津雲国利
津雲 国利(津雲 國利[1][2]、つくも くにとし[1]、1893年(明治26年)10月18日[3] - 1972年(昭和47年)1月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選8回)[4][注 1]。拓務政務次官、政友会幹事、翼賛政治会常任総務などを歴任[6]。 生涯東京府西多摩郡青梅町上町(現・東京都青梅市)出身。津雲亮光の二男[7][8][注 2]。津雲孝の弟[10][11]。 旧制東京府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)卒業[4]。安田銀行員養成所修業[12]。安田銀行、古河銀行に勤務した[7][8][9]。古河銀行宇都宮支店長をつとめた[10][11]。 宇都宮市に於いて新聞経営に従事した[7][9]。下野銀行相談役、下野新聞社顧問[2]、下野日日新聞社顧問などを歴任した[13]。1922年(大正11年)に分家し[7]、一家を創立する[2]。 1928年(昭和3年)の普通選挙による最初の総選挙で当選し政界に入った。通算8回衆議院議員に当選した。戦前は立憲政友会に所属し、久原房之助直系の政治家として政友会の幹事、総務、顧問を歴任した[14]。1938年(昭和13年)、二・二六事件に際し久原房之助とともに亀川哲也を匿った容疑で起訴、罰金100円の求刑があったが、1938年(昭和13年)5月6日、東京刑事地方裁判所で無罪判決を得ている[15]。しかし同年、防共護国団事件に関係して議員を除名された[4]。1939年(昭和14年)9月、拓務政務次官に任ぜられた[7]。 1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては久原や鳩山一郎とともに正統派に所属したが、鳩山・三土忠造ら自由主義的な議員が多い政友会正統派内にあって津雲は総裁・久原とともに数少ない親軍派として知られた。政党解消後は翼賛政治を押し進め、東條内閣に対しても政権末期に親軍派の中から倒閣運動を支持する者が出てきた中にあって最後まで東條内閣を支持した。財団法人満州移住協会で役員を務めた[16]。 戦後は旧政友会正統派の大半を占める鳩山系の議員が結党に参加したものの旧反軍派の流れを汲む日本自由党にも、親軍派の政治家が多く所属した大日本政治会を母胎としながらも鳩山系は勿論久原系も含め政友会正統派の議員が殆ど結党に参加しなかった日本進歩党にも参加せず[注 3][17]、岡田忠彦・西村茂生・肥田琢司・東条貞・松浦伊平ら旧政友会正統派内の他の久原系の議員とともに院内会派・無所属倶楽部の結成に参加した[18]。だが翼賛議員同盟の理事を務める等翼賛議会の要職を歴任したため公職追放された。 追放解除後は自由党に復党したものの1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙には落選し、翌年の第26回総選挙で返り咲きを果たした。連続6回当選を果たした戦前とは対照的に戦後は選挙が弱く、6回総選挙に立候補して当選したのは2回だけだった。1955年(昭和30年)の第27回総選挙に落選した後保守合同により自由民主党の結党に参加し、自民党内では久原の娘婿・石井光次郎が率いる水曜会(石井派)に所属した。1960年(昭和35年)の第29回総選挙に当選して2度目の返り咲きを果たし、自民党石井派の代議士として活動したものの、3年後の第30回総選挙に落選し、政界から引退した。 1972年(昭和47年)1月4日、78歳にて死亡。 政策・主張主張戦後の再軍備問題について津雲は、「いまだその時期でなく、国民生活が安定してから行うべきだ」と述べた[19]。特に主張するところは「庶民金融の法制化」と「遺家族援護の強化」および「占領政策の再検討」で、家族制度の復活を強調した[19]。 政見戦中に津雲は、「翼賛政治の根本理念は、どんなに長期戦になるとも、いかなる強敵があらわれても、必勝する大信念と大戦争力とを生みだして、戦争に従事する勇士諸君をして後顧の憂ひなからしむること以外に何ものもあり得ないと固く信じて疑ひません」と政見を述べていた[13]。 政見綱領
人物人柄『実業の世界』からの「あなたは25歳の頃に何をしていたか。その当時の収入及び生活状態はどうだったか」という問いに津雲は「古河銀行員を辞して、会社、商店等の経営に当たりました。年収2万円くらい。独身、家族は両親と舎弟と女中、書生質素に暮らして他日の雄飛に備えました」と回答している[21]。 27歳で政界入りを決意、時の政友会幹事長横田千之助の知遇を得る[19]。34歳で青梅から立候補して当選する[19]。 駆け出しの頃はスキャンダル摘発の名人として浜口内閣はじめ民政党の人を震えあがらせた[22]。三多摩自由党壮士の風を身につけた強面の政治家であり、どすのきいた弁舌で明糖事件や帝人事件の綱紀問題追及に凄みを見せ[23]、その精密な調査に検察当局さえ驚いたという[22]。また軍部・右翼とも密接な関係を持った。 鳩山一郎とはソリがあわなかった[22]。都内の自邸は1945年5月25日の空襲により焼失した[24]。 趣味は読書、旅行[7][11]、仏像研究[8]。宗教は仏教[7][8][11]。住所は東京青梅町青梅、新宿区払方町[8]。 略歴
家族・親族
青梅市住江町にある昭和初期の建築物「津雲邸」の一般公開が2014年11月から開始された[25]。
脚注注釈出典
参考文献
外部リンク
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