芦田伸介
芦田 伸介(あしだ しんすけ、1917年〈大正6年〉3月14日 - 1999年〈平成11年〉1月9日)は、日本の俳優。本名:蘆田 義道(あしだ よしみち)[1]。 満洲で演劇活動に加わり、敗戦の引き揚げ後に劇団民藝に入団。1950年代からは日活のアクション映画に常連出演し、舞台を中心に映画・テレビドラマと幅広く活躍した。渋い演技に定評があり、ドラマ『七人の刑事』『氷点』の演技で人気を得た。著書に自伝『ほろにがき日々』など。妻は元タカラジェンヌの香久美ひかる(本名:石川明子)。娘婿は俳優の松山英太郎、孫は女優の由夏と俳優の芦田昌太郎。 来歴・人物1917年(大正6年)3月14日(水曜日)、島根県松江市に生まれる。生家は松江藩の典医や剣術指南役を務めた家柄で、父は剣道教師だった[2]。松江商業学校(現:島根県立松江商業高等学校)を経て、東京外国語学校(現:東京外国語大学)のマレー語学科に入学する[2][3]。 1937年(昭和12年)、学校を中退して満洲に渡り、大連で『ワーニャ伯父』の舞台を観て新劇の世界を志す[4]。満洲電業に勤める傍ら新京放送劇団に加わり、森繁久彌と知り合う[2][3]。1943年(昭和18年)、満洲映画協会の『血銭芙蓉』で映画に初出演する[4]。満洲在留中、芦田は石川明子という女性と恋愛関係にあった。石川は新京の放送局でピアノ弾きをしていたが、渡満前は香久美ひかるという芸名のタカラジェンヌだった[5][注釈 1]。石川の父は満洲キリスト教団布教区長を務める牧師で、厳格な人だったため、なかなか結婚を認めてもらえなかった。窮余の一策で森繁の取り成しでようやく許しを得て、1945年(昭和20年)2月に結婚した[3][5]。結婚から6ヶ月後に敗戦を迎え、妻子を抱え生死の境をさまよったが、1947年(昭和22年)にやっとのことで帰国する[4]。 帰国後の1948年(昭和23年)に森繁らとコッコ座を結成する[2][3]が失敗し、劇団文化座を経て1949年(昭和24年)に劇団民藝に入団する[4]。舞台で活躍し、民藝がユニット出演する『原爆の子』『夜明け前』などの独立プロ映画にも出演する。当時は精悍でぶっきらぼうで、渋い地味な脇役を演じた[4]。1950年代後半になるとアクション映画全盛の日活で悪役や刑事役を演じて常連出演するが、1958年(昭和33年)3月2日未明、NHKでラジオドラマの仕事を終えての帰路、乗車していたタクシーが小石川橋の都電の安全地帯に衝突する、という事故に遭遇。後部座席からフロントガラスを顔面から突き破り、顔面の裂傷や右眼球破裂など147針に及ぶ重傷を負う。顔の傷と共に失明の危機や、事故のショックにより一時失語症となり、役者生命が危ぶまれるが、翌年には再起を果たす[6]。 1961年(昭和36年)、TBSの人気ドラマ『七人の刑事』に沢野部長刑事役でレギュラー主演。さらに1966年(昭和41年)のNETのドラマ『氷点』で深い葛藤を内に秘めた中年男性を演じ、この2作で爆発的な人気を得た。また、舛田利雄監督の映画『わが命の唄 艶歌』では、艶歌の竜と呼ばれる名物レコードディレクター・高円寺竜三(モデルは馬渕玄三)[注釈 2]を演じ、後にドラマ『涙の河をふり返れ〜艶歌より』『海峡物語』でも同役を演じるほどの当たり役となった。 1970年(昭和45年)、劇団民藝を退団し、以降は商業演劇や新派にも出演した。映画・テレビでも多くの作品で活躍した。1997年(平成9年)、日本新劇俳優協会副会長に就任する[2]。 1989年(平成元年)頃からC型肝炎、肝臓がんを患って闘病生活を続けるが[2]、俳優としての活動は精力的に続けた。1996年11月2日の生活ほっとモーニング(NHK)でゲスト出演した藤子不二雄Aへのビデオメッセージでがんを告白した[7]。1999年(平成11年)1月9日午後8時12分、肝臓癌のため東京都中央区の国立がん研究センターで死去。81歳没[8]。翌日の納棺式に森繁などが参列した[9]。同年11月10日、松江市名誉市民の称号を贈られる。 一人娘である亜子は、松山英太郎と結婚。一男一女(のちの女優・由夏と俳優・芦田昌太郎)に恵まれるが、その後離婚。後年、芦田は「もう一人の父になりたい」との思いから二人を養子にしている。晩年は亜子が芦田のマネージャーを務めた。 受賞・受章歴
出演映画太字の題名はキネマ旬報ベスト・テンにランクインした作品
テレビドラマ
舞台
吹き替えCM書籍
ディスコグラフィー
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク |