大喜鵬将大
大喜鵬 将大(だいきほう まさひろ、1989年5月13日 - )は、福岡県飯塚市出身(一時東京都江東区[2])で宮城野部屋に所属していた元大相撲力士。本名および旧四股名は山口 雅弘(やまぐち まさひろ)。横綱白鵬の初の内弟子として入門したが、白鵬が宮城野部屋を継承する前に引退したため、結果的に白鵬と正式な師弟関係を持つことはなかった。身長182cm・体重136kg。最高位は西前頭16枚目(2013年5月場所)。 来歴出生地は福岡県飯塚市だが、3歳の時に家族と共に都内に転居した[3]。幼少期はラグビーをしていたが、練習メニューの一環として相撲を始めるよう父親からの提案を受け[4]、小学校4年次に近所の道場へ通い始め、中学校は相撲に本腰を入れるべく実家を離れて鳥取市立西中学校へ進学、3年次には全国都道府県中学生相撲選手権大会個人戦で優勝した。高校は西中学と一貫練習を行っている鳥取城北高校へ進学。1年次に出場した全国高等学校総合体育大会相撲競技大会では1年生ながら高校横綱となる大快挙を挙げた[4]。1年生横綱は久嶋啓太(後の前頭・久島海啓太)以来24年ぶりのことであった[5]。決勝戦の相手は李大源(後の前頭・栃乃若導大)であったが、翌年の大会では準々決勝で対戦し、敗れてしまった[6]。高校卒業後は日本大学文理学部体育学科へ進学、1年次の入学直後に出場した第25回全日本大学選抜相撲宇和島大会個人戦・新人戦を連覇して頭角を現した。4年次には主将を務め、国体相撲成年個人の部で優勝、国体横綱となった。大学時代には明月院秀政(後の小結・千代大龍秀政)を電車道で破るなど、当時からその実力は高く、高校・大学の先輩でもある田宮啓司(元大関・琴光喜啓司)からは既に幕内級の実力があると認められていた[7]。 高校・大学在学中のアマチュア時代に前述を含めた19個のタイトルを獲得した山口は、琴光喜を経由して知り合った横綱白鵬からのスカウトを受け、宮城野部屋へ入門した[8]。本人も「強くなってオレも白鵬関みたいな華やかな生活を送りたい」と気を良くして入門を決めたという。 国体横綱ということで幕下付出での入門が承認され[9]、2012年3月場所、幕下15枚目格付出で入門した。学生相撲出身者は同期生におらず、平成生まれで初の学生相撲出身となった。初土俵から2場所連続で勝ち越し、3場所目となった同年7月場所では東幕下5枚目の地位で7戦全勝の幕下優勝を果たし、9月場所での新十両昇進を決めた。新十両昇進と同時に、それまで本名のままであった四股名を「大喜鵬」に改めた[4][10]。場所後、両国国技館で行われた昇進披露宴では「皆さまのおかげで無事に昇進できました。これからはしこ名の通り、大勢の人に喜んでもらえるよう、稽古に精進していきます」とあいさつを兼ねて四股名の由来を語った[11]。その後、十両は4場所で通過した[12]。 2013年5月場所に於いて新入幕(西前頭16枚目)を果たし、それに合わせ日本相撲協会に届け出る出身地を東京から自身の出生地である飯塚市に変更。福岡県出身力士の新入幕は、2011年11月場所の松鳳山以来23人目。当場所は腰から落ちる相撲に終始し下半身の脆さを露呈してしまい、初日から7連敗するなど3勝12敗と大きく負け越した[4]。翌7月場所・続く9月場所も調子が上がらず連続して7勝8敗。続く11月場所は9日目に2勝7敗と負け越し寸前に追い込まれるも、御当地力士として受けた声援に元気づけられ「成績がついてくれば応援ももっと増えるのかな」と奮起した[13]甲斐あって千秋楽まで6連勝と挽回して4場所ぶりの勝ち越しを果たした。 2014年1月場所は9日目の照ノ富士戦で左脇腹を骨折したことで10日目から千秋楽まで1勝5敗と大きく失速し、場所を5勝10敗の不成績で終えた[14][4]。東十両14枚目と後がない状態で迎えた同年5月場所では、足の指の付け根に水が溜まる故障に苦しみ最終的に2勝13敗と大敗し、11場所連続で務めた関取の地位を手放すことになった[15]。東幕下10枚目から出直す形となった翌7月場所は4連敗後に腰の手術のために途中休場[16]。その後も手の震え・20kg近い体重減少など体調不良が続き[17]、アルコール依存症を疑われたこともあったとされる。入門当初の地位を下回る西幕下45枚目まで後退した翌9月場所も7戦全敗と振るわず[18]、翌11月場所は東三段目21枚目まで番付を後退させてしまったが当場所は4勝3敗と1年ぶりに勝ち越した。 2015年3月場所から四股名を本名の山口に戻した。当場所後、甲状腺疾患の「バセドウ病」と診断され「どこまで回復できるか分からないが、薬が駄目だったら(相撲を)やめよう」とまで覚悟を決めて臨んでいた[16]。投薬治療が効果を上げて体調は徐々に回復したこともあって、同年11月場所より幕下に復帰。罹患前は努力を苦手としていたが、同時期には「コツコツしないと不安になる。朝起きたら1日1個、課題を考えて取り組んでいる。一日一日しっかり生きよう」と、生活態度の変化を示していた[18][16]。 2016年7月場所は西幕下8枚目まで番付を戻し、6番相撲まで負けなしであったが7番相撲で竜勢に敗れ、関取復帰は持ち越しとなった[19]が、東幕下2枚目で臨んだ翌9月場所は突き押しや土俵際の粘りが冴えたことで[16]7戦全勝で2回目の幕下優勝を果たし、その後の取材では「玉木(7番相撲の相手)はいい相撲を取っていたので、一生懸命にやって勝ちたいと思いました。勢いのある力士と取れてよかったです。」とほっとした様子を見せていた[20]。当場所後の番付編成会議で2年半ぶりの関取復帰を決め[21]、記者会見で「以前(幕内昇進時)は『花火のようにパッと行って、はかなく散った』と周りから言われた。次は根っこの太い、先がきれいな花になりたい」と意欲を燃やしていた[16]。関取復帰直後の翌11月場所を9勝6敗と勝ち越し、幕内在位経験者が幕下以下の地位で皆勤全敗を記録し、その後に関取復帰したケースは史上初であったが、これに「復帰後に関取の地位で勝ち越した」とするもう一つの史上初が加わる形となった。[18]。関取の地位での勝ち越し自体も自身としては丸3年ぶりであった。 2017年1月場所は番付運に恵まれずわずか1枚半上昇の東十両9枚目の地位となったが当場所でも9勝6敗と勝ち越した。場所後の2月1日には当時26歳で元ネイリストの一般女性と結婚。2015年2月に行われた琴光喜の断髪式で知り合い、付き合ってから9場所連続勝ち越しと運気が上がったと言う。結婚を公にした際には「最初の子が記憶あるぐらいまでは活躍したい」と、抱負を語っていた[22]。翌3月場所も8勝7敗として3場所連続で十両で勝ち越した。その後は十両を維持しながら一進一退を続けていたが、東十両12枚目で迎えた2018年1月場所において4日目から10連敗した上に右膝を負傷し14日目から休場するなど、僅か2勝に留まり、関取の座を再び失うこととなった。当場所後、山口は「もう終わったこと。次のことを考えないといけない。15枚目以内には残ると思うので、7戦全勝のワンチャンスに懸けたい」と意気込んでいた[23]が、翌3月場所も2勝5敗と負け越し。その後も調子を取り戻せず、2018年の6場所全てを負け越し、2019年1月場所では再び三段目まで降格した。以降も負け越しが続き、2019年9月場所では自己最低地位の三段目89枚目まで番付を落としてしまった。 結局、当場所千秋楽となる2019年9月22日、日本相撲協会に引退届を提出し現役引退が発表された。後縦靱帯骨化症で稽古もままならず、医師には手術をしても相撲が出来るまで回復する保証は出来ないと告げられ、悪化すると日常生活にも支障を来たす恐れがあり、これ以上幕下以下で暮らして家族に迷惑をかけることができないこともあって2019年の3月に宮城野と白鵬に引退を相談していたと言う[24]。引退当初は宮城野部屋の業務を手伝いながら人材派遣業に携わる意向を示し[25]、2020年2月29日放送分のTBS系『バース・デイ』で人材派遣会社で働いている様子が放送された[26]。ちゃんこを一般の人にもっと届けたいという思いから会社を立ち上げ、2022年5月に夫人の地元である名古屋市で『大ちゃん食堂』という名でキッチンカーを開業し、ちゃんこ鍋や唐揚げを販売している[27]。2023年現在は、キッチンカーの事業を継続しつつ、宮城野部屋のコーチや同部屋所属力士の送迎役も務めている[28]。 2023年1月28日に開催された白鵬の断髪式には髷が残った状態で参加し、自身の断髪式は新型コロナウイルスの流行・キッチンカー事業の多忙・兄弟子白鵬(宮城野親方)の断髪式の準備を優先せざるを得なかったなど、複数の事情が相重なり、引退から約4年後の2023年9月3日に両国国技館の大広間で行われ、元大関豪栄道の武隈親方や弟弟子の炎鵬、日大時代の同期の間垣親方(元幕内・石浦)など230人が鋏を入れ、宮城野親方が止め鋏を入れた[29]。 エピソード人物
土俵上のハプニング
その他相撲関連
私生活主な成績
各段優勝
場所別成績
幕内対戦成績
改名歴
映画
脚注
関連項目
外部リンク |