黒木基康
黒木 基康(くろき もとやす、1936年1月1日 - 2014年7月6日)は、宮崎県[1]出身の元プロ野球選手(外野手)。実兄の弘重も元プロ野球選手[1]。 経歴高鍋高では平原美夫監督の指導を受け、4番・一塁手としてプレーした。2年次の1953年には秋季九州大会に進むが、1回戦で九州学院に敗れた。3年次の1954年には夏の甲子園に出場し、同高は宮崎県勢として甲子園初出場を果たす[1]。本大会では1回戦で鶴見工に敗退し、黒木は高校卒業後に1955年に日鉄二瀬へ入社。1年で退社して1956年に日本大学へ進学し、東都大学リーグでは在学中に3度の優勝を経験した。4年次の1959年春季では専大の横山政之(日本石油)に次ぐリーグ2位の打率.448を記録し、同年の秋季ではエース宮田征典を擁し3年ぶりの優勝を飾る。リーグ通算では41試合出場、126打数36安打、打率.286、1本塁打で、ベストナイン(外野手)を1回受賞した。大学同期に高木時夫捕手、会田豊彦三塁手、笹木士朗(日本鋼管)外野手らがいた。 大学卒業後の1960年に大洋ホエールズへ入団し、1年目の同年は開幕戦となった4月2日の中日戦(中日)で伊奈努から初本塁打を放つ[2]。プロ入り3打席目でのソロ本塁打であった[2][注 1]。黒木はその後、5番・右翼手として活躍した。チーム最多の22盗塁を記録し、球団史上初のリーグ優勝に貢献した。8月23日の中日戦で転倒し鎖骨を骨折したため黒木は日本シリーズに欠場したが、大洋は日本シリーズで大毎を破り日本一に輝いた[1]。 岩本尭一軍打撃コーチの勧めによって1964年7月[4]ごろから一本足打法に取り組み[5][6]、打撃フォームが固まった[5]1965年には自己最多でリーグ3位の25本塁打を放ち、打率.283、61打点(リーグ8位)の好記録を残す。同年のオールスターゲームにも選出され、一本足打法の先輩[6]である巨人の王貞治と共に週刊ベースボールの表紙を飾った[7]こともあった。 1966年には2年連続2桁本塁打となる10本塁打を記録したが、両膝の故障と、実業家の義父の急死により兄・弘重と共に事業を手伝うことを選び、同年に現役を引退した[1]。 引退後は大阪市淀川区十三でレストランビルを経営し、高鍋高時代のチームメイトで投手であった杉尾貞邦が課長を務めた[8]。2014年7月6日、誤嚥性肺炎のため兵庫県神戸市東灘区の病院で死去した[9]。78歳没。 詳細情報年度別打撃成績
記録
背番号
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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