逢坂誠二
逢坂 誠二(おおさか せいじ、1959年〈昭和34年〉4月24日 - )は、日本の政治家。立憲民主党所属の衆議院議員(6期)、衆議院沖縄北方問題特別委員長、立憲民主党北海道総支部連合会代表[1]。姓の漢字は正確には部首が⻍ではなく⻌の「逢」[2]。 北海道ニセコ町長(3期)、総務大臣政務官(菅直人第1次改造内閣・菅直人第2次改造内閣)、内閣総理大臣補佐官(鳩山由紀夫内閣・菅直人内閣)、旧立憲民主党政務調査会長、立憲民主党代表代行を歴任した。 来歴生い立ち北海道虻田郡狩太町(現:ニセコ町)に生まれる。父親は樺太の旧野田町に生まれ旧恵須取町で育った[3]。母親も他県の出身者で、二人で日用雑貨屋を営んでいた。小学校に上がると父親に命じられ、低学年からヤクルトや牛乳の配達、集金などをし家業を手伝った[4]。1978年に北海道倶知安高等学校を卒業。札幌市の予備校の寮で一浪したのち[5]、1979年に北海道大学薬学部に入学。学業のかたわら音楽活動も熱心に行った[6]。 免疫学の研究者になることを望んでいたが、大学4年生の秋に父親が病気になり、研究職の道を断念[7]。故郷で転勤がない就職先はあまりなく、しかたなく町役場の試験を受ける。1983年3月大学卒業後、4月ニセコ町役場へ入庁[8]し、旧社会党系の自治労に加盟。1984年、薬剤師免許を取得。仕事の合間に、北海道大学や慶應義塾大学の研究室に出入りしながら法律の勉強を少しずつ始めた[6]。 ニセコ町長へ係長をしていた1988年、町長を目指すきっかけとなった黒澤明監督の『生きる』を見る[9]。また同年、「まちで街路整備事業をやりたい」という町民が現れる。町役場とは無関係の自主的取り組みであったが、毎晩のように町民と話し合う生活がそれから6年間続く。情報公開と住民参加の原理の重要性を実感し、町長選挙に出ることを考える。1994年7月、北海道大学の大学院生であった田中秀征衆議院議員の話を聞く機会があり、田中の「僕は選挙弱いんだよね、勝った数より負けた数が多い」という言葉に強く背中を押され[6]、8月にニセコ町役場を辞職。推薦団体はゼロ、支援した町議は一人だけであったが、同年10月16日に行われたニセコ町長選挙で現職の渡辺冨雄を僅差で破り初当選した[10][11]。 1998年、情報公開条例を制定[12]。同年10月、無投票で再選。2000年12月、全国で初めてとなる自治基本条例(まちづくり基本条例)を制定[13]。 町長選挙を直前に控えた2002年9月17日、札幌市の市民グループから翌年の北海道知事選挙への出馬要請を受ける。この申し出を断り、10月に無投票で3選。 3選後の2002年12月20日に連合北海道から、12月27日には市民グループ8団体から、2003年1月22日には民主党から出馬を請われ、動向が注目されるところとなった。同年2月2日、知事選不出馬を正式に表明[14]。2月12日、一連の騒動の責任をとるとして、議長に退職申出書を提出し、ニセコ町長職への辞意を表明する[15]。逢坂は辞職の経緯を理解してもらうための説明会を開くが、会場から「撤回を求める署名を集めたい」との声が上がる。2月17日から21日まで署名活動が行われ、15歳以上の町民の77%にあたる3000人分の署名が届けられた[16]。2月24日、町議会は全員協議会を開き、撤回を求める署名が集まったことなどを考慮し、退職の同意案件を臨時議会に提出しないことを決めた[17]。2月26日、逢坂は議長と会談し、辞職を撤回すると伝えた[18]。 2004年、内閣府が行った調査で、ニセコ町は参考にしたい自治体の1位となった[19]。 衆議院議員へ国政に目が向くきっかけは「小泉構造改革」だった。小泉内閣は地方交付税の削減を政策として推し進めた。2004年12月2日にNHKホールで開かれた全国町村長大会[20]。小泉純一郎首相が会場を出る時、逢坂はステージに向かって「このままじゃ日本がつぶれるぞ」と大声で叫んだという。その後、地元新聞のインタビューに「地方自治のことがわかる国会議員がいないとだめだ」と答えると、それを見た民主党衆議院議員(当時)の鉢呂吉雄から「あんたがやらなきゃだめだ」と言われる[21]。 2005年8月8日、衆議院解散。8月23日、鉢呂は岡田克也代表の意向を受けてニセコ町役場を訪ね、逢坂に立候補を要請[22][23]。8月25日、逢坂は比例北海道ブロック単独1位候補として立候補することを正式に表明し、8月29日に町長を辞職[14]。同年9月の第44回衆議院議員総選挙で初当選した[24]。 2007年、第21回参議院議員通常選挙の比例区への鞍替えが持ち上がり、逢坂自身も鞍替えを一度は承諾したものの、民主党本部の常任幹事会では否定的な意見が出され、最終的に転出は見送られた。これは、逢坂の出身地であり町長を務めたニセコ町を含む後志総合振興局の北海道4区は前述の鉢呂吉雄の地盤であり、第45回衆議院議員総選挙で選挙区調整の難航が予想されたことによる。北海道8区選出の金田誠一が同年10月に脳梗塞を発症して次期総選挙への不出馬を表明したため、逢坂はかつての鉢呂の地盤でもあった北海道8区で公認を受ける。 2009年の第45回衆議院議員総選挙で、北海道8区で自由民主党公認の福島啓史郎を大差で破り再選[25]され、鳩山由紀夫内閣で内閣総理大臣補佐官(地域主権、地域活性化及び地方行政担当)に任命されて以降の菅直人内閣まで務める。2010年9月に菅直人第1次改造内閣で総務大臣政務官(所掌は地方行政、地方財政、地方税制、消防[26])に任命され、菅直人第2次改造内閣まで務める。 2011年8月26日、菅直人首相が民主党代表辞任を正式に表明[27]。菅の辞任に伴う代表選挙は8月29日に行われ、逢坂は1回目投票では鹿野道彦に投票し、決選投票では迷った末に「北海道への新幹線延伸などをやってくれそうな期待」から海江田万里に投票した[28]。同年9月、野田内閣の発足に伴い総務大臣政務官を退任し、民主党副幹事長に起用された。2012年1月より民主党総括副幹事長に就く。 2012年12月の第46回衆議院議員総選挙で、日本未来の党が小沢一郎の女性運転手を擁立して日本共産党の新人を含めた4人の争いの末、自民党新人の前田一男元松前町長に敗れる。比例北海道ブロックで民主党が獲得した2議席に届かず、比例復活もならず落選した[29]。 2014年12月の第47回衆議院議員総選挙で、北海道8区で前回敗れた前田を破り、3選。2年ぶりに国政に復帰した。 2016年3月27日、民主党と維新の党が合流して結成された民進党に参加した[30]。 2017年7月27日、民進党代表の蓮舫が、同月の東京都議会議員選挙の結果を受けて辞任を表明[31]。蓮舫の辞任に伴う代表選挙(9月1日実施)では枝野幸男の推薦人に名を連ねた[32][33]。 立憲民主党への参加2017年9月25日、希望の党が設立[34]。9月27日夜、代表の小池百合子は、党への参加の条件について、憲法改正と安保法制への姿勢を重視する考えを示した[35]。9月28日、民進党は希望の党への合流を決定[36]。翌9月29日の早朝、逢坂は「無所属でやるしかない」と決断。すぐに地元の函館に戻って後援会などと会合を開き、意見を募った[6]。同日午後、記者団に「希望の党とはどうしても合わない。できれば無所属でやりたい」と述べ、民進党本部が求める希望の党への公認申請を見送る方針を明らかにした[37]。10月3日、枝野幸男らによって立憲民主党が結党される[38]。同党に入党した上で、同22日投開票の第48回衆議院議員総選挙に無所属で立候補し[39]、前田を破り4選。翌日、立憲民主党は役員会で逢坂を公示日に遡って追加公認することを決めた[40]。 2019年1月28日、立憲民主党の政調会長に就任[41]。同年8月24日、同党北海道連代表に就任[42]。 2020年8月24日、旧立憲民主党と旧国民民主党は、2つの無所属グループを加えた形で合流新党を結成することで合意した[43]。同年9月10日に行われた新「立憲民主党」の代表選挙では枝野幸男の推薦人に名を連ねた[44]。9月26日、立憲民主党北海道連が発足。旧党道連代表の逢坂が代表に就任した[45]。 2021年10月31日の第49回衆議院議員総選挙で、前田を破り5選[46]。11月2日、枝野幸男がこの総選挙で立憲民主党が伸び悩んだ責任を取り、党代表を辞任する意向を表明[47]。 逢坂が所属する党内の最大グループ「サンクチュアリ(近藤グループ)」は枝野の辞任に伴う代表選挙に向け、西村智奈美の擁立を検討していた。しかし、同グループ前会長で前衆議院議員の赤松広隆らが、経験不足などを理由に西村擁立に難色を示した。その結果、11月16日夜、国会内で会合を開き、必要な推薦人20人を確保した上で、町長と党要職経験のある逢坂を擁立する方針を決めた。逢坂はグループの要請を受け、同日、記者団に立候補する意向を表明した[48][49][50][51]。11月17日、記者会見し、正式に出馬表明[52]。11月30日の代表選挙では第1回目投票で2位となり、決選投票で泉健太に破れた[53]。12月1日、泉は党骨格人事を発表。逢坂を代表代行に起用した[54]。12月2日に開かれた両院議員総会で代表代行に正式就任[55]。 2023年5月9日、統一地方選挙での敗北を理由に立憲民主党北海道連代表を辞任する意向を表明した[56]。しかし、その後道連内で反対意見が相次いだことを受け、一転して任期満了まで代表を続投する考えを示した[57]。 2024年9月の立憲民主党代表選挙では、現職の泉の推薦人確保に取り組んだと説明する一方、自身は代表選で枝野を支援する意向を示した[58]。9月23日の投開票の結果、野田佳彦元首相が新代表に選出され、その後の党役員人事で逢坂は党代表代行を退任した。同月30日、党憲法調査会長に就任[59]。 同年10月13日、立憲民主党道連は、第50回衆議院議員総選挙に擁立予定の女性2人、元職の池田真紀(北海道5区)と、新人の篠田奈保子(北海道7区)を比例北海道ブロックの名簿順位で優遇すると発表した。また、逢坂は比例重複立候補しないとした。決定に先立ち、党内で「不公平だ」「比例の枠が減る」などの批判があったが、逢坂はジェンダーバランスの重要性を説き、道連代表として責任をとる形で自身の重複立候補を外した[60]。 同年10月15日、総選挙が公示され、北海道8区からは逢坂、自民党新人の向山淳、日本共産党新人の元函館市議会議員の本間勝美の計3人が立候補した[61]。10月25日、読売新聞は終盤情勢を発表。「優勢だった逢坂を向山が追い上げ、接戦となっている」と報じた[62]。10月27日、総選挙執行。投票締め切りの20時[63]直後に北海道文化放送は逢坂の当選確実を報じ[64]、逢坂は6期目の当選を果たした。自民党は比例北海道ブロックで3議席を獲得。単独1位の伊東良孝を除く2議席のうち、向山は2番目の惜敗率(84.909%)で初当選した[65][66]。同年11月13日、衆議院沖縄北方問題特別委員長に就任[67]。 政策・主張ニセコ町長時代
衆議院議員時代憲法
外交・安全保障
ジェンダー
公文書管理
エネルギー政策
その他
人物
選挙歴
著書
所属団体・議員連盟
脚注
参考文献
外部リンク
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