり、結局全休した[53]。場所後の2024年5月28日、北國新聞社を訪れた際には、首のけがは順調に回復しており、「今は元気そのもので復帰へ着実に歩んでおり、早く土俵で元気な姿を見せたい」と語っており、本場所復帰へ意欲を示すと共に、5月場所で優勝した大の里との対戦にも意欲を示した[54]。場所後の6月1日、国技館で行われた「石浦引退間垣襲名披露大相撲」では兄弟子である23代間垣(石浦)の依頼で弓取を行った[55]。7月場所は西序ノ口13枚目まで陥落した。2024年7月場所前の週刊誌報道によると、元三段目・響龍の事故死を経た協会の審判規則変更の影響で、本場所に出たくても協会からストップが掛かっているという[56]。休場中に部屋の横綱となった照ノ富士から「このままじゃ無理だよ。その番付なりの相撲しか取れない」と覚悟の足りなさを指摘されて突き放され、これが却って自分を奮い立たせる原動力となった[57]。 休場からの復活2024年7月場所前、1年2ヶ月ぶりの出場を表明した。「いつかは決めないと土俵には上がれない。覚悟はできている。何を言われても自分の人生なので」と、けがの再発のリスクと隣り合わせとなる、復帰場所への決意を語った。番付外となることを避けて、1番だけ取ることを選ぶ力士も多い中、「7番取ります。7番取らないと、やりきったとはいえない」と、早々に皆勤を宣言した[58]。7月場所、2日目の1番相撲は420日ぶりの本場所出場となったが、清水海に敗れた。それでも炎鵬は辛い日々を思い返して涙ぐみながら「言葉にならない。感謝しかない」とのコメントを残した[59]。翌日3日目の2番相撲は隈乃花を寄り切り、478日ぶりの白星を挙げ、「勝つというのはうれしいことですね」と喜びを噛みしめ、「誰も想像がつかない未来を作りたい」と力を込めた[60]。最終的には炎鵬自身は6勝1敗となり、1番相撲に清水海に敗れた以外は全て勝つ形となり、唯一敗れた相手である清水海は7戦全勝で優勝する形となった。9月場所中は地元・石川のことを聞かれると笑顔で「大の里一色じゃないですか。それでも誰かの耳に入って、まだやっているんだと応援してもらえたらうれしいですね」と語っていた[61]。序二段で臨んだ9月場所は1番相撲から5連勝で来ていたが、11日目の6番相撲で今村に寄り倒され、7戦全勝・優勝はならなかった[62]。7番相撲は勝って最終結果は6勝1敗の成績だった。三段目で臨んだ11月場所は初日から6連勝としたが、13日目の7番相撲で藤闘志に押し出され、またしても7戦全勝・優勝を逃した。復帰後3場所連続の6勝1敗で、「すべてにおいて自分が劣っていたので負けた」「この負けにも意味がある」とコメントしていた[63]。 取り口「ひねり王子」との愛称で呼ばれるように、捻りが得意手。捻りであれば特に左右の区別なしに両方から捻りを繰り出す。また、上手下手も特には関係がないようであり、これまた両方から捻りを繰り出す。兄弟子の石浦が潜りこんで前ミツを取るのに対して、炎鵬はひたすら動いて横から崩すのが特徴で、師匠の12代宮城野からは「絶対に止まってはダメだ」と指導されている[64]。 十両昇進当時から、体は小さいが圧力を掛けながら相撲は前に出る正攻法であり、稽古場では石浦とも五分五分で、勝つことこそできなかったものの白鵬を押し込むこともあった[1]。新入幕の時点では、足取りは得意だが稽古土俵では特に足取りをやらないという[65]。 滅多に変化をしない力士[66]であり、2020年3月場所中日の阿武咲戦で変化した際には意外の意を示す報道も見られた[67]。 2020年1月場所初日の取組では普段行わない張り手で宝富士の腰を引かせて寄り立ててから、宝富士が攻め返そうとしたところに下手投げを決めている。北の富士は自身のコラムで「よく考え抜いたと思われる頭脳的な相撲は、力強さも感じさせた。この分では今場所もやってくれそうである」と称賛していた[68]。同場所中日の遠藤戦を見た14代玉ノ井は「幕内で経験を重ね、大きい相手とやることにだんだん慣れて、動きも良くなっている。左を差して投げを打ったり、前に出たり相手が嫌がる相撲を取っていることが今場所の成績につながっている」と分析した[69]。 左を差してから頭を下げて右に付きながら抱える相撲は必勝パターンである。2020年1月場所2日目の取組では正代がこの必勝パターンを封じて上手投げで土を付けた[70]。 19代朝日山は2020年1月場所後の記事で、投げを打つときに地面に付くリスクをいとわず頭を地面すれすれまで下げて遠心力を利用する点、投げた後に廻しを離してのしかかる相手を躱す技術について触れている[71]。 2020年1月場所13日目の阿炎戦では自分より約50kg重い阿炎の右足を両手で取り、そのままスクワットの要領で持ち上げて土俵外に出している(決まり手は足取り)。下半身の力を存分に使ったからこそ、相手を持ち上げることができたのである[72]。 7月場所は直前の5月場所が中止となった影響で動きが鈍くなっていると自ら分析していた[73]。 9月場所7日目の琴奨菊戦で敗れた際に花田虎上は「相撲を覚えられてしまった。上下の運動だけで相撲を取っている。左右の動きもあると、相手を怖がらせることができる。体重が減ったというが、当たっていっているのでいい。ただ小さいので、上体が高くなれば一発で持っていかれてしまう」と話した[74]。 巨漢力士のパワーをまともに受けると弱く、2020年9月場所10日目の逸ノ城戦で黒星を喫した際はABEMAの解説を務めた熊ヶ谷から「炎鵬からしたら体力差が出てしまった一番。力技になかなか残せない」とポイントを指摘された[75]。 元小結の舞の海秀平(平成の牛若丸)と同じ小兵力士なので取り口が似ていることがあり、その舞の海にあやかって(令和の牛若丸)と呼ばれる。 炎鵬の高い技術は本人の素質も然ることながら、白鵬が持つ限りの技術を伝授していることによるところが大きい。また、部屋の兄弟子の石浦に教わって筋力トレーニングを行って鍛え上げた体幹も特筆される[76]。白鵬早専門のトレーナーから教わったストレッチで磨き上げた柔軟性も備わっている。食事面では好き嫌いが多い上に食が細く体重が増えない点はサプリメントをタイミングを考えて摂取することで補っている[77]。一方、2020年3月5日放送の『櫻井・有吉 THE夜会』(TBS)での話によると大の稽古嫌いであるといい、ぶつかり稽古すらも角界入りしてから初めて経験したという説もある[78]。 2020年11月場所中、元横綱・朝青龍は自身のTwitterで「日本レスリング協会の協力を受けてレスリングの足取りを修行するべきだ」という趣旨のつぶやきを行っていた[79]。同場所、相撲が正攻法であるため相手に相撲を覚えられてきたこと、幕内に上がった頃に99kgあった体重が92kgまで減ってしまったことなどを14代二子山に指摘された[80]。花田虎上はABEMAの解説でこの場所の様子について、動きが本来より鈍いこと、食いつく仕草が見られないこと、大きい力士に抱えられてしまうことを指摘した[81]。 エピソード角界入り前
角界入りから十両昇進前
十両昇進時のプロフィール
十両昇進以降
略歴
主な成績2025年1月場所終了現在 通算成績
三賞
各段優勝
場所別成績
合い口2024年11月場所終了現在 (以下は最高位が横綱・大関の現役力士)
(以下は最高位が横綱・大関の引退力士)
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太字は2024年11月場所終了現在、現役力士。
改名歴
メディア出演テレビ番組
ラジオ
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脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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